小説
最後の授業(後)



 ネイサンが東洋人の教師に抱いた感情は、筆舌に尽くしがたく、漠然としたというには固く形を持ちすぎていた。

「髪、長いままだね」
「惰性だ」

 自身に手配されたスイートルームへ上総を招き、ネイサンは数年間忘れることのない面差しをじっと見つめる。
 ネイサンの視線に居心地悪そうな様子もなく、上総は声をかけようとして閉じて、また開く。

「伯爵、と呼んだ方がいいのかな」
「先生が俺をロードなんて呼ぶとは思わなかったな」
「もう『先生』ではない」
「そうだね、先生はもう俺に対する盾がない。近く、俺は儀礼称号のアールから、本物のマーキスだ」

 大きなソファへ上総を座らせて、ネイサンは後ろから背凭れに手をついて、前を向く上総を見下ろす。
 相変わらず艶やかな黒髪は、最後に別れたときよりも短く、出会ったときよりも長い。そこになんの期待もないけれど、うれしい、と思う。

「先生、俺の先生」
「もう先生ではない」
「相変わらず冷たいね。いつだって先生は冷酷で、きれいだ」

 虐待を繰り返す教師に抱いた殺意は、冷徹に見抜く教師自身に圧し折られ、調教されたと分かっていても教師へ牙を向ける瞬間、ネイサンの身体は震える。
 いま、教師は教師ではなく、なんの力もない東洋人の下流層であるはずなのに、ネイサンは上総の首に触れようとしては震える手から力が抜ける。

「あなたを殺したい。痛めつけたい。先生が俺にした何倍も酷く」
「それが許される身分になれた。俺は自身の教育を誇ろう」
「あは、先生は分かってたんだ。契約により許可されたとしても、俺が先生を許さない、逃がさないって。だから、先生は俺に会いたくなかった。そうでしょう?」

 上総の前に回り、ネイサンは床に膝をついて、ソファに座る上総を見上げる。途端、上総の目が厳しく眇められるが、昔なら飛んできた教育の鞭も、いまはない。

「分かってるよ、先生。外ではやらない」
「すでに教師ではない人間の前でも、すべきことではない」
「顔、青褪めてるよ」

 立ち上がり、両手で包み込んだ上総の頬はひんやりと冷たかった。顔は、自分で温度調節ができない。イギリスの冬を大げさに寒がった上総が、呟いていたことをネイサンは覚えている。

「先生、俺の先生。あなたは俺を教育した。俺は取り繕うことを覚え、貴族社会を笑顔で闊歩できる。でも、俺は変わってないんだよ。できることが増えただけ、分別が備わっただけ、やりたいことは何も変わらない」
「それでいい。俺の教育は成功だ」
「先生は俺を人形にすることだってできたはずだ」
「『貴族』には名誉が必要だ」
「あなたのその教育が、俺を苦しめる」

 許された自我が暴れだしたいと叫ぶのに、教育された理性がそれを押さえつける。
 こつん、と合わせた額に、至近距離でのぞく黒い目。
 上総はネイサンの目をグリーンガーネットと称した。若草よりも深く、エメラルドよりも青くない。

「俺はもう、先生を囲うことができる。でも、そこから先は手が出せない。あなたがそう躾けたから」

 うっすらと、上総の顔が微笑んだ。のっぺりと凹凸の少ない東洋人の顔。その顔は、いつだってなんの色も浮かべなかった。
 上総の頬から離した手で拳をつくり、ネイサンはソファを殴りつける。反動でよろけた上総が膝の上においていた手を肘起きにつくので、その手を払って崩れた上総の上半身に覆いかぶさる。

「ずっと、ずっとずっと先生を犯したくて、嬲りたくて、それができなくて苦しいんだ」

 上総の肩を押さえる片手とは別に、もう片方の手を上総の心臓に這わせる。質が良いほうだろうけど、ネイサンであれば着ることのないシャツの衣擦れを聞いただけで、うっすらと伝わる体温を感じるだけで、ネイサンの下半身に熱が溜まる。
 上総は視線をネイサンの下半身に向け、それからネイサンの苦しげな顔に目を戻す。

「殺意が上回っていると思っていた」
「腹上死なら大歓迎。死体も犯してあげる」
「お前は昔からそうだ、ネイト」

 今まで、片手で足りるほどしか呼ばれたことのない愛称に、ネイサンはぽかん、と呆気にとられた。

「過去の支配者を屈服させてみろ。無様な過去を乗り越えろ。俺からの最後の授業だ」

 いつかのように乱暴に頭をつかんで引き寄せたネイサンの耳元に、掠れた上総の声が捻じ込まれた。



 しきりに侯爵子息との関係を突いてくる教授を交わしながら、上総は欠伸を噛み殺す。
 寝不足で頭がすっきりとしないが、飛行機のなかででも眠ればいいだろう。
 空港はひとが多く、静けさとは無縁だが、雑音として聞き流せばさほど気になることもなく、上総は教授の分と合わせて、さっさと手続きを済ませに行く。
 受付係がパソコンを操作する間、ぼんやりととりとめないことを考えていると、不意に「あら」と受け付け係が声を上げた。

「なにか」
「いえ、失礼致しました。少々お待ちください」

 なにやら慌てた様子の受付係がその場を離れ、戻ってきたときには明らかに上司らしき人物を連れていて、上総は面食らう。

「お待たせ致しました。ご案内いたします」
「はい?」

 手続きなど済ませたら、自分の足でゲートに向かい、出発までラウンジで適当に時間を潰すのが普通だろう。
 戸惑う上総をよそにVIPラウンジへと誘う係員に「連れが……」といえば「ご安心ください」と笑顔を返される。
 あっという間に混雑とは無縁の快適なラウンジへと案内され、飲み物が提供された。
 行きの時はこんなことはなかった。
 嫌な予感がする上総のもとへ、戸惑った様子の教授が案内されて「いったいなにが」と呟いているが、それに返す言葉はない。

「先生」

 呆然とソファに座り込んでいた上総の背中に、うっとりするような美しい英語の呼びかけがかかる。
 振り返った上総に微笑みかける男に、教授は「あ」と声を上げ、上総は思わず腰を浮かしそうになる。

「伯爵、これは……」
「丁度、同じ飛行機に乗るって聞いたから、手配してみたんだ」

 なんたってお世話になった先生だもの。
 くすくすと笑うネイサンは、たった一晩で一皮向けたような印象を受ける。十分な能力に溢れていた自信が、裏づけされたような、太鼓判を押されたような。恐れるものはないかのような、支配者としてのそれ。
 ネイサンは教授へ挨拶すると、頭痛を堪えるかのような上総の隣へ座り、前を向いたまま上総にだけ聞こえるように囁く。

「身体は平気?」
「……なぜ、ここにいる」
「あなたを恐れた俺はもういない。あなたの咎めを恐れ、二の足を踏むことは二度とない。
 きれいな俺の先生。大好きだよ。俺はあなたを手に入れる」

 ねっとりと絡みつくような卑猥な声音に、上総は視線だけでネイサンを見る。まっすぐと前を向くグリーンガーネットは、暗く燻るような影などなく、ただ熱く燃え盛っていた。
 ぴく、と動かした上総の手を封じるように、ネイサンの靴が上総の靴の側面に当たる。
 上総が姿を現さなければ、追いかけることのできなかったネイサンと接触することはなかった。けれど、もうネイサンは上総を追うことができる。
 間もなく出発時刻。逃げ場はない。
 一瞬乱れた呼吸を正せば、上総の口元に微笑が浮かぶ。

「それでこそ俺の生徒だ」

 誰に怯えることも屈することもない、君臨者。
 教育はここに完了した。


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