小説
九話
嗚呼ともとれる声を落としたのは誰だっただろう。
分かりきった疑問を抱いた己をフェートはわらう。
遠目に小さく、まだ小さく、暗惡帝の居城が見える。
いよいよともとうとうとも言える光景を前に、心を揺らがせるのはこの場にはフェート以外にない。
何故ならば、潔志は目的を果たすための過程にやはり興味も感慨も抱かないし、なにか悟りを開いたようなツァーレとて似たことを言える。ありのまま受け入れ、心の水面揺らがすことはない。
フェートだけが、心定まらぬままにいる。
義務と願いに心が追いついていない。
それでも往くのだ。
停滞はありえない。
フェート一人が立ち止まっても、潔志は振り返らずに進むだろう。そうして一人目的を果たしてからフェートに平然と変わらぬ笑みを向け、フェートにしかできない役目を果たしてほしいと言うのだろう。
ツァーレはそんな潔志に付き従う以外に想像できない。
進むしかない。
未熟でも、弱くても。
「そういえばさ」
「は、はい」
唐突に潔志がフェートへ振り向き、朗らかな口調で話しだした。
「フェートくんって随分と強くなったねえ」
「…………え?」
「俺は色々な道場周ってきたから、フェートくんくらいの歳の子はもちろん、もっと歳上、師範のひと、あいつに全く及ばなくても魅力的なひとは知ってるつもりだよ」
潔志の言っている内容が少しだけ分からないのは、理解を拒んだからかもしれない。
それとも、道を選び、それを「神子」へ告げてしまったという事実を前に、骨の髄まで染み込んだバリオルとしての在り方がフェートへ制限をかけたのだろうか。
フェートは潔志がたくさんの判断基準を持っているということしか理解できなかった。しなかった。
「潔志」が判断基準を多く得るだけの行為を重ねてきたことの意味を、理解しなかった。
「フェートくんはそうだなあ……弓削くんにも届かないけど、それは持っているものとか、見ているものの差もあるのかな。弓削くんに関してはあいつがすっっっっごく煩くて、ご飯が美味しいことしかねえ……あと嫌われてるし」
潔志はしょんぼりと肩を落とすも、すぐにけろっとした様子で続けだす。
「フェートくんはね、もうちょっと目を開いてみたら、もっと、ぐっと、ずっと魅力的になると思う」
「目を、開く……」
「たくさん魅力的なものがあるんだ。そういうものを見て、触れると、魅力的なひとになれるよ。ああ、でも俺はそのときいないのかあ……」
フェートは胸に冷たい風が吹いたような心地がして、きゅ、と唇を閉じて視線を足元へ落とす。
だが、ぽん、と両手を打つ音に視線を上げれば、潔志が名案を思いついたとばかりの様子できらきらと目を輝かせてフェートを見ていた。
「そうだ! そうだそうだ! そっか、そうだよ!」
「き、潔志さん?」
「ふふ、良いこと思いついちゃった。フェートくんにはお世話になったし、お世話になるんだし、きちんとお礼をしなきゃいけないよね」
「そんな、私は覡です。そんなことは――」
「だめ。そういうのは関係ないよ。俺が帰るとき、フェートくんへ贈り物をするね。
――きみがしあわせでありますように」
慈しむような目を細め、フェートの頭をやさしく撫でる潔志。
手が冷えると、勿体ないことだと覡であれば配慮すべき多くのことが、フェートの頭からこぼれ落ちる。
「神子」として想像した姿から、潔志は随分と年齢を重ねている。
けれど、だからこそ目立つ笑い皺がフェートはだいすきだった。
自由に振る舞いながらも、伸ばした手にこめられる慈愛に何度も泣きたくなった。
時折漏れ聞く、物語で見かけることのある「奔放な父」とは、こういうものかしら。
最初に考えたのはいつだっただろう。
あまりにも不敬だと、分不相応だと、フェートはすぐに頭を振って潔志に重ねそうになった想像を散らして胸の奥底へ沈めてきた。
それなのに、こんな風に見つめられれば、触れられれば、散らしたものは集まって、沈めたものは浮き上がってきてしまうではないか。
親の顔を知らないことなど、親と触れ合ったことがないなど、決して珍しくはないのに「もしかしたら」と疑似的にでも触れてしまえば、フェートは今まで積み重ねてきたものが崩れるのも構わず縋ってしまいたくなる。
それは、その相手である潔志が、別れを前提にした言葉を告げた瞬間のものであっても。
「ふ、潔志さん……ツァーレには、よろしいのですか」
フェートは以前までの己であれば決して口にしないことを言う。
潔志がなにかを残してくれれば、ツァーレは潔志がいない世界であっても己が在ることを謳歌してくれるのではないかと思ったのだ。
いまのように透明に存在するのではなく、色濃く、鮮やかに生きてくれるのではないかと。
潔志が「あ、そっか」と言って難しい顔をする隣、ツァーレが穏やかな微笑を浮かべながら口を開いた。
「潔志殿、俺はもう十分なものをいただき、満ち足りております」
「そうなの?」
「はい」
フェートは僅かに目を見開き、ツァーレを凝視する。
視線に気づいたツァーレはフェートにまでも微笑で応え、その透き通った表情を見せた。
「準備完了致しました」
「――とのことですよ、レイデェ」
ベルは二つ結にした髪を揺らしながら、報告を受けた先を朱牡丹へと窺う。
凍てついた冷徹な眼差し。
腰へ双剣を帯びた朱牡丹は一つ頷いた。
「聖上へさいごの報告をしてくるわ。ベルは先に行っていて」
「はい、と言いたいところですが」
「なに?」
踏み出した足を止めて振り返った朱牡丹へ、ベルは二本の飾り紐を差し出す。
「すみません、やはりおっさんは不器用でして。この大軍に身嗜みも整わずに参戦というのはどうにも締まらず……申し訳ないのですが、どうかレイデェ……結んでやっていただけませんか?」
「……分かったわ。おいでなさい」
手招きされて、ベルは朱牡丹の目の前で背中を向ける。ただの革紐で結んだだけの二つ結もやはり不格好だったのか、あっさり解かれて……一瞬の間のあとに手櫛で分けられ二つにまとめられる。
ベルは微笑みながら奥歯を強くつよく噛み締め、しゅるしゅると飾り紐が通されていく音と感触に集中した。
「できたわよ」
「ありがとうございます! やはりレイデェの手は素晴らしい。ふふ、美しいひとの祝福を受けたおっさんは百人力ですよ!」
ぱっと振り向いて、ベルは拳を握る。
「どうぞ、戦果をご期待ください」
「……ベルの『力』は百人力どころではないでしょう。期待は当然しているわ。いいえ、戦果は出さなければいけないの」
熱のなかった声が深まる。
「――神子以外は必ず排除して」
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