小説
八話



 落ち着いた様子を見せていたツァーレに心配すらしていたフェートだが、いよいよ魔族の本拠地へ足を踏み入れる直前の朝になり、再び彼は様子を変えていた。
 ツァーレは罪人であり、裁かれる側である。
 けれども、フェートの目に、ツァーレは赦しを与える側に見えた。
 全てを赦し、同時に許されたような、己の全存在を満了したかのような透明に透き通った表情。
 恐らく、この旅へ出る前であれば、潔志という存在を知らぬバリオルであれば、神子との旅のなかで己を省みて、などと胸を打たれて涙すら浮かべながら説くのだろう。
 ツァーレがなにに到ったのか、フェートには分からない。
 潔志はようやくバリオルに、魔族に、この世界というものに目を向けるようになってくれたけれど、それは個々の変化に対して敏感になったわけでも、それこそ省みるわけでもない。
 ただ、存在を認めるようになっただけ。
 視界に入ってすらいなかったものが、そこに「在る」と認めることと、そこに「在る」ものに対して興味を持つことは、全く違うことだ。
 東国の寒さ厳しい気候に口数が減るのは仕方ないにしても、それでも三人は当初からすれば全くと言っていいほどになにも語らない。
 声を発したとしても、雪が全て飲みこんでしまっているのではないかと錯覚するなかでフェートはその声を聞いた。

「――潔志殿」

 吹き荒ぶ風に混じった雪に手を翳した潔志へ、ツァーレがばさりと新たな外套を重ねる。
 潔志に斬られてから、ツァーレは隠すこともなく、熱狂そのものの様子で潔志を慕っていた。
 潔志の世話ならばなんでもしたがり、神子へ侍る筆頭覡であるフェートを隠さず疎ましがり、なにをするにも「潔志殿、潔志殿」と声を張り上げ、身振り手振り大仰に己と、己の感情を主張していたのだ。
 それが、どうだろう。
 それが、誰だろう。
 ツァーレはいつだって潔志に求めていたのに、求める側であったのに、惜しみなく与え、むしろ降り注ぐように捧げている姿。

「なんだ、覡」
「え」
「なにを間抜け面で見ている」

 言葉遣いは悪いが、なにかあればすぐにフェートへ罵倒や嘲笑の隙を狙ってきていたツァーレが淡々と言う。
 普通のひとのようだ。
 ただ、対人関係に選り好みの嫌いがあるような、普通のひとの態度だ。
 では、潔志を見る目はなんだ。
 では、潔志に語りかける声はなんだ。

「あなたは……なに?」

 呆けたように問いかけるフェートに、ツァーレは一度まばたきをする。
 微笑み。
 瞼を伏せて、合わせた両手に唇、顔を上げ、想いを込めて見つめる先には歩みを止めたフェートとツァーレを不思議そうに振り返っている潔志のきょとんとあどけなさすら感じられる姿。
 焦がれて焦がれて、でも、切なさは窺えない。
 満たされている。
 満ち溢れるまま、想いを傾け注いでいる。
 ツァーレは何一つ語らなかった。
 言葉にする必要も、フェートへ応える必要も、ツァーレにはなかったのだ。
 潔志を追って、ずれた彼の外套を直してやるツァーレにフェートは焦燥感のようなものを覚える。
 この旅の執着は暗惡帝討伐にあり、潔志はそのまま神の御下へと帰る。
 フェートはどうなるのだろう。
 筆頭覡でありながら、もはや潔志という神子を知らぬままの神とバリオルのためだけに存在した己でいられなくなっていることを、フェートは自覚している。
 潔志がいなくなったこの世界で、己は筆頭覡で在り続けられるのか。
 ツァーレはどうなるのだろう。
 神子に仕え、暗惡帝討伐もあって恩赦はあるだろう。
 そのことに、ツァーレは価値を見出すだろうか?
 罪を許されて生きるこの世界に、潔志はいないのに。神を偶像と断じてさえみせたツァーレがどう生きていくのか。

(ツァーレ……あなたは、生きるつもりがありますか?)

 フェートはツァーレの透き通った表情にぐ、と拳を握り締め、薄暗い想像を振り払うように潔志とツァーレを追いかけた。



「ん〜ふ〜ふ〜」

 大きな大きな幼いこどもならば寝台に使えそうなぬいぐるみに抱きつくのは、ぬいぐるみが寝台にならぬ程度の年頃まで育ったベル。
 うさぎを模したぬいぐるみに埋もれるベルの様相は愛くるしいが、ベルを前にしてひれ伏す相手はまるで大蛇の顎門が前に立たされたが如く脂汗を流して震えている。

「神子がぁ、なあにぃ?」
「と、とうとう……ま、魔族の、領内に……っ」
「ッバアァーッカっじゃないのおおおおおおっっ?

 品性疑う相手を心底馬鹿にしきって見下しきって心を踏み躙った声音。
 ぬいぐるみから顔を上げ、ぴょん、とうさぎが跳ねるような身軽さで青ざめる相手の前に立ったベルは後ろ手を組みながら深く腰を折って相手を見下す。

「なぁにが魔族の領内よ。『魔族』に領なんざあるわけないじゃん、そんなこともわっかんないのぉッ? 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿バアァーッカ!! 死んじゃえばッ?」
「だ、団長ッ」
「煩えんだよッッ!!! 雑魚が死ぬのなんか自然界の掟だろうが! 雑魚のくせしてレイデェや聖上やおっさんに寄生しやがってよおおお!! だったら情報収集能力と状況認識能力ぐらい磨けばああああッ? てめえらが役立たずだから……っ」

 愛らしい顔を嘲笑に歪めていたベルは不意に言葉を飲み込み、ぐ、と奥歯を噛み締めて不機嫌を極めた表情でそっぽを向く。

「団長……?」
「黙るか死ね。出ていくか死ね。あー、どうせそろそろ死ぬし今死んでもいいんじゃないのお?」
「はっ?」

 死ね、と言われること多々あれど、「そろそろ死ぬ」などという「予定」を告げられたことなど今までなかった相手は目を剥いた。
 ベルは淡桃がかった亜麻色の垂髪を無造作にくるくると指に巻きつけながら、なんでもないように吐き捨てる。

「神子がきたんでしょぉ? 無能で馬鹿で雑魚なあんた曰くの魔族領にぃ! それでなに? 自分は、自分たちだけは無事でいられるとでも思ってんのっ? すっくえない馬鹿!! 聖上殺されたら魔族終了に決まってんじゃん。嫌なら戦うしかないの! それともなに? 自分の命かかってんのに、ケツに火ぃ点いてんのに、まーだレイデェや聖上やおっさんに『えーんえーん。たすけてー、こわいよたすけてー』って泣きつくわけ?」

 ベルは相手を馬鹿にしきった態とらしい泣き真似をして、舌を突き出した。

「ヤダ」

 げらげらげらげら。
 品なくベルが笑い声を上げる。

「だって、もう終わりだもん。後がないもん。それなのに馬鹿だけ生かしておこうって頑張ってどうすんの? なんの意味があんのぉ? やーだ! 死にたくなけりゃ死ぬ気で神子を殺しに死にに逝けよ、ばぁ〜か!!!」

 愕然とする相手に向かって一転、ベルは愛くるしい笑みを浮かべて両手をぽんと打ち合わせてその場でくるんと踵を起点に回転する。
 ふわり、襞飾りが広がって、まるで花が咲いたような可愛らしさだったのが直前の言動と酷い落差だ。

「くふん、逃げたりしたら、おっさんがお仕置きしちゃうんだから!」

 ぴん、と立てた人差し指を顔のそばに、恋をしたような目でウインクを決めて、ベルは茶目っ気溢れる姿で相手に宣言する。

「皆で仲良く、協力すれば怖くないよ!!」

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あきゅろす。
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