小説
七話



 東へ、敢えて言えば東北へ向かう潔志たちは、徐々に人里の気配薄くなりゆく土地に魔族の気配を色濃く感じる。
 異能を持つ魔族たちが暗惡帝を求めて多く集まっている土地へ、バリオルは近づきたがらない。
 それは危機を感じるからでもあるし、穢らわしいという感情も強いからだ。
 先に進めば物資調達はままならなくなる故に、どうしても多く荷物を持つようになって歩みは僅かに遅れるが、潔志はもちろん、フェートもツァーレも焦った様子はない。
 殊、ツァーレは物静かな様子を保ったままで、常の煩わしいまでの気配薄い彼にフェートは僅かに心配した。元より心優しい少年だったのだ。声を尖らせていた原因ともいえる部分がツァーレからなくなってしまえば、本来の性根で以って接しようとする心がある。
 けれど、ツァーレはフェートの視線も意に介さぬままで、静謐な深夜の見張りをしながら夜空を見上げていた。

「ツァーレくん」
「おお、潔志殿。眠れませんなんだか?」

 のっそりと起きだした潔志にツァーレは朗らかな笑みを向ける。
 眠りの時間を考慮してひそめられた声を聞きながら、潔志はツァーレの隣へ腰掛ける。
 潔志がぱちぱちと焚き火の爆ぜる音を聞いていると、ツァーレが「風邪を召されます」と上着をかけてくれた。

「ありがとう」
「いいえ」

 潔志がツァーレとこのように静かに会話をするのは初めてのことかもしれない。今まで意識したことがないので、深く覚えていないのだ。
 けれど今日、いよいよ本格的に暗惡帝の名が音に高い土地を目前にして、潔志はフェートではなくツァーレから話を聞きたかった。

「ツァーレくんはこどもの頃、神殿に預けられたんだよね?」
「はい、覚えていてくださいましたか」
「うーん、薄っすらね。態々報告に来てくれたんだけど、斬るのには重要じゃないからなあ」
「はは、左様にございますな」

 ツァーレは罪人だ。
 平然と旅に同行していようとも、それ以前の神への愛に盲た行動は罪であった。
 ならば、当然ツァーレという人間は調べられ、その経歴は被害者の一人であり、ツァーレを旅に同行させるとした潔志に届けられる。
 潔志には、必要がなかったのだけれど。
 潔志という人間は常に斬撃を向いて斬撃を向けて斬撃が全てだ。
 斬ることに情報はいらない。
 ありのまま、そこにいてくれれば、それだけでいい。
 それだけで、思う存分に斬る。

「それなのに、潔志殿は何故今更に俺のことを?」
「ああ、そうだった。うん、あのねえ、訊きたいことがあるんだ。ツァーレくんはその神殿で名字とかって貰った? 神殿とか、その管理者とか、土地に因んだものとか」

 ツァーレはまばたきをして、考えるように顎へ片手を添える。その顎には潔志が刻んだ傷跡がはっきりと残っていた。
 きゅ、と顰められた眉、ツァーレが確認を込めて訊ねる。

「潔志殿の仰る『みょうじ』とは、系譜名のことでありましょうか?」
「系譜名?」

 漢字は分かるのに、意味が理解できない。
 つまり、この世界独自のものだと潔志は納得して、系譜名とは如何なるものかとツァーレへ訊ねた。

「系譜名は個々それぞれが持つ、己が系譜の祖を冠した名にございます」
「えーっと、先祖とか? 個々っていうことは、家の名ではないの?」
「左様、人はどれだけ血の繋がり濃くあろうと、決して同一の存在ではありませぬ。その質が何処に由来するのかを表すのが、系譜名にございます」
「それって誰が決めてるの?」

 ツァーレは厳かに、己の胸へと手を当てる。

「此処に。此処に皆、持っているのです」
「……自然と分かるっていうこと?」

 深く頷くツァーレに、潔志は一瞬考えてから訊ねた。

「名前について気になることがあって気づいたんだ。此処に来てから皆みんな名前だけを名乗ってたなあって。その系譜名というものは名乗るべきものではないのかな」
「系譜名とは己そのものを表します故、名乗れば己を知られます。余程大切なものへ密やかに告げることあれど、生涯名乗らぬものも珍しくありませぬな」

 それは、大層重たいものだ。
 潔志は最初から「そういえばきみたちの名字ってなに?」などと問わなくてよかったと安堵する。
 神子に問われれば、バリオルは答えざるを得なくなるだろう。
 そして、神子に「系譜名」を知られることに、少なくない恐怖を覚えるだろう。
 いいや、それとも世界をも統一せしめるバリオルならば、神子に一切を委ねようとするのだろうか。
 委ねた先も、神子が存在するとは限らないのに。
 神しか導くもののいない世界で、己の全てを預けきることがどれだけ恐ろしいことであるか、バリオルはきっと知らない。想像もしないだろう。
 訊ねるだけ訊ねて口を閉ざす潔志に、狂信的なバリオルでありながら神への愛を斬り捨てられたツァーレが微笑み語りかけた。

「潔志殿、俺は貴方にならば系譜名を捧げられる。そうしてそのまま斬ってくれたら、俺は今度こそ真白に虚けて貴方だけを思えるのだろうか」

 潔志は困ったように苦笑いして手を振る。
 ツァーレの口調、声音、言葉からすれば、あまりにも軽々しい仕草だ。

「いやいや、斬らないよ。ツァーレくんはもうお腹いっぱい」
「……俺は、潔志殿にご満足いただけませんでしたからなあ……」
「あはは、俺が心底満足できるとしたら、あいつ唯一人だよ」

 思い描くのは妙なる斬撃。
 この世界にはいない存在を想って恍惚を浮かべる潔志に、ツァーレは目を伏せた。

「潔志殿は、間もなくお帰りになられるのですな」
「うん。斬って、帰るよ。斬りに、帰るよ」
「斬るだけ斬って、奪うだけ奪って、捨てさせて……けれども、貴方自身は何一つ得ても、失ってもいない」
「わー……すごい言われようだねえ……でもさあ、ツァーレくん」

 潔志はツァーレを見つめ、なんてことのないように言う。

「俺自身が振るってきたなかで、あの剣に吸わせた血肉はきみが初めてなんだよ」

 血華咲かせることがあっても、それはまとい、飛ばされる斬気によるものであって、剣そのものが肉を裂いたわけではなかった。
 ずっと、ずっとずっとそうだった。
 産志穂之剣にまつわる話を知る潔志は、彼の神剣が血に触れることで焦りも恐れもしないけれど。
 己の手へ確実に肉を断つ感触が伝わっても、斬撃に影響する一切の感情が湧かないけれど。
 それでも、確かに潔志の斬撃において、ツァーレは決定的に例外の存在なのだ。
 そんなことを、なんでもないように話す潔志の隣、ツァーレは目を見開いて微かに震えている。
 ぐ、と強く瞑った目尻に滲むものを拭わず、ツァーレは自身の様子に気づかぬ潔志へ囁いた。

「三千大千世界のなかで、貴方だけを愛しています」

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あきゅろす。
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