小説
最後の授業(前)
・貴族と元家庭教師
上総が教授に連れて行かれたパーティーには、各国の御歴々が集まっていて、いくらおまけとはいえ庶民の上総には肩身が狭かった。
しかし、そうとは思わせないように振舞うことは過去の経験からたやすく、東洋の下流層と蔑む視線をかわす姿は慣れたもの。教授が「きみをつれてきたのは正解だ」と安心するのに「光栄です」と微笑んでみせる。
こんなパーティーでもなければ作れない人脈の下地作りに上総が勤しむ頃、わっと参加者の注目が一箇所に集まった。
教授のもとへ戻れば、緊張しきった顔の教授が「真打だよ」と呟く。主役とは別の「大層なお方」がいらっしゃったらしい。
居住まいを正しながら、上総も人々の視線の先を追えば、そこに立っていたのは青年に成り切らぬ小柄な男。
支配者階級独特の空気を纏い、遠目からでも豪奢な金髪が眩しい。
挨拶にきた主催者を鷹揚に流した男は、ふと顔を上総のいる方へ向ける。そこではっきり見えた顔に、上総は総毛だった。
視線の先に上総を見つけたのか、僅かに顔の向きが調整され、がっちりと合う視線。
戸惑う周囲には目もくれず、男は真っ直ぐと上総に向かい、歩き出した。
男が近づけば近づくほど、頭のなかに警鐘が鳴り響く。しかし、上総がそれを表面に出すことはない。
やがて、目の前に立った男は、五センチほど低いところから上総を見上げ、そのグリーンガーネットのような瞳を細めた。
「久しぶり――先生」
ぎょっとする教授など目もくれず、男は上総の手を無造作にとり、指先に唇を落とした。
上総がイギリス貴族の「家庭教師」として招かれたのは、上総の家が庶民ながら特殊な生業をしていたからだ。そうでなければ、関わることすらないであろうひとを前に、上総は「これが貴族か」と彼らとの人種の違いを感じた。
上総が頼まれたのは、その家の一人息子の「家庭教師」であり、約一年間の住み込み契約だった。
貴族とは名誉職だ。
なによりも誇り、面子が重視される世界において、上総が教師役を頼まれたこどもは危うかった。
快楽主義。
十四歳という日本ではまだまだこどものはずの彼は、両親が匙を投げかけるほどに淫蕩で下劣だった。
家庭教師と銘打ちながら、上総が依頼されたのは「躾」だ。
五体満足で後々にまで響く影響がなければなにをしてもいいから、その性根を叩き直せ。そう、依頼された。そんな依頼だからこそ、上総が、極東の島国の庶民なんぞが選ばれたのだろう。イギリス貴族の子息が屈服することに、より耐え難い屈辱を覚えるように。
イギリスの貴族意識はとても強い。
こんな話がある。
ある政治家秘書が、主人とともにイギリスへ訪れた。空港へついてゲートへ向かおうとすると、秘書は主人と離され専用ゲートへ通された。驚く秘書をよそに、秘書にはSPがつき、宿泊施設は主人を差し置きスイートへ変更。何事かと問う秘書に返されたのは「あなたは貴族ですから」という返事。
秘書は知らぬことであったが、秘書の家はいまでこそ庶民そのものであるものの、元華族の家柄であった。
イギリスでは政治家であろうと一国の代表であろうと、地位よりも身分が優先される。それが「元」であろうとも、イギリスでは続くものとして扱われるのだ。
もちろん、その意識はイギリスだけのものであるので、散々秘書だけが優遇され、自身はないがしろにされたことで怒った主人に、秘書はクビを切られたのだが。
それほど強い意識を持つイギリス貴族が、東洋人の庶民を「教育」に雇うほど、その息子は彼らにとって耐え難いものがあったのだ。
上総が彼と対面したのは、屋外プールだった。
努めて無表情を保つ使用人に案内されたプールで、彼は全裸のまま水中に漂っていた。
生白い肌に、豪奢な金髪。整った造詣のこどもは、上総を認めるとプールから上がり、裸体を隠すことなく目の前に立った。
「あんたが俺の先生?」
「そう。カズサ・タカトオだ」
「ふうん、美人だねえ。俺はネイサン。ねえ、先生。セックスの経験は? 男はいけるの?」
「服を着なさい」
「なんで? どうせなら先生も脱げば?」
げらげら品性の欠片もない笑い声を上げるネイサンの頭をつかみ、足元を払った上総は、躊躇なくプールにネイサンの顔面を叩き込んだ。
暴れるネイサンのせいで水が跳ね、上総の服もびしょびしょになったが、それでも構わずネイサンの頭をプールに突っ込み続け、引き上げたのは三分ほどしてからだろうか。
げほげとと四つん這いで咳き込むネイサンを見下ろし、上総はもう一度「服を着なさい」と繰り返した。
上総の「教育」とは虐待であり洗脳であり調教で、家から直々に依頼されたそれからネイサンが逃げる術はなく、まともな「教育」ができるまでの三ヶ月以上、ネイサンの身体には痕が残らぬ傷が絶えなかった。
「先生って日本人なんでしょ?」
「そう」
「日本語は教えてくれないの?」
「お前にいま必要なのはフランス語、スペイン語、東洋のは中国で日本なんざ極東の島国でしか使われない言語は必要ない。ああ、自国の古語は学ぶのもいいかもしれないが、まかり間違ってもコックニー訛りなんざ絶対に覚えてくれるな」
徹底した「教育」のあと家庭教師らしく勉強を見る上総に、ネイサンは従順なようで、従順ではない。
いつだって、ネイサンのグリーンガーネットのような瞳は上総に対する下克上を企み、暗く、また情欲に燃え上がっていた。それを見抜きつつ、上総は放置するが、ネイサンが行動した瞬間、上総は一片の容赦もなく叩き潰し「教育」した。
上総はもとよりネイサンを貴族の「お人形」に仕立てあげるつもりなどなく、貴族社会で生きていくにはあまりにも不出来なネイサンに「分別」を備わせさえすれば、それで十分だと思っていた。彼の家もそれで了承している。
腐っていてもいい。それを隠せるなら。取り繕うことができるなら。自身の「糞」っぷりを誰に謗らせることなく、黙らせる力を手に入れられるなら。
「先生は俺に酷いことをするね。いつか俺は先生に殺されるんじゃないか、ありえないっていつもは分かってるけど、先生に虐待される最中、俺はいつだって頭に遺言が過ぎるよ。死ぬときは先生を抱いて死にたい」
勉強を終えたネイサンは、先ほどまで伸ばしていた背筋をだらしなくさせて、猫のようにちびちびと紅茶を飲んだ。それを「外ではするな」と指摘すれば「もちろん。俺の先生に恥はかかせない」と微笑んだ。天使のような笑顔に滴るのは、隠せない歪んだ劣情か。
天性のものは、捻じ曲げることはできても、根本が変わらない。
ネイサンとともに重ねる時間は、降り積もる落ち葉のようだった。かさり、かさりと乾燥して、踏み砕かれ、腐り、解ける。
別れの近づく冬の終わり頃、暖炉のそばで本を読んでいた上総の後ろにまわったネイサンは、少し伸びた上総の髪をつまんでねだりごとをした。
「ねえ、先生。髪を伸ばしてよ」
「なぜ。男の長髪は見苦しい」
「先生の髪はストレートで艶々してる。きっときれいだ」
「デメリットしかないから却下する」
「お願い、先生。先生が髪を伸ばしてくれるなら、俺はきっと『良い子』になるよ」
くだらない戯言だった。しかし、上総はたまに飴でもやるか、と了承した。
契約期間を終えた夏目前、新緑の季節には、上総の髪は肩より伸びて、その頃にはハーフアップにまとめるのがくせになっていた。
いよいよ日本へ帰る日、まとめた荷物はすでに送ってしまったので身軽な上総の前に立ったネイサンは、どこから見ても立派な貴族の息子だった。常に高いところにいるせいで、無意識に上総を見下していた彼の家は、上総を褒めちぎり、感謝して、上乗せされた報酬の他に、なにかあれば、と強力な人脈をくれた。
まるで気軽に出かけるような様子で別れを告げる上総に、ネイサンは「またね」と挨拶のハグをして、上総の髪を名残惜しそうに梳いて――それっきり。
数年の歳月を経て脳裏から消えかけていたネイサンの存在を目の前に、上総は男としては長い、肩でキープした髪を見てうれしそうに笑うネイサンから一歩引こうとした足を留める。
「先生、先生。俺の先生」
親密さを見せ付けるように「感激のハグ」をするネイサンを抱きとめ、上総も抱き返す。
「また会えるとは思わなかった」
「俺はずっと先生に会いたかったよ」
空々しい言葉の応酬をすれば、周囲の注目はいやでも「東洋人」に集まる。
なぜ、あんな猿が?
知らないふりはお手の物だが、上総の内心は舌打ちをしたくていっぱいだ。必要な人脈だけを縫って歩くつもりが、余計な注目を集めてくれたかつての教え子を見下ろせば、グリーンガーネットの瞳が悪辣な輝きを放つ。
ぱっと離れながら、ネイサンはいかにも再会した懐かしい友へするように、パーティー後の予定を聞いてくる。
適当な言い訳をして断るのは簡単だが、昔とは違う立場での再会と、誘いを向けられた場、傍に立つ教授の視線に、上総は微笑んで誘いを受けた。
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