小説
影(後)



 カーネルは地下の隠し部屋でひとり、青褪めた顔をしていた。
 侵入者の知らせを聞いて、それが掃除屋企業だと判明した段階で、カーネルはこの地下室に隠れた。地下に続く部屋には少しでも目晦ましになれば、と愛人のこどもを置いて、カーネルはひとり、安全だと信じている部屋で震え続ける。
 カーネルは貧乏な家に生まれ、苦労して苦労して、ようやく成功し、富と権力を得たのだ。以前は遠い世界のものだった金も、女も、全てが思い通りの人生で、来月は結婚する予定だった。自殺した愛人が置いていったこどもは、正しい自分の子の遊び相手にでもするつもりだった。自分に鬱陶しいくらいなついているこどもは、きっと感謝するだろう。
 完璧な家、完璧な家族、完璧な自分の人生。こんなところで頓挫するなんて、あってはならない。ありえるはずがない。
 必死に言い聞かせるカーネルの耳に、ぎぎ、と重いものが軋む音がする。それは、この部屋に通じる本棚を動かす音だった。

(警察だ、きっと警察だ。だって、ここは誰にも言っていない……)

 こつん、こつん。やけに軽快な足音が近づいてくる。
 カーネルは足音に背を向けて、耳を押さえながらなしゃがみこんだ。
 その肩を、ぽん、と叩く手。
 叫び、カーネルは護身用の銃口を後ろに向けたが、その銃は呆気なく蹴り飛ばされた。
 カーネルの後ろに立っていたのは、当然のことながら、警察官などではなく、でれでれと相好を崩す灰髪の男と、その男の片腕に抱かれて気絶する愛人のこども。そして、東洋人の男だった。

「ハーイ、お元気?」
「ひっ」
「びるびるびくびく振動体操ですかぁ?」
「くるなっ、くるなっ」
「親子だねい。でも可愛げは断然こっちにあるぜ!」

 気絶したこどもの頭をぐりぐりと撫でながら、男はにい、と哂う。カーネルはあまりにも不吉な笑顔を前に、全身が硬直した。

「あのねあのね、ちょっとお話あるんだけど、聞いてくんない?」
「は、ははは、はな、し?」
「イエスイエスイエス! そう、お話ですよ! ここ来る途中まで、俺はあんたの頭蓋骨パァンッする気満々だったわけ。でもね、ちょっと気が変わった」

 カーネルの額を、男は銃を模った指で突く。

「このお子様をですね、僕俺私にくれるなら、このまま大人しく帰ってもいいなー、なんて思ったり?」

 カーネルは男が腕に抱くこどもに視線を向ける。
 東洋人の愛人が産んだこども。自分の血の繋がったこども。

「――っくれてやる! だから……っ」

 こつ、と今度は本物の銃が、カーネルの額に押し付けられる。

「……くそったれが」

 カーネルの網膜に、男の心からの侮蔑の表情が焼き付いた。



 屋敷が血まみれになってから数日、玲は数人の世話係とともに屋敷を出され、母の故郷である日本にきていた。
 惨劇の結末など知らされぬまま、玲の父親は玲を疫病神かなにかのように屋敷から追い出したのだ。
 世話係は所詮、世話係でしかなく、唯一の肉親にすら捨てられた玲は身寄りがないのも同然だった。
 慣れない土地で少しずつ孤独や遣る瀬無い気持ちに心が削られ、日本に来て十年も経つころには不良と呼ばれるような有様だった。
 父親を思い出すことも少なく、喧嘩に明け暮れる日々。黒かった髪は赤く染め、耳にはいくつもピアスを空けた。
 荒んだ日々ではあったけど、知り合った不良のなかには気のいい奴もいたし、それはそれで平和だったのだ。

 その日は、玲の誕生日だった。
 本人すら忘れた誕生日を祝いに押しかけた友人が散らかしていった部屋で苦笑いしながら、玲は恙無く残り数時間の誕生日を終えようとしていた。
 唐突に、インターホンが鳴る。
 玲の住む高級マンションには玲以外おらず、世話係は別の階で暮らしているものの、合鍵を持っているので態々インターホンを鳴らすことはない。
 さては誰かが忘れ物でも、と思いながら玲は立ち上がり、玄関へ向かった。
 覗き穴で確認することもなく鍵を開けた玲は、開けたドアの向こうに立つ男に怪訝な顔をする。
 灰色の髪の西洋人。
 父親の使いかなにかだろうか。ならば、連絡のひとつもあるだろう。
 玲が誰何しようと口を開くより早く、男がひとの好い小父さんのような笑顔を浮かべる。
 お人好しそのものの笑顔に、なぜか、玲の全身から血の気が下がった。
 頭にがんがんと警鐘が鳴るけれど、玲の目は男から離れず、指先すら動かない。
 男は青褪める玲の頬に手を伸ばし、やさしく撫でた。

「誕生日、おめでとう」

 男の言葉に被せるように、玲の耳に全く別の言葉が、男の声で、いまの男の声より若干高い声で、再生される。

 ――俺は……

 ひゅう、と喉から空気が漏れて、玲の膝から力が抜けた。かくん、と玄関に座り込んだ玲に合わせ、男が玲の目の前にしゃがみこむ。
 いつか、いつだったか、こんな状況があった。
 立てずに座り込む自分と、自分の前にしゃがみ込んで哂う男。

「……え、でぃと……」

 ハウスクリーニング、殺し屋企業、そんな物騒なものを背負って、幼い頃に暮らしていた屋敷へやってきたエディト。
 今の自分と同じほどの年頃だったエディトの顔が、いま、玲の目の前の顔とぴったりと重なった。
 エディトはにっこりと微笑みながら、いつかのように玲の腕を引いて自身の腕の中に閉じ込める。玲は当時と違い、抵抗すら出来ず、ただ硬直した。

「迎えにきたよ」

 悪魔のような言葉に、玲は理解した。
 なぜ、父親が生きていたのか、なぜ、突然自分だけ日本に送られたのか。
 自分は売られたのだ。
 しかし、理解はしても、納得などできない。

「なんで、いまさら……」

 十年、玲はエディトの影など知らずに生きてきた。自分にエディトの影が纏わりついているなど、知りもしなかった。それほど、エディトは玲に関わってこなかった。だというのに、なぜいまさらになって、目の前に現れたのか。
 何故、なぜ、と繰り返す玲の背中を、エディトの手がゆっくりと撫でる。

「淋しかった? あんなのでも、未だにパパが恋しかったの? だめだよ、なんのための引き離したと思ってんですか」
「なんだよ、それ……」
「好い感じに仕事周辺片付けてたら、こんなに遅くなっちゃった」

 意味を問い返すより早く、玲はエディトに顎をすくわれた。間近に愉悦を湛えたエディトの目が迫り、唇に乾いた感触が落ちる。

「さあ、新しいお家へ帰ろう」

 やさしい父親のような声音が鼓膜に捻じ込まれ、玲は反射的に拳を振るった。
 ひとを殴ることに慣れた、擦り傷だらけの手がエディトへ真っ直ぐ向かい、吸い込まれるようにエディトの掌に包まれる。
 ぱし、と軽い音をたててあっさりと無力化された拳は、そのまま玲の心さえ折る。
 不良の喧嘩に慣れた拳では、ひとを殺すことを職にしていた男には届かない。幼い頃の拳のほうが、その手の中に人殺しの道具があった分だけ、きっと固く強かった。自身のあまりの脆弱さに、玲の口から声にならない嗚咽が漏れる。

「泣いてるの、かわいい子」

 エディトは玲の頬を濡らす涙を物珍しげに眺め、かさつく手でやさしく拭う。
 呆然としながら見上げてくる玲にハッピーバースデーを唄いながら、エディトは玲の腕を引いて立ち上がる。
 エディトの足が玄関から先へ進むことはなく、外へ、外へとよどみなく進んだ。
 玲はぐらぐら頭の中が揺れるのを感じる。

「だいじょーぶだいじょーぶ、俺はやさしーく愛してあげるから。お父さんみたいに、恋人みたいに」

 エディトのやさしい声音こそが、玲を絶望に叩き落す。
 半ば朦朧としながら顔を上げた玲に向かい、エディトは甘ったるく囁いた。

「仲良くしようねええ」

 逃げられない。
 玲の頭にはたったそれだけが浮かび、耐え切れない現実に脳が逃避を促す。
 急速に薄れていく視界のなか、エディトの灰色の目がゆうるり、と細まったのが見えたような気がした。

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