小説
十五話
たった一つの差であろうとも、俺はきっと歳上として大切なことを落としたまま愛宕の手を引いてきてしまったんだろう。
振り返ってももう取りには行けないほど遠くにあり、取りに向かおうとしても愛宕は俺を繋いで離さないまま、きっとそこを動かない。
結局のところ、間違いを正せなかったままの俺は間違ったままの道を歩くしかない。
しかない、なんて諦めているような、悲観しているような言い方だが、俺が感じているのは申し訳なさと……なんだろう。言葉にするのが難しい。
一つだけ断言できるのは、愛宕がなにも悪くないということだ。
誰かが愛宕に原因を求めることがあれば、俺は全力で否定する。
あいつはなにも知らなかったんだ。
俺が勝手に押し付けたなにもかもを、あいつは知らなかった。耐性もなにもない。
そんな愛宕へ俺は身勝手に押し付け続けて、そうした後にはあいつの全部を許した。許してしまった。
今までまかり通っていたものを、いきなりだめだなんて、それは違うだろう。
線引きをせず、後先をろくに考えなかったのは俺だ。
あいつのことをほんとうの意味で考えてやれなかったのは、俺だ。
だから、あいつが悪いところなどなにもない。
「愛宕」
洗いたてのシャツから柔軟剤の匂いがする。
今日はとてもいい天気だ。
初夏を迎えた季節、風はまだ少し涼しいが、晴れ晴れとした天気のおかげで寒さは感じない。
休日の今日は出かけるのに持って来いだった。
俺が休日だからと言って、俺より忙しいあいつまで予定がないとは限らないが、俺はあまり躊躇わないで携帯電話から番号を呼び出す。三コールのうちに応答されて、俺は思わず笑った。
「なんですか、真司先輩」
もしもしと言う間もなく笑い出した俺へ流石に怪訝そうな愛宕。俺は「悪い」と軽く謝って、窓の向こうから差し込む眩しさに目を細めながら用件を伝える。
「今日、出かけられるか」
「……今日ですか」
「今日。連れて行きたいところがあるんだよ」
愛宕は少しの間、返事をしなかった。
忙しくて断りの言葉を考えているのかもしれないし、悩んでいるのかもしれない。それとも、躊躇しているのだろうか。
俺は穏やかに凪いだ気持ちのまま、無言の携帯電話を耳へ当て続ける。
「…………分かりました」
「ん」
時間と場所を伝えて「また後で」という言葉を最後に通話を切る。
愛宕は、通話の切れた携帯電話を持ちながらどんな顔をしているんだろう。
俺は随分と片付いてしまった部屋を見渡す。
がらんとした部屋はとても広く、あちこち掃除したので大家に鍵を返すときは簡単だろう。
俺は口角を少し上げ、約束の時間まで少し早いのを自覚しながら出かけることにする。
ゆっくり、ゆっくり。丁寧に歩く。
丁寧に一歩いっぽと地面を踏みしめていたのは何メートルまでだろう。次第に足は軽快に、ぱたん、ぱたたん、こどもの頃以来のステップを踏む。向けられる奇異の視線は気にしない。
待ち合わせ場所には、既に愛宕がいた。
「お前、どんだけ早く来てたの」
「……真司先輩だって、早いですよ」
そうだな、と頷き、俺は愛宕の左手を取った。ぎしり、と強張ったことには気づいているけれど、知らない。
いい年をした男がふたり、指を絡めるように手を繋ぎながら歩き出す。
「真司先輩」
「ん」
「真司先輩……」
「んー」
呼ぶ声に返事をするけれど、愛宕は問う内容をよこさないのでなにも答えられない。
俺は愛宕の手を引きながら目的地である広い公園まで歩いた。
涼しくても歩き続ければ少し汗をかいて、俺は丁度あったハテナマークの缶が並ぶ自販機ににんまり笑い、愛宕と繋いだ手を持ち上げてから放す。
「真司先輩?」
「あれ、買っておいで」
小銭を渡して自販機を指差せば、愛宕は困惑した顔をする。
「喉、乾いただろ? 俺のもよろしく」
まだ、これは知らないだろう?
もう、愛宕は世の中の多くのことにもの慣れたけれど、ハテナマークの缶に向けられる視線は好奇心で少し輝いている。
なにがでるかな、なにがでるだろう。
ボタンを押して、一つ目はサイダー。二つ目は無糖コーヒー。
愛宕はぱっと輝いた顔をしながら二つの缶を持って戻ってきた。
「なにが出るのか分からないんですね」
「おう」
「真司先輩はどっちがいいですか?」
「お前が選んでいいよ」
喉を潤すにはどちらも向かない。
愛宕は少し考えて、無糖コーヒーを選んだ。
もっと美味い珈琲をよく知っているだろうに、愛宕はうれしそうに無糖コーヒーを飲んでいる。
変わらないなあ、と俺は苦笑した。
「愛宕」
「はい」
「もう少し奥にあるから、行こう」
「……なにが、あるんですか?」
いいもの、って言えたら、俺は良い先輩だったんだろう。
もう少し奥といっても目と鼻の先。
そこにはなにもないように愛宕の目には映っただろう。でも、俺の目当てはしっかりとあった。
「真司先輩、先日の話のお返事は……」
愛宕に応えず、俺はしゃがみこんだ。俺が足元を崩したとでも思ったのか、愛宕の慌てる気配がしたが、俺は無言で地面へと手を伸ばす。
いつか、愛宕の気持ちが精一杯込められた指先へ、緑色の感触。
白詰草の茎をぷつん、と摘んで、小さい輪っかを作る。余った茎を巻きつけていけば、指輪が完成した。
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