小説
十四話
幼い頃に亡くなった母がくれたぬくもりは、冷徹な父の生き方、父に求められた生き方によって、早くから忘れてしまった。
俺の人生レールは俺の物心がつくより早くから敷かれていて、俺はそれからはみ出すことなく歩くことを望まれていて、外れたからといって、それでどうなるというのだということを思い知らされる教育をされていて。
随分と冷めたこどもであったように思う。
同年代に比べれば多くのことを知っていて、逆に知らないこどもであったようにも思う。
大人と対等に会話できる知識を持っていながら、俺は同年代と共有できる話題に乏しかったのだ。
クラスメイトがなにに楽しみ、なにに笑い、なにに落胆しているのか、俺にはとんと理解できない。漏れ聞く話題について調べてみても知識の上滑り甚だしく、俺にはどうしても身につかなかった。
このままではよくないのだろう。けれど、父に進学が決められている大学には似たような存在が多いであろうから、さして困ることでもないのかもしれない。それまで、我慢すればいいのかもしれない。
そう思いながら迎えた高校生活は、早々に一変する。
己を知ることは義務とも言える。
自分がどれだけ目立つ存在であるか知っている俺は、自分が知らない相手が自分を知っているという状況に慣れていて、だがしかし、馴れ馴れしいのとも違う……空気を取り繕うように、それにしては冒険し過ぎな誘い文句に頷いていた。
ゲテモノとしか言いようのないアイス。
自分だけであれば決して食べようと思わないそれを、相手もまた話題しか知らないのだろう。しきりに無理をするなと言っていた。
味は……できれば思い出したくない。
けれども、この経験だけは決して色褪せる事のないように何度も思い出してしまう。
誰かと一つの食べ物を分かちあったこと。
誰かと同じ感覚を共有したこと。
俺にとってはどれも初めてで、その経験がとてもこそばゆかったから。
それを、与えてくれたひとを刷り込みのように特別視してしまうことは、おかしなことではなかったのではないかと思う。
そのひとは少しばかり頭が足りない……うっかりなのか、名乗ることもしなかったから、俺は自分で学年や名前を調べた。
「美萩先輩」
声にして、俺は舌で転がした音の馴染みのなさに眉を顰める。しっくりこない。
「真司先輩」
まるで、パズルで正解のピースを嵌めたような気持ちの良さ。
「真司先輩、真司先輩、真司先輩……!」
楽しくなって、嬉しくなって、気持よくて、あのひとが、真司先輩がとても好きになった。
真司先輩は俺の知らないもの、知らなくて、知ろうとしても身につかなくて、手からこぼれ落ちたものをしっかりと握りしめられるように与えてくれたひと。
真司先輩は委員会にも部活にも所属していないので、接点らしい接点は持てない。そう思っていたのに、昼食をともにすることを習慣とできたことが、どれだけ嬉しかっただろう。
真司先輩が教えてくれること、今まで誰も俺に教えてくれなかったこと。
くしゃりくしゃりと撫でてくれる手の暖かさ。心地よい温度と感触。
それなのに、弁当などというものを用意されて、俺はこの時間が終わるのかとひどく悲しい思いをした。
その思いすら、真司先輩はあっさりと救い上げてくれるのだけれど。
できたてのコロッケ。衣がさくさくで、じゃがいもとひき肉がほの甘く後を引くこと。
みたらし団子のつやつやとした輝き。なめらかで弾力のある歯ごたえを包む甘辛いみたらし餡はつい最後まで舐めるという行儀の悪い真似をしたくなってしまう。
すっかりと毛根とお別れしてしまった年輩の親父さんは頭にタオルを巻いて、時々タコの数をおまけしたたこやきを焼いてくれる。
大判焼きには裏メニューがあって、あずきにぽってりとマーガリンを落とし入れてくれること。
全部、全部ぜんぶ真司先輩が教えてくれたとっておき。
美味しいですね。こんなにも美味しいものを俺はあなたと分け合っている。
美味しいと笑うたび、あなたも嬉しそうにする。
俺が嬉しいことが、俺の幸いこそが幸せなのだというように、あなたは微笑む。
それなのに、どうして俺を突き放そうとするんですか。
あまりにも今更じゃあないですか。
あんまりにも唐突じゃあないですか。
あんまりにも、あんまりじゃあ……ないですか。
俺はあなただからこそ、あの時間を喜びのものとして実感できたのです。心から笑い、尊ぶことができたのです。他でもない、教えてくれたあなたと共有する時間であったからこそ。
あなた以外と過ごしても、やっぱり俺は彼らの言っている言葉が上滑りして聞こえるんです。雑音響くホールへ放り出されたような居心地の悪さです。
助けてください。
真司先輩、助けてください。
もう、何処にも行かないでください。
俺をここまで縛り付けておいて、自分だけ何処かへ行こうとなんてしないでください。
ねえ、もしも独占欲が愛だというのなら、この身体を差し出してあなたが手に入るなら躊躇をしない感情が恋というのなら、俺はあなたを誰よりもなによりもあいしている。
真司先輩、真司先輩。
お願いだから俺の手を振りほどかないでください。
あなたが俺から逃げるというのなら、俺はあなたを追いかけ、我が身を蛇身に変えましょう。あなたを焼き尽くして嵐のような濁流に沈んで消えましょう。
――あなたが俺を想う気持ちが偽りではないから、俺はその道を選べない。
下らないと言えないのです。
俺は生まれも育ちも愛宕に縛られ、その価値観があったからこそ真司先輩へ惹かれたのですから。
だから、真司先輩が信じる俺の歩むべき道を外さぬ方法を考えに考え、この方法へ到りました。
真司先輩。
俺はあなたを諦められない。
「妻を呼ぶように、恋人を呼ぶように、そんな響きがなくてもいいのです。文崇、と呼んでくださいませんか。この十数年の壁を一つ打ち砕き、俺にお情けをいただけませんか」
必死なんです。
全身で締め上げることが叶わないから、ただあなたの服の裾を握り締めるしかできない。
見上げた先で、真司先輩の視線が揺れる。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ずるい後輩でごめんなさい。
真司先輩が、あなたがこの俺を拒絶できないことを、俺はずっとずっと知っていた。
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