小説
十三話



 学生なんて所詮はこどもだったのだと噛みしめる社会人生活も慣れて数年。
 適度に真面目に適度に息抜き、そこそこの給料、それなりの人生を歩んでいる。
 愛宕は俺よりも出世しているが、可愛い後輩が優秀で先輩とっても誇らしい。どうです? うちの子すごいでしょう? とドヤ顔したい気分。
 まあ、愛宕と親しいなんて言おうものなら、俺の呑気な社会人生活はあっという間にえらいことになるんだろう。
 やれ紹介しろ、やれつなぎを取れ。愛宕との関係に会社の利害、人間関係のゴタゴタが持ち込まれるのは間違いない。そうでなくとも、同じ高校だったと知られれば、仲が良かったのかどうなんだと探られるんだから堪ったものじゃない。
 愛宕にとって煩わしいものは、俺の周囲に近づける気はないんだ。
 今でも時々勝手に回る家の鍵。
「真司先輩」と笑いかけながら顔を覗かせる愛宕にとって、俺は可能な限り変わらないようにしたい。高校生の頃のように。愛宕を可愛い後輩として大事にしたい。愛宕にとって、俺は家も社会も関係ない先輩で在りたい。
 愛宕が望んだように。
 それを苦々しい顔で「おかしいよ」と繰り返した南方とは、もう随分連絡をとっていない。ひょっとしなくても、このまま疎遠になって、縁が切れるんだろう。同窓会で顔を合わせても、まともに会話をするかどうかも怪しい。
 南方に対して、やっぱり俺は曖昧に笑うだけだった。
 否定できないことを知っていたけど、俺だけは声に出して認めるわけにはいかないんだ。いや、認めてもいいのかもしれない。認めた上で、俺はそれでいいと思っているから。
 でも、愛宕は違うだろう。
 なら、俺は否定も肯定も、その先に用意したものごと全部飲み込む。

「あー……」

 今日の分の仕事は終わり。残業はなし。
 電車に揺られて自宅へゴー。
 閉まったままの鍵に愛宕は来ていないと知る。愛宕の訪いは頻度が下がった。当然だ。愛宕は俺よりも忙しい。顔を見せると疲れた様子で「真司先輩」と呼びながら抱きついてくる。いい年をしてなにをしているんだか、と言う俺はしかし、顔面が土砂崩れを起こしている自覚があった。甘える後輩がとても可愛い。
 明日は休日、そうなれば熱いシャワーを浴びた後に躊躇なく缶ビールのプルタブに指がかかるというもので、ごっきゅごっきゅと喉に流し込んで、ぷはあっと息をつくことのなんと心地よいことか!

「この一杯のために生きている……」

 ふへへ、と笑いながらカルパスはむっしゃむっしゃと齧り、塩気をビールで流す。さらば、健康な肝臓。健康診断次第では労ってやるが、明確な数字に現れる日までは心の健康の犠牲となれい。
 トランクスにTシャツというこの上ない部屋着で過ごしていると、鍵ががちゃりと回る音がした。

「おいすー」
「……真司先輩、流石におっさん臭いですよ、その格好」

 苦笑いする愛宕は仕事帰りとは思えぬキッチリ感だ。俺の後輩は今日もしっかりしてるなあ。

「真司先輩、それなんですか?」

 愛宕の目が好奇心にきらきらと輝きながらカルパスを見ている。
 あれ? 俺、愛宕の前でカルパス食べたことなかったっけ?
 今まで色々食べさせてきたからなあ、と思いつつ、愛宕が知らないならないんだろうと俺は新しいカルパスを取り出して、愛宕に渡す。

「カルパス。加工肉だ」
「サラミとは違うんですか?」
「サラミは食ったことあるのかよ。あるか。ピザは散々食ったしな」

 それに、サラミくらいなら俺が連れ回さなくても見るなり食べるなりする機会は多いだろう。

「なら、これも同じでいいんじゃねえの?」
「いえ、サラミは薄く切られていたので、別のものかな、と」

 待って。
 それは暗に俺がカルパスを態々スライスするような手間をかける人間じゃないって言ってる? 流石俺の後輩、間違ってないんだなあ、これが!
 ってか、カルパスとサラミの違いってなによ……え? 待って、本気で分かんない……

「ちょっと待て、気になってきた。愛宕、そこのタブレット取って」
「はい、どうぞ」
「ん」

 ぽちぽち調べて……ほうほう、なるほど。

「よし、分かったぞ、愛宕。カルパスとサラミは使っている肉に違いがあるらしい。あと発祥地」
「なるほど……ところで、真司先輩」
「ん?」

 タブレットを置いて、愛宕の分の缶ビールを取りに行こうと立ち上がった俺は、呼ばれて見下ろした先にある愛宕の表情にひく、と喉を鳴らした。
 まるで、獲物を凝視する猫みたいな目。
 目を離さないまま、愛宕が鞄を引き寄せて、中からファイルを取り出す。
 そこそこの厚みでまとめられた書類を愛宕は俺に差し出して、言った。

「俺を愛宕と呼ぶのを、やめませんか?」

 書類はある女性のプロフィールだ。
 先天的に問題を抱えた体で、周囲の助けがなければ生きてはいけないらしいことが、ざっと読んだ限りでも察せられる。更に読めば、彼女には両親しか身寄りがなく、その両親は高齢で、蓄えもそれほどあるわけではない。どんなに国の援助があっても、体が深刻な状況になれば、間に合わない、追いつかない。俺より、愛宕より年下の、そんな、ひと。

「真司先輩」
「……なんだ」

 なにを言うつもりだ。
 これを見せて、お前は俺になにを望む気なんだ。

「俺が彼女と養子縁組をしたら、彼女と結婚しませんか?」
「……愛宕」
「婿入りという形で、契約婚ですから真司先輩の私生活が煩わしくなることはありません」
「愛宕……ッ!」

 愛宕が素早く立ち上がり、俺の胸ぐらを掴み上げた、

「そうすればっ、あなたは俺と同じ『愛宕』で! 家族になれるんだ!!!」

 血を吐くように叫んだ愛宕の手が滑り落ちて、けれど落ちきらずに止まった手を、俺は黙って見下ろす。
 変わらない。
 愛宕は俺のTシャツの裾を強く握りしめていた。

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あきゅろす。
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