小説
十話
その動きはしなやかであった。
まるで水の上を緩やかに滑るような動き、かと思えばくるり、くるりと舞い上がり長い手足が迫力を以って観客を圧倒する。
優雅であるのに力強い。
目で追って、はっと息を呑む。
九重の演技が終わったとき、観客席からは惜しみない拍手が贈られた。
そのなかで一等熱心に両手を打ち鳴らし、目尻に涙を浮かべるのは村雨。
村雨は今日という日、バレリーノとしての九重にとってとても大切な舞台に己が頬を濡らすであろうことを分かっていた。
薔薇の花弁のような化粧をされた瞼であれば、多少腫れたところで目立たないだろう。涙に濡れても滲まぬものを選んだのだから。村雨は己の美貌に無様を危惧せず九重のいなくなった舞台を見届けて立ち上がる。
こつ、と慎重に突いた杖。
気持ちが逸って足が縺れそうになる。
今まで何度もなんども不自由な足を恨んできた。
村雨は小学生の頃から柔の道を進んでいた。
幼稚園の頃から少女めいた容貌の村雨を心配した祖父が、知り合いの道場へ通うように促したことに端を発してのことだが、祖父の心配は祖父馬鹿とは言えない程度のものであった。
すれ違うときに幼いこどもでは意味の分からぬ卑猥な言葉をかけてくる近所の小男や、疑うことを知らぬこどもの親切を利用し、わざと物を落として届ける小さな手を汗に湿った手でぎゅうっと握ってくる不審者。
心に深刻な傷を負う前に、と周囲が動くのも当然の環境に、村雨はいた。
幸いと言うべきか、そういった輩の行為の意味が分からぬままに柔道の道場へ通うことになった村雨は、あっという間に柔道へとのめり込んだ。
だが、同い年のこどもというのは思ったことをそのまま口に出すもので、少女めいた村雨が一所懸命に柔道へ取り組む姿を「女のくせに」と揶揄してきた。
その道場には男子しかいなかった所為もあるだろう。
村雨は自分が男であることを言い返したし、村雨がどういった事情から道場へ通うようになったかを知る師匠は村雨がそういった揶揄いを受けているとすぐに相手の頭へ拳骨と雷を落とした。
だが、それでも懲りないのがその年頃の小僧っ子というものなのか、頭を押さえながら彼は言った。
「だって、こいつ本当に女みてえで弱っちそうじゃん!」
村雨はカチンときた。
村雨には年の離れた姉がいて、彼女は村雨をよく可愛がり、不審者たちにも強く憤ってくれたひとだ。近所の小男に村雨が卑猥な言葉をかけられる場面へ買い物帰りの姉が居合わせたとき、彼女は鬼の形相で買い物袋から葱を抜き取り小男をぶっ叩きにかかった。
叩いて叩いて葱がしなしなに折れても叩き続けて小男がひいひ言いながら逃げていくまで叩き続けた。
村雨は唖然としながら荒々しく息をする姉の背中を見上げていたが、あの勇ましい背中の記憶が薄れることは全くない。
以来、村雨にとって「女」は弱いものではなかった。
よって、少女めいていようが、そうあろうと思えば自身とて姉のように勇ましくなれるはずであるし、女みたいであることが弱いだなんて有り得ないとむかっ腹が立ったのだ。
その日、道場から帰宅した村雨は姉にねだった。
「おねえちゃん、ぼくのこと可愛くして」
後に姉は語る。
これ以上、可愛くしてどうするのか、と。
だが、弟がふんふんと興奮しながらお願いを繰り返すことに、姉は断ることができなかった。
最初はうさぎのヘアピン程度だったのだ。
それが次第にリボンになったり、レースになったり、乾燥する冬の季節にはふっくらつやつや児童の唇に必要かも不明なリップがこっそり色付きのものになる。
「正直やり過ぎたと思うが私の弟が最強に可愛らしいので全く問題はない」
村雨が道場へ通うようになった理由が理由であるため、幾らお願いされたからといえども、と姉は家族会議にかけられたが反省も後悔もしなかった。村雨はもちろん感謝しかしていない。
そして、村雨は姉の言葉通り「最強に可愛い」を目指していた。
いや、正確にいうのであれば「最強で可愛い」だ。
村雨は可愛らしく成長しながら既に道場では同い年の中で一番の実力者になっていた。
あの日、村雨を馬鹿にした小僧っ子は村雨をさん付けして呼ぶようになっている。
もとより柔道は柔能く剛を制すことを目指すはずなのだ。可愛らしい村雨がまるでゴリラのような逞しい相手に一切怯むことなく立ち向かい、善戦する姿はただの負けず嫌いだけでは辿りつけないものがある。
村雨は柔道が好きだった。
容姿が原因で酷い目に遭わせようとするひとがいる。
容姿が原因で馬鹿にするひとがいる。
そういう相手を容姿見せつけながら打ちのめしてやるという思いは確かにあったけれど、柔道は、楽しかったのだ。
だから、成長していくなかで柔道の世界で知り合った相手。
何度も試合でぶつかり合って、勝って負けてを繰り返して、次こそはと意識するようになった相手。
ライバル、なんて言葉がぼんやりと浮かぶ相手に、事故で柔道を諦めなくてはならなくなったとき、向けられた「可哀想」という言葉に村雨の心は酷く傷ついた。
「可愛い」を追っている内に、いつの間にか女性的に振る舞うことが当たり前になっていた村雨は、もう当初の女のようだからという理由で与えられる理不尽を跳ね返すものを持たなくなったと感じる。
けれども、姉のように真実女たちが弱いかといえばそんなことがないのだと、村雨は知っていた。
重い片足を引き摺りながら、村雨は向けられる憐憫を強かな女のような振る舞いで跳ね返す。
男を捩じ伏せる男になれないならば、男を喰らう女のようになろうとすら思った。
的外れでも、斜め上に行った行動でもなんでもいい。
村雨には自らを動かす行動指針が必要だったのだ。
強い己を作るための軸と由来が必要であったのだ。
最初は虚勢染みた己の振る舞いに疲れ、村雨は趣味に耽溺するよう周囲にはあまり理解の得られなかったモダンバレエの鑑賞へ向かう。
そこで出会った同い年の少年が、九重だった。
九重の成長も、九重の身に降った災厄も、村雨は見ている。
進学した学園に、九重が転入してきたときは、とても驚いた。
近づいて、その胸の内を探って、随分と鬱陶しい真似をしたものだと今は反省している。
その分、得られた九重の答えは村雨を歓喜させた。
九重はまだ諦めているわけでも、可能性を失くしたわけでもない。
九重は村雨の心を削った憐憫を持たない。
九重は――今日、バレリーノとして復活した!
学園を卒業して、九重は実家を出た。
母親には随分と反対されたようだが、父親が後押ししてくれたらしい。
家事の苦手な九重のアパートの台所には、村雨が立つことも多かった。
今日は遅くなるだろうから、九重の好物であるメープルシロップを隠し味に入れた肉じゃがは今度作ることになるだろう。
口元に隠せぬ笑みを浮かべ、村雨は事前に確認と承知をとってある楽屋へ向かう。
そっと伺った村雨へ応じたのは、何度か顔を合わせたことのある九重と同じ所属の青年。
青年はにやにやと訳知り顔で九重の名を呼ぶ。
九重は、とても満ち足りた顔をしていた。
「……素敵だったわ」
「当然だ」
「あなたが、一等素敵」
「当然だ」
当然だから、当然だと返す。
村雨は瞼が熱くなるのを感じた。引いたはずの涙が再び溢れた。
「おい、村雨」
「なあに……」
「もう一つ言葉が足りないんだが」
「ふふ、あなたって亭主関白だったのねえ」
涙を指先で拭い、村雨は、村雨もまた、満ち足りた笑みを浮かべる。
「九重」
「なんだ」
「――あなたが一等好きよ」
九重は犬歯を覗かせて笑い、片足の儘ならぬ村雨の全てを支えるように力強い腕で抱き締めた。
「当然だ」
楽屋のなか、誰かがひゅうひゅうと口笛を吹く。
囃し立てる声を村雨は指先に託したキスで返し、九重がすぐにその手をとって「俺のだ、返せ」と言うものだから揶揄の声は盛り上がり、いつまでも賑やかなままであった。
「九重にはこっちがあるでしょ?」
村雨が唇をつんと突けば、九重はそうだな、と頷く。
「お前にならそのままキスされてもいいよ」
いつか、紅を落とさないでキスをする相手は独占欲が強いのだという話をした。
村雨は目を細め、杖を持つ手から力を抜いて九重に体を預ける。
「好きよ」
「俺も好きだよ」
村雨は自信に満ち溢れた笑みを浮かべる。
「当然ね!」
2016/7/17
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