小説
五話
浴場にまで杖を持ち込めるわけはなく、むしろ普段使いしている杖では濡れた足場でかえって危険になるので村雨は片足を引き摺るようにゆっくり歩いている。
浴場という都合、壁伝いに歩ける場所も限られているため傍目にはひどく危なっかしい村雨に九重が手を差し出したのは、自然なことであった。
「あら、ありがとう」
礼を言うも差し出された手をとる姿はどこか当然であるかのような様子で、普段から村雨が周囲にどのような扱われ方をしているかがよく分かる。
そのことに九重は若干呆れたが、九重が手を差し出すまで村雨は催促の言葉も乞うような眼差しも送らなかったのだ。
村雨は与えられるものは当然のように受け取りはしても、与えられることそのものまでもを当然としているわけではない。
そのことにさえ気づけば不快感など覚える隙もなく、むしろ他に不自由はないのかと九重のほうがそれとなく村雨の様子を窺ってしまう。それはまさに、先ほど生徒に頼まれた通りに。
洗い場にて村雨と並びあっていると、村雨の鼻歌と彼が持参したボディソープが発する薔薇の香りが届く。
なんとも言えない居心地の悪さに横目で村雨を見遣った九重は、いつか感じた困惑を思い出して眉を僅かに寄せた。
村雨の体は傷跡を抜きにしても特徴的だ。
九重には村雨が計算して体を鍛えてきたことが分かるし、それがただの見せるだけの筋肉ではないことも理解できた。
男ならば一度や二度三度、筋トレにはまるものであるが、村雨の筋肉は実用的だ。
足を負傷する以前に、なにかやっていたのかもしれない。
だが、それを問うことは九重にはできなかった。
九重だからこそ、できなかった。
「私の体にいやらしい視線を向けるなんて、九重も案外男ねえ?」
村雨が笑う。
当然見たことはないし、想像だってしたこともないけれど、吸血鬼のような笑みだと九重は思った。
「勝手なことを言うな」
「そうかしら? 私のこと暴きたいって目で見ていたくせに」
「そんなことは、ない」
「ほんとうに?」
村雨が片手を九重の太ももに乗せ、ずい、と身を乗り出す。
近づいた顔はまだ化粧を落とされていない。多少濡れても落ちない化粧品らしく、薔薇の花弁にも似た瞼と長い睫毛に飾られた目が力強く九重を射抜く。
血塗れたように赤い唇が真珠のような歯をちらつかせながら開かれる。
「ほんとうに、そう思っていないの?」
無意識であった。
無意識に村雨の手を払い、結果的に彼は洗い場の床へと崩れる。
はっと我に返り、焦って上擦る声で名前を呼べば、ゆっくりと床に手を突いた村雨が下から九重を覗き込む。
「痛い」
「あ……悪い、ほんとうに悪かった」
「痛いのよ、ねえ」
また、村雨の手が伸ばされた。
その手に九重は一瞬躊躇したけれど、今度は理性を以って掴む。
しっかりと手を握って支えるように村雨を起こせば、彼は嫣然とした笑みを浮かべながら九重へ寄りかかり、湯気に溶けるような声で囁いた。
「やっぱり、きちんと鍛えているのねえ?」
やっぱり。
なにを知っているのか、どういうつもりなのか、問うより先に呆然とした九重に村雨は「寒くなっちゃった」と言いながら腕をさすり、九重の胸中一切に応じない。
「村雨」
「ねえ、さっきのお詫びに浴槽まで連れて行ってちょうだいよ」
「村雨」
「はあ、やっぱり転び方も下手になってるわねえ。面倒臭いわ」
「……村雨」
「早くしてちょうだい」
諦め、九重は村雨の腕をとる。
ほんの僅か引き摺る足につられて重く引っかかる村雨の体を浴槽まで導けば、彼は満足そうに湯の中でのびのびと長い手足を伸ばした。
それきり、そばにいるのも気まずくて村雨が浴場を出ようとするまで距離をとっていた九重であったが、湯に使って重くなった体を億劫そうに引き摺る村雨がいつの間にか顔を洗って化粧を落としていたことに気づくと声をかけずにはいられなかった。
「お前、化粧しないほうがいいぞ」
「……ぼんくらよねえ」
化粧を落とした村雨は、整っているけれどどこか寂しげな影のある顔をしていた。
ひとによっては印象が暗くて無意識に視界から外してしまうと言うかもしれないけれど、気づけば目で追ってしまう。ふと頭の片隅に置いてしまう。つい気にかけてしまう。
そういう、不思議な魅力のあるひとだから、九重には力強く魅力を押し付けるくらいに押し出している化粧をした顔よりも、好ましいと思ったのだ。
村雨の返事を聞く限り、九重の言葉は気にいるものではなかったようなのだけれど。
そも、言葉のなかにある意図に気づいたかも怪しかった。
気づけというほうが無理な、典型的な口下手男の言葉なのだから仕方がない、と村雨に遅れて浴場を出ながら九重は後悔する。
九重が脱衣所へ出ると、村雨のそばには先程の生徒がいて必要なのかも分からない手伝いをしていた。
「じゃあ、九重。ありがとうね」
「あ、いや……」
手伝いがいるおかげでさっさと杖を突いて歩き出す準備整った村雨に手を振られ、九重はおぼつかない返事を返す。
ぼんくらとは言われたが、不機嫌そうではなくてなによりだと思った己を九重は持て余した。
「化粧、直さなかったんですね」
「そうね、さっぱりしたものだから」
「肌にはいいことですよ」
「そう思うわ」
「今までは絶対に化粧直していましたからね」
「たまには、ね」
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