小説
二十四話



 フェートは声を荒げていた。
 必死に制止を叫び繰り返していた。

「なにを考えているのですっ? 彼女は重症を負って……そうでなくともこんなものは禊でも清めでもない! 拷問です!!」

 司祭が村人たちと用意したのは、こどもであればすっぽりと入ってしまえる樽。その中には並々と聖水が満たされている。
 このなかに紅梅を沈めると司祭が言ったとき、フェートは聞き間違いかと思った。
 霊泉に半身を沈める修行はある。
 だが、司祭が言っているのはそんなものではなかった。
 紅梅が悪しき魔族ではないのならば、聖水に全身が浸っても嫌がることはないだろう。聖水を拒んでその身が浮き上がることはないだろう。
 魔族としての生まれは拭うことができなくとも、聖水が身にしみこめば穢れた質も清められると一切の疑問もなく言い切ったのだ。
 魔族でなくともこの雪と馴染み深い土地で全身を水に沈められれば暴れるだろう。まして、片腕が落とされているのだ。
 魔族でなくとも水に沈めば体は浮くだろう。沈むのは死体だけだ。
 魔族ならば水を飲んで苦しめ、それが当然だというのか。
 魔族だ。確かに魔族だ。
 村人たちは魔族に身内を殺されたばかりだ。
 だが、それでいいのだろうか。
 魔族だから。
 それだけで紅梅はこの仕打ちを受けることが当然なのだろうか。
 フェートは筆頭覡だ。
 バリオルとして受けた教育は高度である。
 魔族が如何にバリオルにとって恐ろしいものであるか、バリオルになにをしたのか、バリオルが魔族を憎むに値するものをよく知っている。
 同時に神へ侍るに相応しく在るようにも教育されるため、フェートは目の前の光景が飲み込めない。
 なにも悪いことなどしていない魔族を、バリオルが一方的に虐げようとしている光景を、飲み込めないのだ。

「だから、訊いたのだ。連れて行くのか、と」
「ツァーレ……」

 司祭が、村人が紅梅を差し出せと迫り、フェートはじりじりと後退する。

「どうする? どうこの場を切り抜ける? 神子一行が魔族を庇ったと四方千里に届くかもしれんな」
「差し出せと、いうのですか……っ」
「そうすれば簡単だ」

 ツァーレの腕のなかにいる紅梅へ視線を向けたとき、その睫毛が震えた。
 ぽっかりと開かれた瞼の奥で、ゆっくりと紅梅が周囲を見渡している。
 目覚めて聞こえるのは「魔族を差し出せ」という重なった声。
 紅梅は薄っすらと笑う。
 不純物が一切混じらぬ氷のように、透明な笑みであった。

「下ろしてください」

 腕を失った痛みを微塵も感じさせぬ声音。

「やっぱり、魔族は生まれたことそのものが罪なんですね」

 フェートは胸を抉られたような痛みを覚える。
 何処の世界に生まれを選べる命があるだろう。
 ツァーレは紅梅を地面へと下ろした。司祭や村人がわらわらと腕を伸ばして紅梅を引き摺っていこうとする。
 紅梅は首だけを振り返らせた。

「私も朱牡丹おにいちゃんみたいに逃げたかったけど、そんなに力がなかったの。だから、怖い話として聞いても、朱牡丹おにいちゃんにずっとずっと憧れてた……」

 ひう、と音を立て、紅梅を冷気が取り巻く。伸ばされていた手が悲鳴と共に引っ込んだ。

「魔族だ! やっぱり魔族なんだ!」
「殺される!!」

 蜘蛛の子を散らすように逃げていく司祭と村人を見つめもしない紅梅の手には、小さな氷柱がある。
 ぞくり、とフェートの背筋に寒気が走った。

「魔族になんて生まれたくなかった。でも、あんなバリオルにもなりたくない。こんな世界……だいっきらい」

 どつンッと音を立てて、氷柱が紅梅の喉を穿つ。
 愕然とするフェートに微笑みかけて、紅梅は血潮を花びらのように散らしながら倒れていった。
 魔族である紅梅の精一杯。全身全霊の抵抗。
 それは、自らの未来を絶つことだけで限界だった。
 バリオルのなかに混じって暮らせるほど弱い力ではなく、バリオルから身を守ることができるほどに強い力を持たない。
 誰かが守らなければこうして虐げられる命。朽ちることにしか救いを見出すことのできない命。
 何故、バリオルは魔族を憎んだのか。
 ――「魔族だから」ではなかったはずだ。
 一体誰が、バリオルのなにが、命の生まれを咎める権利あるというのだろう。

「…………この世界の在り方は、おかしい」
「それをお前が言うのか? 筆頭覡」

 ツァーレの言葉が重くフェートに伸し掛かる。
 疑問などなかったのに、提示された問題に自分で考え、自分で答えを出してきたはずなのに。
 提示される問題そのものが偏っていたことに、フェートは気づいてしまった。
 この先々でもこんな思いを繰り返すのかもしれない。こんなにも飲み込むことのできない苦いものを味わい続けるのかもしれない。
 そのことがフェートには酷く恐ろしい。
 旅が終わっても、まだ自分は神に傅くもので在り続けられるのか、フェートは断言できなかった。
 ぐしゃりと前髪を乱すように掴むフェートは、不意にツァーレが素早く背後を振り返ったことでつられてよろよろと視線を向ける。
 さくり、さくりと雪を踏みしめて、潔志が向かってきていた。
 その肩口は破かれた布で縛られているが、血で赤く濡れているし、処置されきらぬ負傷箇所がほかにもあった。

「潔志殿!」
「……お待たせ」
「急ぎ治療を……っ」
「うん『ちゃんとした』から大丈夫。それよりなにかあった?」

 どこか曖昧な笑みを浮かべて剣を持たない手をひらひらと振る潔志は、村の惨状など知らないのだ。
 だが、数歩もすれば潔志はその円い目を見開く。

「紅梅ちゃん?」

 フェートは潔志になんと言えばいいのか分からなかった。
 紅梅は魔族であった。だから村人による拷問を受けそうになり、それを忌避して自害した。自分たちはなにもできず見ているだけであった。
 並べれば情けなさに目眩がするが、そう説明するより他にはない。
 じっと話を聞いていた潔志は動揺もなく紅梅のそばへ膝を突いた。
 神子が魔族の亡骸に向かって膝を突く。
 この光景を受け入れられるバリオルはどれほどいるのだろうか。

「……ツァーレくん」
「はい、潔志殿」
「紅梅ちゃん、なにか言ってた?」
「魔族になんぞ生まれたくなかった。バリオルにもなりたくない。こんな世界は大嫌いだ、と」
「……そっか」

 立ち上がり、潔志は怪我も構わず剣を構える。
 なにをするのかとフェートが見つめる先で、音もなく一閃。
 なにか。
 なにかは分からぬナニカが紅梅から断ち斬られたのをフェートは察した。

「次は紅梅ちゃんが笑える世界だといいね……歌、ありがとう」

 潔志は紅梅の亡骸を抱いて立ち上がる。
 体に障るとフェートが慌てて止めるが、潔志は緩やかに首を振った。

「ツァーレくん、荷物持ってきて。紅梅ちゃんたちを埋葬したらそのまま発とう」
「お怪我は」
「適当にするよ」

 予定よりも早い出発、それも魔族を埋葬してからという潔志たちに司祭も村人もぎょっとしていたが「死者を辱めることは許さない」と神子がたった一言突きつければ挙動不審になって黙りこんだ。
 そんな彼らを一切無視して村を出る際、潔志は少しだけ振り返って囁く。

「ああいうのを人でなしって云うんだろうねえ」

 潔志が、神子がバリオルを「人でなし」という。
 果たしてこの世界に「人」はいるのか、自分は「人」でいられているのか、フェートは深い苦悩に苛まれた。

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あきゅろす。
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