小説
十五話
神子があの方を目指すのであれば、きっと、必ず、絶対にこの土地を通るだろうことを分かっていた。
常であれば晒していた肌を忌々しさすら滲む懐かしい衣に隠し、訪った村で都合のいい話を聞く。
都合がいいけれど、時間がない。
土地の勘は残っている。
土地は自分に味方している。
この土地に長く住まう誰よりも。
だからこそ、自分はこの土地を追われた。
胸に走る痛みがないとは言わないけれど、それはもう微かなものだ。
そうだ。
この痛みそのものにも、もう決着をつけてしまおう。
そのためには確実な手段をとらなければならない。
神子の同行者であれば無力など有り得ない。
各個撃破。
だが、本命は神子だ。
神子を殺す前に消耗するなど、それは愚かなことだ。
彼らが迷っている間に、二度と戻ることはないと思っていた生まれ故郷に足を踏み入れる。
既に神子を、稀人を捉えた後だからだろう。少し気配に気をつければ正面から入っても向けられる視線はない。
そうして奥まで進み、こどもの頃に見つけた秘密の入り口を使うのだ。
塀にある穴はこどもか、痩躯の大人であれば通り抜けることができる。
酷い緊張に耳鳴りがして、それでも穴を通り抜ければ体が塀を抜けると同時に頭のなかでべろりと薄い膜が捲れるような錯覚がした。
そうだ。
ここだ。
この屋敷だ。
ここで、だ!
一瞬湧き上がった懐かしさは、胸を掻き毟りたくなるような悲しみと殺意にかき消された。
記憶のままに駆けて、気配を頼りに見つける。
ぞっとするほど白い肌、青い唇、漆黒の髪。
美しいと称賛される顔に驚愕と恐怖を浮かべる女たち。
「うそ……まさか、朱牡丹……?」
からからに乾いた喉から吐き出したような誰何に笑み歪んだ表情を返す。
「ええ、そうよ。そういうお前は梔子ね」
肯定に対して凍りついた表情が彼女の、梔子の最期の顔。
悲鳴が上がる。
振り返れば懐かしい顔がずらりと並ぶ。
桔梗。
酔芙蓉。
雛罌粟。
金鳳花。
芍薬。
――緋寒桜。
「……お久しぶりね、愚妹たち。それに……母様」
女たちが、妹たちが後ずさる。
母だけが表情も変えずにその場に立っている。最後に見たときにはなかった眼帯をつけている母に、朱牡丹はく、と口角を上げた。
部屋のなか、仄かに菓子の香りが残っているから、きっと神子は案内された後だろう。
さて、他に年頃の娘はいただろうか。自分が追われた後に生まれたのだろうか。だとすれば随分と幼いだろうによくもまあ。
神は稚いものを好むという。
ならば神子もそうなのだろうか。
しかし、緋寒桜は神子が「神子」であることを知らないだろうに。
知っていれば、招くなど絶対にできるはずがなかった!
胸に湧き上がった形容しきれない感情は瞬時に凍てつき、体は駆けて逃げ出そうとした桔梗を捉えて貫く。
桔梗の胸に咲いた紅蓮。
女たちの劈く悲鳴。
耳障りな声の不快感を消すように、紅蓮の花を増やす。
ここは紅蓮地獄。
凍てつき、血飛沫が紅蓮のように咲く。
「いやああああああ! 助けて、助けてええええええ!」
「ごめんなさいごめんなさいあのときのことなら謝るから!」
「お願いよ朱牡丹、許してちょうだい……っ」
「ああああああ手が、手があああああ!!」
泣いて叫んで散っていく。
酔芙蓉も雛罌粟も金鳳花も芍薬も紅蓮になった。
残るのは緋寒桜。
緋寒桜は悲鳴も上げず、身動ぎもせず、ただそこにいた。
眼帯をした、一つきりの目でじっと全ての光景を見つめていた。
「……むかしの私はやさしかったわ」
ぽつりと呟くも、緋寒桜は見つめ返すだけ。
「むかしの私は、あなたの片目だけで済ませてしまった」
緋寒桜は眼帯へ白い指先を這わせる。
両の目が覗けば、ただでさえ美しい顔はどれほどの魅力を放って稀人を捉えることだろう。
今となっては、眼帯を外されてしまえばふらふらと誘われた稀人も逃げ出してしまうかもしれないのだけれど。
「……むかしの私は間違っていた」
ぽつりと緋寒桜が呟く。
見つめてくる目に狂気はない。
どこまでも冷静で、どこまでも平淡。
「お前なんぞ、早々に始末するべきだったのよ。この忌子が」
短く吐き捨てられた言葉は、脳裏に嫌でも過去の情景を揺り返させた。
まだ幼い頃の記憶。
なにも知らず、なにも分からず、見えるものに不安を抱きながらも、見えないものへ期待を併せ持つことのできていた頃のこと。
胸へと走った痛みは存外に大きい。
ならば、その痛みに勝るものを緋寒桜へ返そう。
あのときよりも正確に、あのときよりも確実に、悲しみも憎しみも痛みも、与えられた全てを返そう。
緋寒桜は既に生を期待などしていないようであったけれど、希望を持たせてから絶望させるなんて手間を彼女にかけたくない。
どれだけ確執が、因縁があろうと、ほんとうに大切なものを間違えてはならない。
本来の目的は別にある。
近づいてくる足音。
緋寒桜がふと障子の向こうを窺うように顔を向ける。
その瞬間に彼女の胸へ紅蓮を咲かせた。
「あ」
悲鳴さえも凍らせて、緋寒桜は露わにする片目を見開き青い唇から幾枚もの赤い花びらを零して散った。
同時に、障子が開かれる。
想像していたよりも年かさの男。
片腕には重なる面影を知る女児、もう片腕には剣。
間違いない。
間違いだと思わなかった。
――神子がいた。
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