小説
五話



 あの方は珍しいものがお好きだ。
 あの方は退屈がお嫌いだ。
 でも、あの方がこの世界に飽いてしまうことはないのだろう。

「呵々々!」

 上機嫌に笑う声に嬉しくなりながらあの方の居室を訪えば、あの方が威厳に満ちた顔を愉快そうな笑みに和らげているのが見えた。
 あの方はバルコニーの手摺に片肘突いて、手の甲に顎を乗せながら外を眺めていらっしゃる。
 その金色の目になにが見えているのか、私には分からない。
 そっとお傍に寄れば反応できないほど素早く腰を抱かれて隣へ引き寄せられるけれど、同じ視線に立てていると思えたことはない。

「聖上、なにをご覧になられてましたの?」
「世界を!」

 私如きの問いにも答えてくださる慈悲深き方。
 あの方はこの世界が好きなのだろうか。
 バリオルが言う。
 あの方は世界を滅ぼさんとする悪しきものであると。
 あの方の金色の目は世界を見ているのだという。
 ならば、世界を滅ぼそうなどとは考えておられまい。
 あの方の性根は良くも悪くも真っ直ぐであり、こんなにも愛おしげな目をして見つめるものを、どうして滅ぼそうなどと思うだろうか。
 あの方の定義する「世界」とバリオルの定義する「世界」は違うものなのだろう。
 この世界にはバリオルばかりだ。
 だからこそ、バリオルの主観と価値観が善と正義として罷り通っている。
 バリオルは吠える。
 あの方に奪われたと。
 バリオルが吠える。
 あの方に蝕まれたと。
 バリオルが吠える。
 あの方こそ神をも恐れぬ大罪人、悪逆の徒、暗惡帝。

「呵々、どうした! 憂いに怒りの朱を刷いて!! そこもとが斯様な顔をしたとして、美しいばかりではないか!!」
「嫌ですわ、お戯れを」
「余は戯れなど申さぬぞ!」

 あの方は戯れなど、偽りなど口にしない。
 その口から溢れるのは本心ばかり。
 この瞬間のように気恥ずかしくも嬉しく、ときに残酷な本心ばかり。
 けれど、残酷な本心であろうとバリオルの言葉を弄する汚らわしさとは比べるのも非礼だ。
 バリオル。
 バリオル、バリオル、バリオル!
 忌々しい。
 憎々しい。
 バリオルの祈りなど純血の乙女を手籠めにする暴漢が吐き出すつっかえ声と大差ない。
 あの祈りの声も届かぬ雪の中にあってさえ、バリオルの存在は世界を蝕んでいるのだと思い知らずにいられない日はなかった。
 恨んで恨んで、呪って呪って、嘆いて、絶望に壊れた心はしかし、いまは温かいものが満ちている。

「聖上」
「なんだ?」
「……喉は渇いておられませんか?」
「おお、そこもとはやはり気が利く!」
「ふふふ、お茶を淹れて参りますわね」

 あの方の腕の中から離れるのがとても惜しいけれど、何度も声に音にしてしまいそうなこの胸に満ちるもの。
 それが溢れ零れてあの方へ流れる前に、あの方から離れるべきなのだ。
 あの方はまた世界を見ている。
 世界中を見て、なにかを探している。
 この世界のどこかに、とてつもなく愛おしいものが在るのだと、あの方の金色の目が叫んでいる。
 その目を見るととても寂しい。
 その目を見るととても苦しい。
 その目を見るととても悲しい。
 首を振る仕草も抑えてあの方から離れれば、あの方の張りのある声がかかって肩が跳ねた。

「憂いが増すようであれば言うがいい! その憂い、余が『斬って』くれようぞ!!」

 凍えたように青いところへ紅を引いた唇がほころぶのが自分でも分かった。
 あの方が気にかけてくださっている。
 それだけで寂しさも、苦しさも、悲しさも全てが溶けていく。

「ありがとう存じます、聖上。ですが、この憂いは愛おしいものなのです」
「で、あるか!」
「はい」

 苦しさにのたうち回ることさえも愛おしいもの。
 これは誰にも触れさせない。
 たとえ、あの方であろうとも、差し出すことなどできない。
 世界を見つめるあの方に一礼して、お茶を淹れるために居室を辞する。
 あの方には今日、どんなお茶を召し上がっていただこうか。
 考える時間は幸せで、あの方の口に合えばもっと幸せで、お言葉を賜ることができれば更に幸せで。

「……だからこそ、許せないのよ」

 バリオルが祈り招いた神子。
 御身を弑し奉らんとしているにも関わらず、その存在を歓迎するあの方。

「……嫌」

 視界が歪む。

「嫌、嫌、いや……っ」

 たとえ指を燃やして癒着させようとも、神子は斬り裂いてこの両手から幸いを奪い去っていくのだろう。
 どうしてバリオルの祈りになど応えたのだ!
 神子め、神め、経咲比古、この世界を統治せしめバリオルへ与えた諸悪の根源!
 どうしてなのだ。

「どうしてなのですか」

 どうして、あの方は神子を疎まられない。
 どうして、あの方は神を憎悪なさらない。
 恐怖へ震え、屈しそうになる心がまだ見えぬ神子への怒りを助長する。
 神子などいなければいい。
 神子など消えてしまえ。
 神子など死ねばいい。

「――聖上」
「おお、茶が入ったか! うむ、好き香りである!!」
「それはよろしゅうございました。ところで、一つお願いがございます」
「なんだ!」

 上機嫌に願いの内容を問うあの方へ、一つだけ、ささやかな願い事を口にする。
 あの方は笑い、了を返してくださった。

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