小説
怪3(前)



「店長の名字って変わってますよね」

 なんとなく、最初に抱いたまま店長へ直接は向けたことのなかった疑問を口にしたのは、梅雨が訪れる頃のことだった。

「珍しいなら有難味もあるだろうが、変わってるとはなんだ」
「すみません……」

 鼻に皺を寄せた店長は開くのに不便そうなハードカバーの日記帳らしきものを文机に重ね、馬鹿にしたような……いや、事実俺を馬鹿にしながら「これだからお前は」とぶつくさと言う。
 これだからお前は、とは店長も中々言ってくれるものだ。
 俺という存在を全部引っ括めてしようのないものとして片付けてくださって、まったくそれこそ有り難いったらない。
 店長の名字は華表。
 俺は最初「鳥居」だと思ったけど、きっと何人にも説明してきたらしい口調で「華々しい表でトリイ」と店長が教えてくれた。

「難読漢字とは縁がないんですよ……」
「お前が本を読んでいれば、僕の名字が難読漢字とは別種だとも理解できただろうにな」

 店長の俺を馬鹿にする声音が深まる。
 どうやら自分が的外れなことを言ったらしいことは分かったので、俺ができることと言えばそれ以上余計な口を叩かず店長からそっと視線を逸らして、距離も一緒にとろうと仕事の振りでささっと移動するだけだ。

「椎」
「うぇいっ」
「……もう、一々何か言うのも面倒臭い」

 店長が辛辣過ぎて涙が出そうだ。これはパワハラではないだろうか。バイトにだって労基法は仕事するんだぞ。
 俺が脳内で店長へ労基所からの指導を印籠よろしく突き付けていると、店長がもう一度「椎」と俺を呼ぶ。

「はい」
「出かけるぞ」
「……いってらっしゃい!」

 店長とのお出かけとは嫌だ。
 店長に連れ回される方々で、俺が何度背筋凍る思いをしたと思っているのか。
 野郎二人でお出かけが寒いとかそういう次元ではない。思い出せば何度だって鳥肌が立ってしまうような出来事を体験したし、話を聞いた。
 それなのにどうして店長が「出かけるぞ」と言うのに二つ返事で了承できるだろう。

「バイトの仕事だろうが」
「……ですよねー」

 所詮は貧乏学生、ルビを振るならおちんぎん奴隷。
 今夜も俺は店長によって仔牛よろしくドナドナされることとなった。



 路線が幾つかある大きな駅のメイン出口は、帰宅ラッシュを少し過ぎても行き交うひとの数がとても多い。
 忙しなく駅から出るひと向かうひともそうだけど、ビラ配り、スカウト、友達との別れが惜しくて立ち止まって喋り倒す若者など、ちょっと風がある日だってのに留まっているひとだっている。
 これだけ多いと店長の和装姿に並んでもなんとなく居た堪れなさを感じることもなかった。だって、さっきも所謂着物男子とすれ違ったし。

「店長、良い着物着てたんですね」
「お前も少しは店のもので目が肥えたか」

 店長が着ているのは……なんかこう、しっかりしてるやつ。すべすべはしてない。絹じゃないのは確か。でも、さっきすれ違った着物は明らかに店長のより安い。俺でも分かる。
 下手なことを言えば絶対に店長が馬鹿にしてくるので、俺は懸命にも口を噤む。沈黙は金って言うし。
 店長は駅ナカでワンカップ酒を買うと、そのまま駅前の隅、酔っぱらいとかホームレスとかが寝転んでいるイメージのある壁と出っ張りの陰に移動した。
 俺もついていくけど、店長はなにをするでもなく立っている。
 じいっとひとの流れを見つめる店長の顔は、こんなにも明るい駅前なのに、こんなにもひとの気配がある場所なのに……いつものように出かけると言ったときと同じ少しだけ怖いような、悲しいような、嫌になってしまったような、複雑なものをしていた。
 そんな店長の顔を見ているときに、店長が口を開く。

「現実では決してしない言動を頭のなかですることはないか」
「えっと……?」

 咄嗟に意味が分からなかった。

「そうだな……今ならああするのに、こうするのに、というのもそうか」
「あー……それなら分かります。俺、小学生の時の担任くっそ嫌味なのがいて、今ならこう言い返してやるのにーって思いますもん」

 あとは、直近なところ、店長に労基所の職員けしかけたり……脳内の店長は俺に「いつも怖がらせて悪かった。お前はすごく出来たバイトだ。僕はお前がいてくれてすごく助かっているよ」と心からの感謝と――

「おい、椎」
「いいんですよ、店長」
「あ?」
「なんでもないです」

 理想と現実が混ざり合ったの一瞬。冷ややかな店長の眼差しは俺を覚醒させるのに覿面な効果をもたらした。
 店長は舌を打って、それからふと視線を人通りの一転へ向けた。
 立ち止まって喋る若者たちの集団に酒缶を片手に持ったおじさんが「邪魔なんだよッ」と怒鳴り、腕をぶんぶん振って押しのけ歩いている。
 その剣幕や仕草は見ているだけで怖い。
 若者たちは飛び退っていたし、中には短い悲鳴を上げていた女の子もいる。

「うわ」
「そら、あそこにもいる」

 思わず嫌な声を上げた俺と対象的に、笑いを含んだ店長の声が別の方向を示す。
 顔を上げて店長の視線を追って、見つけたのは喫煙所がすぐそばにあるのに……というか、喫煙所の透明な外側の壁に寄りかかって煙草を吸っているスカウト。あ、そのまま煙草をポイ捨てした……
 足元を見れば歩きタバコもポイ捨ても禁止するというマークがきっちりとあるんだけどなあ。

「今度はあっちだ」
「ええ?」

 店長がなにを見つけているのか、嫌なものには違いないが、その共通点が分からない。
 今度店長が指差したのは、早く帰りたいだろうひとたちの波を追いかけ、ときに引き止めるビラ配り。愛想笑いが寒々しい。

「なあ、椎」
「はい」
「この目に入る範囲だけで、何十人が死んでいると思う?」

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