小説
待ってほしいこと〈ちい米〉



 家を出て暫く、俺は安いアパートに一人暮らしをしている。
 薄い壁はプライベートもなにもあったもんじゃないけど、分相応というものが世の中にはあるのだ。
 自分自身に金がなくて、援助をしてくれるような身内にも恵まれていない俺には、狭くて古くて設備もしょぼいアパートがお似合いというわけだ。
 アパートには殆ど寝っ転がりに帰るだけだから、それは全然構わない。
 女も呼べない部屋と呼んだ奴がいるけど、俺はこの部屋に女を呼びたいとは思わない。そういうのは兄貴がたまーに連れて行ってくれる店でたまーにお零れ貰ったりすればいいかなって思うし。
 発散するだけなら、仕事でも何回かある。でも、俺はあんまり好きじゃなくて見てるだけのことも多い。ホモ野郎ってからかわれることがあるけど、幾ら発育が良いっていったって、まだまだガキなんだ。
 綿パンなんか履いてたり、丸っこい頬してたり、数時間前になんでもないことで笑ってたりするのを見たりしたらもうダメ。無理。見ているのもしてられない。
 だからと言って、ガキどもが可哀想っていうのとも、また違うんだ。可哀想じゃないわけじゃないけど。
 助けられないし、助けようとも思わないし。
 俺はズキズキと痛む頭に加え、胸まで塞がりそうな気分に唸り声を上げる。
 一人暮らしの最悪なところは体調不良になったときだ。
 いや、俺の場合は実家にいても変わらなかったけど。
 病人がいようとおかまいなしの連中がいないだけ、まだ増しなのかもしれない。
 熱に浮かされた体はもちろん、ふうふうと吐き出す息も熱くて、俺は氷嚢とか濡れたタオルが恋しくなる。
 あんまりにもだるくなり過ぎて、俺はとにかく寝ることを優先してしまったのだ。
 かろうじて、兄貴に事務所へ行けない旨は連絡した。
 極道世界に病欠もなにもないけど、最近流行っている質の悪い風邪を事務所へ撒き散らすわけにはいかない。兄貴も熱が下るまで来るなと言ってくれた。
 ブラック企業はびこる世の中、兄貴はなんて優しいのだろう。
 感動に滲んだ目はきっと熱の所為が強い。
 とりとめない思考をぐるぐるさせていたところへ、アパートの古臭い錆びた階段を上るカンカンという音が聞こえた。
 二階建てアパートの上階には自分の他に、あと二人くらいしか住んでいなかったように思う。
 一人は百貫デブで、もう一人は夜遅くにならないと帰ってこない。前者ならもっと大きな足音がするし、後者がこんな時間に帰宅することはない。
 業者かなにかだろう。できるなら自分の部屋のインターホンを鳴らさないでくれれば嬉しい。
 鳴らしたとしても居留守を使おうと思っていたのだけど、予想外にドアはインターホンを鳴らすどころかノックもなしに鍵が開く音を立てた。
 事務所でごたごたがあったとしても自分は狙われるほど偉くもなければ、大した繋がりや情報を持ってもいない。
 命の心配はしないまま、しかし不審者への警戒を抱いたまま顔をのっそり上げれば、三和土へ靴を揃えた小さな背中が見えた。

「あ」
「やあ、米くん」
「ちい、せんせい」

 にっこり笑うのはちい先生。
 手には俺が直接手渡したこの部屋の鍵が、革紐へ通されてぷらぷらと揺れている。

「どうして……」
「元気のない声だ。無理して喋っちゃだめだよ。今朝、連絡をくれただろう? ご飯でも作り置きしようと思ってね」

 鍵を持つのと反対の手には葱がはみ出たエコバッグ。
 風邪を引いたから暫く会えない。
 俺が送ったメッセージはそんなものだったのに、ちい先生は態々世話を焼きにきてくれたのだ。
 ちい先生だって暇じゃないのに。
 それなのに、エコバッグを置くとまずなにより先にタオルを濡らして俺の額へのせにやってきてくれる。
 ひんやりしたタオルのせいで視界が半分塞がれ、笑うちい先生の口元しか見えない。

「ちい先生、ありがとう」
「どういたしまして。食欲はどのくらいある? 吐き気とか喉の痛みは?」
「喉はつっかえる感じがするだけ」
「分かった」

 こっくりちい先生が頷いて、狭い台所スペースへと立った。
 かろうじて国産だけど、安さを優先した米を研ぎ、持参したちっちゃい土鍋でお粥を炊き始めるちい先生。
 風邪を引いて、しんどいから寝て、そうしたら大事なひとが心配してくれて、自分のためにお粥を作ってくれる。
 なんだろう。
 なんなんだろう、これは。
 きっと、これはこの国の多くの人から見れば珍しい光景ではなくて、多くの人には俺がなにに戸惑い、涙をタオルへ吸わせているか、理解し難いに違いないのだ。
 ず、ず、と鼻を鳴らし続ける俺を振り返ったちい先生が「鼻はちゃんとかまないと喉が腫れちゃうよ」と言って、なんと買ってきてくれたらしい保湿ティッシュをそばへ置きにきてくれる。

「ごめん。後でお金……」

 ぺふ、とタオル越しに額を叩かれた。

「米くんが元気になってくれたら、それだけでいいの」

 くるり、とひっくり返されたタオルはひんやりしていて、更に熱くなった目頭にとても気持ちがいい。
 今度は鼻ではなく喉がひっ、ひっ、と鳴りそうになったけど、俺は寒くなったのだと嘘をついて布団を被ることで一所懸命に誤魔化す。
 ちい先生に嘘をつくのはしたくないけど、ちょっとだけ。
 ほんの少しだけ待って、ちい先生。
 あのね、嬉しいんだよ。
 元気でいてくれたらそれでいい。
 そんな言葉を言ってくれるひとはちい先生以外にいなくてね。
 言ってくれるちい先生が嬉しくてね、ちい先生以外にいない自分をちい先生に知られるのが少し恥ずかしいんだ。
 だからね、恥ずかしい気持ちが涙と一緒に流れて、ただただ正直にありがとうが言えるまで、ほんのちょっとだけ待ってね。
 すぐだよ。
 きっとね、ちい先生の作るお粥が出来上がる頃くらい。
 ちい先生が歌うみたいに「味噌味肉そぼろ、塩味炒り玉子、刻んで叩いた梅昆布」って並べた薬味が揃う頃くらい。
 だからだから、あともうちょっとだけ布団のなかにいさせてね。

「米くん? ふふ……おやすみ」

 うん。寝ないけど、寝たふりするから、待っててね。

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