小説
手段のためなら目的を選ばない
・ファンタジー
・獣と王子様



 その椅子の上には、細い一本で吊られた剣が下がっている。
 いつ、その剣に刺し貫かれるとも分からぬ椅子こそが、至尊の玉座。
 望むものは覚悟せよ――

「ぼくはそんな椅子を望まないよ」

 広い天蓋ベッドの上で幾つものクッションを背もたれにしながら、その王子様は横を向いたまま言う。
 王子様の頬は青白く、年齢を思えば僅かなりとも残っているであろうまろみは病的に痩けていた。
 そのこどもの愛らしさを放棄して、けれども胸が痛くなるほどの愛おしさ掻き立てる頬へ、赤い鱗に覆われた手を伸ばし、鉤爪で傷をつけないようにそっと撫でる。
 王子様は瞬きの間に自分を引き裂くことのできる手に触れられても、怯えた様子もなく目を閉じた。

「お前の厭う椅子を望めば、私はそれを叶えるし、そなたがその椅子に掛けたなら、そこもとに巣食う病はたちまち消えてなくなるのだよ」

 がらがらとまるで喉を燻してしまったような声が王子様に諭すように言うけれど、王子様は決して頷かない。
 小さく痩せて、肉の薄い手を恐ろしい獣の手に重ね、王子様は「嫌だよ」と同じ言葉を繰り返す。

「不思議なものだね。かつて、今もだけれど。あの椅子を巡って多くの人間が血を流した。あの椅子に座らないかぎり、流した血で乾いた心は潤うことなどないとばかりにね。
 それなのに、そのほうはあの椅子がいらないと言うのだね。あの椅子に座ることで解放される苦しみがあるというのに、あの椅子に座るまでの困難を打ち払うものがあるというのに、それでも嫌だと」

 心底不思議そうに確認する獣に、王子様は乾いた唇に小さな笑みを刻んだ。
 笑んだ拍子にぷつ、と唇が切れて血が滲むけれど、王子様は眉一つ動かさない。
 王子様はもう、そんな痛みには慣れてしまったのだ。なんとも思わなくなってしまったのだ。
 もっともっと苦しいものを知っているせいと、そんなものすらものともしない幸せを知っているおかげで。
 獣は二股に分かれた長い舌を伸ばして、王子様の裂けた唇をちろちろと舐める。
 くすぐったそうに王子様は笑うけれど、今度は唇が切れるようなことはなかった。
 獣の唾液に濡れた所為ではない。
 むしろ、最初に切れた部分は獣の舌が滲む血を舐めると同時に癒えている。

「きみがあの椅子へ座れば、自分は汝のモノになるのだよ?」

 獣は王子様の小さな体を壊さないように慎重に、すっぽりと抱きかかえてしまう。
 固い鱗に覆われた全身は、羽毛のクッションよりも居心地がよくないはずなのに、王子様にとっては羽毛のクッションよりもずっとずっと優しくて暖かい。
 鼻面を王子様の頭に擦り付ける獣が言う。

「俺の鱗も爪も、なんなら中身だってそちが好きなようにできるのだよ? それがあれば、うぬは――」
「ねえ、獣」

 王子様は獣の胸へ、心臓があるであろう場所へ頬を寄せる。
 獣は背面より増しとはいえ、鱗が王子様を傷つけてはいけないと身を引こうとするけれど、王子様の弱い力が引き止めるので仕方なく力を抜いた。

「ぼくはね、お前の体を何一つ損なおうなんて思わないよ。お前の体から欲しいものなんて、何一つないんだよ」
「……もしかして、ぬし。我がいらないから、あの椅子も欲しくないのかね?」

 あの椅子と獣は切っても離せない関係だ。
 王子様はゆっくりと首を振る。

「違うよ、獣。獣から欲しいものはあるけどね、それは獣の血肉とは違うだけなんだよ」
「なんだい、貴君。貴兄は僕からなにが欲しいんだい。早く言えばよかったんだ。それをやるから、早くあの椅子へお座りよ」
「……ねえ、獣。獣はなんだってあの椅子へぼくを座らせようとするんだい」

 王子様が獣を見上げると、王子様の唇と獣の鼻面がちょん、と合わさった。
 ぐるる、と喉の奥を獣が鳴らす。
 縦長の瞳孔を細める獣は、大きな手で王子様の頭を包むように撫でる。
 何度も何度も、まるで確認するように。

「そちらは知らないだろうね」
「なにを?」
「吾主の父親さ」
「ああ、そうだね。ぼくはこの国の王に会ったことがないからね」
「一度でも会えば……ああいや、あの人間の頭上にあっては逆に……」

 獣が首を傾げる人間臭い仕草が王子様は好きだ。王子様の人間性は獣が教えてくれた。
 首を傾げること、指をさすこと、手を振ること。王子様の知らなかったたくさんの仕草を獣が教えてくれたのだ。
 王子様は獣を見つめる目を細める。その瞳孔は縦長でも横長でもない。ただ、丸い。

「あの椅子へ座る人間だけに許されたものの一つにね、装飾品があるのだけど、余は手前が一番似合うと思うんだよ。今まで見てきたどの人間よりも、この先現れるなによりも。可愛い、格好いい、きっと素敵な貴殿が見たいんだよ」
「……それだけ?」
「そうだよ?」

 ところで、と獣は王子様の頬を両手で挟む。包むには片手で十分だったので、両手を使うなら挟むしかないのだ。

「坊やは妾からなにが欲しいんだね? それを上げたらあの椅子に座るね?」

 王子様がどんな大それたものを欲しがるとも分からないのに、獣は王子様が椅子へ座るのならばなんでもかんでも上げるつもりなのだ。なにがなんでも叶えるつもりなのだ。

「王冠を貴方に。その瞬間を目にできたのなら、わたしの生きてきた幾億の時間に価値がある」

 獣が促すようにきゅむ、と王子様の頬を揉む。

「さあ、なにが欲しい?」
「ぼくはね――」



 吊り下げられた剣の真下、酷く小柄な王様がいる。
 まるで、病を患った過去があるかのようだけれど、いまは健康そうな様子な王様の頭上には、王様が王様であることの証。王冠が輝いていた。

「ねえ、ロッソ」
「なんだい、私の友人」
「ふふ、呼んでみただけ」

 王様の言葉にロッソという名前の獣は、呆れたように肩を上下させる。

「私の友人はそればかりだね」
「ふふふ。ねえ、ロッソ。その名前を呼ぶことができたのなら、ぼくの生きてきた塵芥のような時間にさえも意味があるんだよ」
「そうなのかい?」
「そうなんだよ」
「そうか……ところで」

 獣が豪奢な椅子のすぐ後ろにある壁を殴りつけた。
 壁は簡単に砕け、大きく穴が空いて罅を幾つも広げる。
 獣がいるときは遠ざけている騒がしさが近づいてくるけれど、鉤爪が僅かに振られればドアが堅く閉ざされて開くこともない。
 王様はぱらぱらと壁から破片が落ちる音を聞いても微笑を崩さなかった。

「私の友人。その生きてきた時間を塵芥と呼んだのは何処のどいつだね? 私の友人答えなさい。答えるだけでいいよ。それで全て私が解決してあげよう」

 王様は獣に教わったままの仕草で、首を傾げる。

「さあ? 誰だったかな。多分、土の下にいる誰かだよ」

 王様は腕を伸ばして獣の顔を両手で包み、鼻面へ口付けた。
 そのまま獣に抱きつき、幼い頃となにも変わらない固い鱗に覆われた体へ擦り寄る。

「ねえ、ロッソ。土を掘り返すより楽しいことをしよう」

 無意味に無価値に空虚に塵芥も同然に過ごした時間を埋めるように、生きられる現在がある。
 王様は何度も何度も獣の名前を呼んだ。
 弾んだ声で、掠れた声で、上擦った声で。
 獣の名前を呼ぶことを王子様であった王様がどれだけ焦がれたことだろう。
 頭上に頂く王冠は重たくて、天井から自分を狙う剣は鋭くて、いつ落ちてくるとも分からない。
 けれど、王冠頂く姿に喜ぶ獣がいるのなら、最期に呼ぶ名前があるのなら、王様は幸せであった。

 玉座へ座するものは覚悟せよ。
 国を揺らすことあらば、真っ先に自身が頭上より刺し貫かれようぞ。
 玉座へ座するものよ心得よ。
 王冠を裏切ることなかれ、真の友を得れば繁栄ぞ約束されん。

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あきゅろす。
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