小説
変調は平坦に〈GV〉
・帰還後




「――お前、平民だろう」

 少年の尖った言葉に、イルミナは薄紫の目を丸くした。



 イルミナ・ミュッセ。
 銀色の髪を肩口で揺らす少女は、魔術を専門に扱う国立学院に在籍している。
 行くゆくは宮廷魔術師を目指して生徒を教育する学院では、初期の段階から魔術に関して求められる水準が高い。
 入学には試験が設けられ、通過したもののみが学院の生徒を名乗ることが許された。
 学院は生まれで生徒を選ばないけれど、試験を通過できるだけの基礎知識を学ぶ機会を得られるのは、どうしても貴族が多い。稀に並々ならぬ努力のもと、独学によって平民も生徒として学院に存在したけれど、その数は少なかった。
 その少ない数のなかに、イルミナは含まれる。
 だが、イルミナはただ平民出身とするには、事情が異なる。

「平民のくせになんでお前ばっかり試験で一位なんだよ」

 そばかすの目立つ栗毛の少年は不満を表情いっぱいに表しながら言う。
 学院の廊下を渡る途中、周囲で他の生徒が何事かと視線を向けてくるのも構わず、少年は「俺が平民に負けるなんておかしいだろう!」と主張した。
 言っている言葉の正当性はともかくとして、おかしいかおかしくないかで言われれば、おかしいという言葉はあながち間違いでもない、とイルミナは内心で少年の言葉を肯定する。
 栗毛の少年は貴族出身なのだろう。
 ならば、学院へ入学するまでの間、生家で家庭教師なりを呼んで受けた教育は平民の独学の限界を超える高等なものである。
 その高等教育を受け、満を持して入学した栗毛の少年よりも平民のイルミナの成績が勝るというのは、なるほどおかしい話なのだ。
 けれど、けれども。
 貴族だから、平民だから、ではどうにもならない差というものは存在する。
 才能だ。
 生まれ持って備えた天性の気質。
 それは決して、固有魔力の量や質に限った話ではない。なにより、学院の教育が「学問」段階である内は、むしろ魔力そのものは問題にならない。
 この場合の才能というのはどれだけ努力できるかの才能だ。
 その努力にどれだけ実を結べるかの才能だ。
 貴族が幾ら高等教育を受けようと、彼らが身になる以上に学び、学んだものを貪欲に砂が水を吸うように我が物とする才能。
 当たり前に努力して、当たり前にその努力で結果を出すものにとって、栗毛の少年が言うような生まれで結果を決めつける物言いは、心底腹立たしいだろう。いっそ哀れで馬鹿馬鹿しくすら聞こえるだろう。
 尚も言葉を重ねる栗毛の少年の前で、イルミナはか細く震える。
 俯いて震える少女の姿に、周囲が眉を顰めて栗毛の少年を諌めようとしたとき、銀色の髪を揺らして当のイルミナが顔を上げた。
 輝いている。
 薄紫の目も、愛らしい顔立ちも、ぴかぴかと名が表すように輝いている。

「な、なんだよっ、文句でもあるのか? お前が平民なのは本当だろう!」
「ええ、そうよ!」

 栗毛の少年の言葉に、イルミナは間髪を入れずに肯定した。
 益々輝く顔は無理をしたり、感情を押し殺したものの雰囲気とは明らかに違う。

「私は平民だけど、お師匠に恵まれたの! 平民だけど!」
「し、師匠……?」
「そうよ。私のお師匠は貴族の魔術師なの。平民の私がお師匠に師事できたのはとっても幸運だって分かっているわ。私一人ではきっと入学もできなかったでしょうね。だって平民だもの! だから、平民の私が優れているわけじゃないの。平民の私のお師匠がすごいだけなのよ!」
「そ、そうなの、か……?」
「そうなのよ!」

 すっかりイルミナの勢いに圧された栗毛の少年は曖昧に頷き、イルミナも笑顔で頷く。
 万事解決、疑問は解消。
 栗毛の少年と自分の間に蟠りは一切残っていませんとばかりにイルミナは笑顔のまま少年に手を振り、騒がせたと周囲へ目礼してからその場を立ち去る。
 イルミナの何処までも軽い足取りに誰もがぽかんとしていたが、その中から一人の青年が彼女を追いかけていった。



 イルミナは平民と呼ばれたことに、自分でも驚くほどの喜びと興奮を覚えていた。
 今はイルミナ・ミュッセと名乗り、ミュッセ夫妻の養子となり真実平民であるイルミナだが、元々の身分は異世界王国の王太子が息女、王女である。
 王侯貴族は平民よりも恵まれた暮らしができるものだが、それはいざとなれば一族郎党の命を担保にして成り立っているのだ。
 平民では生涯縁のない見えない拘束も多く、感情を殺すことさえ当然のものとしなければならない。
 もちろん、飢えるより、寒さに震えるより、死ぬより増しだろうと叫ぶものがいることを、イルミナは知っている。
 それでも、イルミナが王女として覚悟した人生は、頭を土に擦り付けて交換できるものであればそうしたいほどに、過酷であったのだ。
 飢えないけれど、腹の中身が焼け爛れるような痛みに吐瀉物を撒き散らしたことならある。
 衣住により寒さに震えることはないけれど、四肢の末端の感覚失せて全身が悪寒に包まれどうにもならなくなったことならある。
 死んだことはないけれど、平民の平均寿命より余程短い生しか望めず、それまでの生涯を道具として、兵器として使い潰されるはずであった。
 それが、イルミナの王女としての人生だ。
 故に、イルミナは自ら食器を、衣服を洗って水分の抜けた手が毛羽立ったように荒れるのが嬉しい。
 故に、馬車を使いたくなる距離も延々歩いて、肉刺ができた足を引き摺りながら進むのが嬉しい。
 故に、どんどん料理が上手くなって、そのことが眉顰められず褒めてもらえるということが嬉しくて仕方ないのだ。

「ふふ、平民。平民。イルミナは、平民ですよー」

 小さく歌うイルミナは上気した頬を両手で押さえる。そうすると、自分が満面の笑みを浮かべているのがよく分かった。

「ミュッセ嬢」
「ひゃっ」

 緩んだ顔をすぐに引っ込め、突然声をかけられたイルミナは振り返る。
 入学する以前であればリムがそばにいたので、声をかけられるまで誰かに気づかないということはなかったのだが、イルミナ一人であるならばそうはいかない。
 イルミナに声をかけたのは、上級生の青年であった。彼の名前を、イルミナは知っている。

「御機嫌よう、ノエル閣下」
「学院ではただのノエルだ」

 ワロキエ子爵嫡男ノエル。
 学院のなかでは全学年のなかでも上位に位置する成績と、実力の生徒だ。
 ノエルが何故自分を追いかけてきたのか一瞬考えたイルミナは、すぐに苦笑を浮かべた。
 イルミナが察したことを理解したノエルは、灰色の髪をかき上げて考えるような顔を少しだけ隠す。

「杞憂だったか」
「はい、ノエルさんにご心配いただくようなことはなにもありません。私は平民であることも、師匠の後ろ盾により今があることにも、憂う気持ちは全く」
「妙に嬉しそうだったが、あそこまで平民主張されると逆に気になるぞ」
「すみません」

 嬉しすぎたのだ、とは自身の背景を知らないノエルには言えない。
 ノエルが知っているのはイルミナが誰に師事しているか、ということだ。
 貴族にして優秀な魔術師になるであろうノエルは、イルミナの師とも面識がある。

「ミュッセ嬢自身の才能が認められなくなる可能性は遺憾だが、師匠が何方であるか公表すれば誰もが納得するだろうな。妬みも同時に買うだろうから、時期を見るべきだが。もっとも、この辺りは私が意見すべきところではないか」
「いいえ、ノエルさんのお心配りは十分に」

 礼を言うイルミナに、ノエルは僅か戸惑いを表情に乗せてから視線を逸らす。

「言っておくが」
「はい」
「私は才能のあるものに、その才能を磨くものに相応しい接し方をしたいだけであって、例えミュッセ嬢がなんの後ろ盾を持たぬ平民であろうと変わらない。いや、多少は私がミュッセ嬢の風除けになるくらいには関係が変わるかもしれないが」

 イルミナは薄紫の目でノエルの硬質な灰色の目を見上げる。決して合わせようとしないノエルの視線だが、窺い知れるものに嘘は少しも含まれていない。

「ノエルさん」
「……なんだ」

 平民と呼ばれたことが嬉しい。
 イルミナはもう王女ではないけれど、それでもその在り方を忘れたわけではない彼女はノエルが、貴族が自身を義務として守るのではなく、庇護すべきものとして前へ立ってくれるつもりがあることに言い表せない気持ちがある。
 説明などできない。
 どう伝えれば伝わるのかも分からない。
 そうできるほど、イルミナの歩んできた道は平坦ではなかった。
 複雑に言葉が絡む喉、不自然な沈黙を急かさず待っていたノエルの前で口を開いたイルミナはたった一言単純な言葉を告げる。

「ありがとうございます」

 泣きそうな顔を見せることができなくて、下げたイルミナの頭へノエルの手が乗った。
 くしゃり、とかきまぜられる髪に、思い出す感触がある。

「ノエルさんは、お師匠に似ています」

 ノエルの手が止まり、暫くして再開した。

「光栄だ」

 僅かに上擦った声は、尊敬するひとへ似ていると言われた青年の、まだ完全に大人にはなりきらない憧憬によるもので、イルミナはノエルに頭を撫でられたまま薄紫の目をゆったりと細めた。

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あきゅろす。
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