小説
音のない世界(終)



「――ですから、もう、よろしいではありませんか」

 とうとうヴィオレとは言葉一つ交わすことなく、最期の顔を見ることもなく、形骸化した関係だけが残ったオルタンスはその関係に対して首を振る。

「もう、よろしいでしょう。わたくしは、あの方の妻では在り得ない」

 オルタンスは繰り返す。
 ヴィオレがフェリシテの「騎士」であり「魔法使い」であったように、オルタンスは「貴族の女」であったのだ。
 貴族の女であることが、オルタンスを真っ直ぐに貫き支える矜持であったのだ。
 グレンは思う。
 まともに育っていない可能性があるならば、オルタンスはその矜持に賭けてまともに産んでみせた可能性もあるかもしれないと。
 矜持を秤にかけたヴィオレがそうするように、グレンもそうするように。
 不可能であれば、可能にすれば良いだけである、とオルタンスは大言壮語の謗りも恐れず臨むはずであったのだ。
 成しきれなかったのは、抗いきれなかったのは、直前にオルタンスの心がヴィオレによってへし折られたからだろう。

「……あんた、あいつのこと憎んでんのか?」
「恨んでおりますわ」

 指輪の痕など消えて久しい指を眺めながら、オルタンスは僅かに意味を変えて即答する。

「あの方は偽りはしなかったけれど、真実も見せてはくださらなかったのですもの。あの方が本当はなにを思っていたのか、わたくしには知ることを許してくださらなかった」

 ヴァーミリオン様、と呼びかけるオルタンスはグレンの膝の上、どこか恍惚とした笑みを浮かべた。

「ヴィオレフォンセ殿下に最も近き方、貴方様はあの方の真実をどれ程ご存知なのかしら」

 水色の目に浮かぶ妬ましさと羨望、強い憎悪に狂気じみた思慕。
 それがオルタンスの真実なのだろう。
 こんな風に、オルタンスはヴィオレの目を覗き込んだのだろう。
 そうして、オルタンスにはなにが見えたのか。
 グレンは手の甲で軽くオルタンスの頬を押しやり、彼女の若々しく美しい顔を退ける。
 素直に身を引いたオルタンスであるが、それでも視線はグレンへしがみついた。
 生まれることの叶わなかった腹の子へ、心のなかを知ることの叶わなかった夫へ、故人への妄執をオルタンスはこの先も抱き続けるのだろうか。
 グレンは軽く天井を眺める。
 二重五芒星のカフスピアスが揺れて、左右色違いの目がオルタンスへ戻された。

「――興味がねえ」

 軽く腕を払うにも似た仕草でオルタンスの体をさらい上げ、グレンは立ち上がったソファへ彼女を下ろす。
 呆けた顔で見上げるオルタンスに、ヴィオレの妻であった女性に、グレンは彼からすればとても珍しく少しの親切を重ねた。

「あいつの真実になんざ欠片も興味がねえ。どれだけ知っているかなんざ意味がねえ。重要なのは何を知っているかだ。
 ヴィオレフォンセは最後の最期まで俺の知るあいつで在り続けた。俺の知らないあいつの過去なんざどうでもいい。俺に見せなかった胸の内もそれならそれで構わない。気に食わなかったときに殴ればいいだけだ。必要なもんを引き出せばいいだけだ」

 いつかのように、グレンは拳を握ることを躊躇しない。
 真実それが譲れぬものならば、誇れるものであるならば、相対するものさえも串刺しにして貫き通すべきなのだ。
 それができない矜持など、犬に食わせて糞へ変えてしまえとグレンは道破した。
「たかが」心傾ける相手からの言葉程度で折れる心になど、グレンは興味がない。

「…………それで、よろしいと、ヴァーミリオン様は仰るの? それ以外になにも、あの方に……」

 オルタンスは言葉を途切れさせる。
 グレンはあまりにも凶悪な笑みを浮かべていた。

「それ以上になにがある?」

 過去も流れる血も現在を構成するものを知らなかった頃から、グレンはヴィオレの隣に立っていたのだ。
 そのとき、目の前に在ったヴィオレ以上に彼へ求めるものなど、ありはしない。

「…………――いいですわね」

 微笑み、目尻に滲んだものをオルタンスの指先がそっと拭う。
 繰り返される仕草を見続けることをせず、グレンは彼女に背を向けて歩き出す。
 グレンの背中に濡れた声が「最初のお話は、研究費としてバゼーヌ夫人に回させていただきますわ」とかけられたが、己の関わる話ではない、と彼は首肯もしないままに部屋を出た。



   知っておりましたの。
   殿下があのとき、どんな顔をしていたのか。
   一人で泣いてしまったわたくしに、殿下はなにもかもを飲み込んでしまわれましたわね。
   聞こえておりましたの。
   殿下が音なく謝罪を繰り返し叫んでいらしたのを。
   あの子の魔力に馴染んでいたおかげか、殿下の魔力が随分と塩辛く感じたものですわ。
   分かっておりましたの。
   殿下がどれだけ手を尽くしてわたくしと「化け物」になろうとする子を守ろうとしてくださっていたのか。
   あの時代、あの状態のあの子が生まれることが承知されるわけなどなかったと、死したわたくしから生まれたとしても殿下があの子を殺すことになっていたのだと。
   感じておりましたの。
   殿下にとっての唯一の妻になれはしても、至上の花にはなれないのだと。
   それでもわたくしはよかったのです。構わなかったのです。殿下の子の唯一の母になる――それ以上のそれ以外がどこにありましょうか。
   殿下。
   殿下。
   殿下。
   ヴィオレフォンセ殿下。
   ……わたくしの旦那様。

 ――永遠に貴方を愛しております。
 ――ずっとそのやさしさを恨んで参ります。

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