小説
音のない世界(八)



 こういうとき、多くのひとは理解を拒んでなにを言われているのか分からない、という状態に陥るのだろう、とオルタンスは客観的に考える部分すら残しながらヴィオレの言葉を完全に理解した。
 故に、全身全霊を振り絞って、か細い呼吸をも切り裂くように応える。

「嫌です」
「……ならぬ」
「嫌です。絶対に、嫌です」
「ならぬ」
「嫌です!!!」

 叫んだ瞬間に体の何処かがまた壊れかけたが、オルタンスはもうそんなことどうでもよかった。子を産むのに苦痛は付きものなのだ。当たり前なのだ。命がけで産むものなのだ。
 だから、だから、と食い入るようにヴィオレフォンセを見つめれば、彼はふっと一つ息を吐いて一切の表情を消した。

「ならぬ、と言っておるであろう?」

 冷ややかにさえ聞こえる声に、いつかとは違う涙が水色の目から零れる。
 それでもぐ、とベッドへ手をついて、オルタンスは這うようにヴィオレフォンセへ近づき、彼にしがみついた。ぎち、ぎち、とヴィオレフォンセの衣服へ爪を立て、引き裂くように指をかけながら這い上がって息を切らしながらヴィオレフォンセの目を間近で見つめる。

「何故ですの……どうして……!」

 自分はこのために嫁いできたのだ。
 自分の存在意義はここにあるはずだ。
 自分の幸福はこのなかに集約されているのだ。
 どうして、それを取り上げようとするのか。
 ただ、だめだなどという言葉で終わらせないでほしい。そんなもので終わってしまえば、自分もそんなもの以外のなにものでもなくなってしまう。
 何故、何故、とオルタンスは繰り返し、ヴィオレフォンセを見つめ続ける。
 言葉を閉ざすならば濃い紫の目に映してほしかった。
 ヴィオレフォンセが動く。
 当然のようにオルタンスを自身から引き剥がし、身を捩る彼女をベッドへ戻したのだ。それでも身動ぎするオルタンスの額へ押し付けるように、ヴィオレフォンセの片手が彼女の頭を場違いにやさしく掴む。

「聞きたいならば教えよう」

 不思議な響きはそのまま波のようにオルタンスを襲い、彼女の意識はぐらりと揺れた。

「その子がまともに生まれるとでも思っておるのか?」
「……え?」
「貴女は今の自分の状態を鑑みて、腹の子が『まとも』に育っていると、本当に思っておるのか?」

 ヴィオレフォンセの言葉から揺れるだけではない波が、オルタンスの血の気までをも奪う。
 母体をここまで破壊しなければ今生きて存在することもできない子ども。
 まともに育っていて、まともに生まれると、何故なんの疑問もなく信じていられたのか。
 信じていたわけでは、きっとなかったからだ。
 たとえ「まとも」でなかったとしても、たとえ、自らの命蝕み生まれるのだとしても。

「それでも、この子は――」
「望まれたのは『魔法使いの子ども』ぞッッ!!!」

 ヴィオレフォンセと自身の子どもであると続けるはずだったオルタンスの言葉は、ヴィオレフォンセによって粉砕された。
 きっと、そのときにオルタンスの心も砕けた。
 ヴィオレフォンセの大喝とともに混濁していく意識の最後、ヴィオレフォンセが何かの緻密な術式を発動させるのを感じる。
 その術式が悲しいものであると本能的に理解していたのに、オルタンスはどうすることもできずにただ涙を流しながら瞼を閉ざすしかできなかった。

「――そして、目覚めたときには全てが終わり、始まっておりましたの」

 離れていく唇の感触。
 グレンは流れ込んできた映像と目の前にいるオルタンスの姿が殆ど変わっていないことに、軽いため息を吐く。

「腹の子がいなくなっても、わたくしの体はもう『そういうもの』になっておりましたわ。腹の子というわたくしの身を喰らうものがいなくなったことで、わたくしの身は過ぎる治癒を繰り返しております。不老不死などという大層なものではありませんわ。殺せば死にますし、魔力が少しでも足りなくなれば、一気に破綻を起こしてこの身は崩壊するでしょう。日常を過ごす分には、いずれ訪れる負荷に消滅するときまで……この姿のままですけれど」

 ゆっくりと下腹を撫でるオルタンスの表情は慈しむようで、悲しむようで、怖気が走るほど女を感じさせた。

「わたくしは『がらんどう』なのです。もう、この身が貴族の女として役目を果たせることはございません。回復薬、でしたか? あの方が大戦の終結後少ししてからなにやら開発されたようですけれど……時間とは、儘なりませんわね。
 わたくしはあの方の屋敷を出て爵位を継ぐことを許され、表向きはトリステス女伯として過ごしております。わたくしが中継ぎをする間に、どうにかベルジュ家を継ぐ子も見つかりました。今の当家であれば厭われることはございません」

 妻として屋敷に留まれば、いずれはヴィオレの妻として存在を周知されることになったであろうオルタンスであるが、子を成せない彼女が妻として隣へ立つにはヴィオレのいる場所はあまりにも高嶺にあった。
 オルタンスは当時から今日に到るまで、ヴィオレの妻を名乗ったことはないという。
 変わらぬ容姿を喪に服したドレスとベールで覆い隠したオルタンスは、必要以外にひと前へ姿を見せずにベルジュ家の屋敷でひっそりと日々を過ごしていた。

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