小説
音のない世界(七)



 子どもができた。
 オルタンスはその事実に涙が出るほど喜び、はしたないとしても飛び跳ねてしまいたいほどであった。もちろん、そんな腹の子に危ない真似を実際にするわけもなく、ただ何度も何度も確認するように自身の下腹へ手をやっては喜びを噛み締めるのだ。

「殿下、殿下! わたくし、ようやくですわ。ようやく……!」
「ああ……ああ」

 ヴィオレフォンセは緊張に強張りながらも笑みを浮かべ、魔術師としての観点から医者とは別の注意事項をオルタンスへ告げる。
 一つひとつ真剣に聞き終えて、オルタンスは労るように自身の肩を叩くヴィオレフォンセを窺った。

「どうした?」
「……気が早いとは分かっておりますわ。ですが……『よくやった』と言っていただけませんか?」

 目を見開いたヴィオレフォンセはか細い息を隠すように口元へ手を遣り、それからその場へ片膝を突く。
 椅子へ掛けていたオルタンスは慌てて立ち上がろうとするが、ヴィオレフォンセに手を取られて制された。
 オルタンスを見上げる濃い紫の目には戸惑いと苦悩が混じり、よくよく意識すれば手を握るヴィオレフォンセの冷えた指先に気づく。

「…………喜んでは、いただけないのですか」
「手放しでそうできるほど、私は貴女にとって非道な夫であっただろうか?」

 苦く笑うヴィオレフォンセにオルタンスは目を見開いた。

「至らぬところは数多かったとは思うが……大切にしたいと、しようと、貴女に接してきたつもりだ。少なくとも、貴女の身が蝕まれる可能性を前にして、貴女に『よくやった』などと……」

 オルタンスはヴィオレフォンセがどれほどの危惧を抱いているのか理解する。
 そして、そのヴィオレフォンセの様子から、自らの先行きがどれほど暗いものであるのかも。
 ヴィオレフォンセは専門家としてオルタンスよりも余程冷静に、現実的に来る先が見えているのだろう。
 見えた上で、先ほどの言葉だ。
 暫し、ぼうっとヴィオレフォンセを見つめたオルタンスは、無意識に彼へ問いかけていた。

「わたくしを、惜しんでくださいますの?」
「……私は、妻である貴女に対して余程言葉足らずであったようだ――当然であろう」
「……わたくしは……殿下の『妻』であっても……よろしいのですか?」

 ただの貴族の血を残すことを重視した婚姻とは全く意味の異なる、子を作ることを目的とした婚姻である。
 オルタンスは「『魔法使い』の子」の母と、ヴィオレフォンセの妻であることとは、繋がらないものであると思っていた。
 ヴィオレフォンセに事情がなければ、成ることのなかった婚姻なのだ。彼の妻まで望むのは烏滸がましいことなのだと、身の程を弁えるつもりでいた。

「私の妻は生涯ただ一人、貴女以外にはおらぬよ」

 オルタンスの諦めを否定することで、オルタンス自身を肯定するヴィオレフォンセ。
 水色の目に涙が浮かび、あっという間にオルタンスの頬を伝っていく。
 感情の昂ぶりはよくないと知っているけれど、落ち着くべきなのだと分かっているけれど、今は、今だけはとオルタンスは声を上げて泣いた。
 淑女としてあるまじきと知りながら椅子から崩れ落ちるようにヴィオレフォンセの胸へ飛び込んで、彼にしがみつきながら泣いた。
 このひとの子を産めて、このひとの妻で在れるのならば、永遠の真暗闇を見つめるように瞼を閉ざすことも恐ろしくはない。
 ――それなのに、オルタンスの覚悟は他ならぬヴィオレフォンセによって踏み躙られる。
 腹の子はあらゆる意味で想定を上回った。
 魔力を多く保有し、その魔力が身に馴染みすぎた者は、死するときに肉体が魔力に溶けてしまう。
 胎児の小さな命では抱えきれないほどの魔力を宿した子は、オルタンスの腹の中で溶けようとする我が身を本能のままに守ろうとした。
 今ある魔力を受け止められるだけの肉体を構成すべく、そのために必要な要素を母体そのものから搾取し始めたのだ。
 修復に作用しようとする魔力すらもままならず、オルタンスの体のあらゆる機能が悲鳴と絶叫を上げた。
 血反吐とともにのたうち回れるうちはまだ増しである。
 大した間を置くこともなく、オルタンスは人形のように横たわることしかできなくなった。
 壊れていく体はヴィオレフォンセが術式で修復するけれど、我が身を絶えず調整し続けるならばともかく、外部からの対処療法ではいずれ追いつかなくなることが明白である。
 更に、腹の子は自らが育ちきれぬ内に母体が破壊されきっては困ると理解しているかのように、我が身を潰そうとする魔力をオルタンスへ押し付けながら彼女の体を変質させた。元より治癒術式に馴染んだ体である。「回復」さえすればいいとばかりに、変質を受け入れるのは早い。
 殆ど魔力の塊のような理性なきものが本能のままやっていることだ。精度も程度も今後もなにもかもが滅茶苦茶で、オルタンスはただ子を産むのに丁度いい器にされる。無事に子が生まれたとしても、その瞬間にオルタンスの無理を重ねさせられ続けた体は崩壊するだろう。
 子の宿る腹をぼんやりとした視界に収めながら、苦悶を表情に浮かべることもできないオルタンスは己の運命を受け入れていた。
 自分は朽ちるだろう。
 腹の子は朽ちた母の腹から生まれるのだろう。
 それで、よかった。
 両の腕に抱き締められないことが、ヴィオレフォンセに今度こそ「よくやった」と言ってもらえないことだけが心残りであるけれど、貴族の娘としての役目、オルタンスの幸せは達成される。
 動かすのも辛い手で腹を撫で、オルタンスは薄っすらと微笑した。
 そこへ、侍女がヴィオレフォンセの訪いを告げる。
 もう、起き上がって迎えることもできないオルタンスのそばに立ったヴィオレフォンセは、酷く張り詰めた表情をしていた。
 今はオルタンスとほぼ同体にも等しい我が子が内側から彼女へ干渉するせいで、外側からしか干渉できないヴィオレフォンセは変質を食い止めることができずにいる。
 睡眠不足が顔に出やすいひとであった。
 オルタンスはヴィオレフォンセの目の下にくっきりと浮かぶ隈に、彼がどれだけ方法を探しているかを知って唇を笑ませる。
 もういいのだ、と告げても、ヴィオレフォンセの矜持を傷つけるだけだとオルタンスはなにも言わなかったけれど、重たく開かれたヴィオレフォンセの口から出た内容は彼女から無言を奪った。

「その子を――流す」

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あきゅろす。
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