小説
十五話
最後の最後まで、青春の一滴を絞り尽くすように門を出る直前までそう「在る」と思われていた千寿が、誰よりも早く卒業への「準備」を始めた。
肌寒い日に羽織っていたレースで縁取られた薄衣のストールはただのニットカーディガンへ変わり、爪化粧がなくなった爪は短いまま。
言葉遣いも気づかない内に変わって、ふとすれば「オネエ」と呼ばれるようなところがとんと見当たらなくなっている。
なによりも顕著なのは、校内で千寿を中心とした騒ぎがぱたりと行われなくなったことだろう。
「寂しいですね」などと言ったのは風紀委員の誰であっただろうか。桐枝は「馬鹿が」と一言おいて、相手にデコピンを見舞った。
大鳥に避けられている、と指摘されてから数日までは徐々に、と言える程度であった千寿の距離を置く段階速度。
まさか、前触れもなく「風紀委員長」と「生徒会長」の関係のみを強いられることになるとは、と桐枝は千寿に呆れる。
「いや……元から、か」
風紀委員長と生徒会長以外の関係を桐枝と千寿が結んだことは、きっとなかった。
友人ではなかったし、だからと言ってただの他人でもなかった。
接点多い肩書き持ち同士で括ればなるほど、その関係より先にも後にもふたりは並び合いなどしていない。
肩書きを持つより以前のことを思い返しても今と……少し前と変わらないのであれば、最終到着点は同じことだ。
ならば、と呟き、桐枝はお手本通りの微笑を浮かべ、様子を変えたことについて訊ねる周囲に書いていた筋を通すような説明をする千寿を遠目に見遣る。
「心底から貫いてみろよ、このド下手糞」
仕方のないものを見るように眉を下げた笑みをひとつ浮かべるも、桐枝は着信を告げる携帯電話に表示された実家の番号を見て顔つきを硬質なものへと変えて、その場を離れた。
主不在の委員会室で、シュンシュンと音を立てながら石油ストーブの上に置かれた薬缶が湯気を立てている。
大鳥の淹れた梅昆布茶を啜る香月は、残念ながら絵になるとは言いがたい。これが紅茶や珈琲であれば問題なかったであろうが、灰釉薬を塗られてざらついた表面の大振りな湯のみは香月が持つには渋すぎた。
されど、当人にこだわりはないらしく、香ばしくも梅の香り漂う湯のみへ息を吹きかけながら指先を温めるように湯のみを持っている。
「これで終わりというのは、意外な結末です」
「委員長と会長か?」
「他に誰がいるんですか」
「生憎とお前とはツーカーの仲になった覚えがない」
香月が失笑した。
「あなたと委員長がそうだから、会長が嫉妬したんですよ」
「まさか、最初の朝帰りの件じゃないだろうな」
「そうだと言ったら? あのひとが爪に施していた化粧って存外時間と手間がかかるんですよ? それを、たったいち日……いや、ひと晩ですか。そのために落として、健気なことです」
「俺は市販のままかり煎餅を出しただけなんだがな……」
「ままかり煎餅は口実ですよ。で、委員長とツーカーのあなたはどうお考えですか?」
結末へ既に至ったのか否か。
香月の笑みに大鳥は露骨なほど顔を顰める。
桐枝と千寿の関係に強い関心を持ち、まるで見守っているかのような体でいた香月であるが、その実は千寿への哀れみでしかない。
千寿の好き勝手が奴隷の幸せ染みたものであることを知っているのは、桐枝に限った話ではないのだ。
籠の中で幾ら飛び回ったところで、羽は傷ついていくだけ。
香月はぼろぼろの自分を取り繕って学園の門を出て行くであろう千寿をとても、とても可哀想に思っている。
哀れんで、幸いが降ればいいのにね、と他人事として願いながら見つめていた。
悪趣味な男だと言いたいけれど、態々言ってやるほど大鳥は親切ではない。
まして、卒業が近いのだ。
香月の悪趣味もまた桃城学園のなかに限ったものであるならば、自分に関係ない限り黙認してやるくらい大鳥にはどうということもなかった。
「……終わりじゃないさ」
「そうなんですか?」
香月の意外そうな顔に残念だという色がないことだけが、彼の悪趣味に悪意がない証だ。
大鳥は繰り返す。
「終わりじゃない。まだ、まだ続く。続けるつもりだ、あいつは。あの、奇妙な律義者は」
意味が分からないと香月は表情にも言葉にもするけれど、大鳥は説明してやろうとはしなかった。
ただ、ツーカーの関係に慣れると、多くを語るのが面倒になってしまうものだ、と苦笑を浮かべるだけ。
もっとも、大鳥は卒業後であっても、概ねこの面倒さに振り回されることはないのだが。
換気のために薄っすら開けていた窓から風が吹き込んだ。
ひゅるりと大鳥の項を撫でた風はそのまま壁へかけてあったカレンダーをも巻き上げ、何気なく注目した大鳥と香月の目に赤い丸で印付けされた日付までの時間を知らせる。
「もうすぐですね」
「あっという間だな」
「それでも、終わらないというんですね」
「だからこそ、終わらないんだ」
「楽しみに、というのは不謹慎ですか?」
「何処ぞの過激派どもよりはまともだろう」
比べる対象が酷いですね、と呟いてから香月は湯のみから立ち上る湯気が目にでも沁みたのか、不意に滲んだ瞼を閉ざした。
「……そうなれば、私はようやく会長を、あのひとをなんの色眼鏡もなく見て、接することができるようになるのかもしれません」
束の間の自由はなんのためにあったのだろう。
少なくとも、香月が望んでいたものは、この学園のなかだからこそ得ることはできなかった。
それが我儘だと、自分勝手だと知るからこそ、香月は大鳥の言葉に否定など返さない。
大鳥も自罰する香月にそれ以上の言葉を重ねない。
いよいよぽんぽんに沸いている薬缶のもとへ向かった大鳥は、持ち上げたときの軽さに思わず呟く。
「ああ、蒸発するところだった」
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