小説
十三話



 千寿が再び早朝に桐枝の部屋から出てくる姿を目撃され、校内は雰囲気を変えた。
 猫と鼠が仲良く喧嘩する様子を眺めるような気持ちで桐枝と千寿を見ていた生徒たちが、その眼差しを僅かに眇め始めたのだ。
 閉鎖空間における娯楽。
 手が届かなくて、でも本当は届くところにいる、絶妙な存在。
 誰にとっても特別で、けれども誰かが特別なわけではない。
 都合のいい存在といえばそれまでとは、誰もが分かっていることだろう。
 だが、期限付きであることが、余計に拍車をかける。
 学園を卒業すれば、なかったことになるという暗黙の了解が背中を押してしまう。
 それは、よくよく見れば千寿が桐枝との距離を変えたことにも気づかぬほど、対応できぬほどの盲目さと速度で以って転がり出すのだ。

「どうしてですか?」
「なにがかしらー?」

 問われた内容を訊き返しながらも、千寿は問いを寄越した生徒に興味などは持っていない。
 手にクリームを擦り込む様子から、言われずとも分かることであった。

「会長は委員長と……委員長で遊ぶのが好きなだけだと思っていました。それは、ぼくだけではないでしょう。大半の生徒がそのように認識しています。だからこそ、どうしてですか?」
「そのどうしてっていうのは、なににかかっているわけ?」

 艶々とした手を目の前へかざして確認する千寿に、彼の親衛隊に属する生徒はいっそ冷淡な声で答えた。

「どうしてぼくたちを裏切るのですか?」

 千寿は失笑する。

「裏切る? 裏切るとは大きく出たわね! アンタ、アタシになにを期待したっていうの? アタシがいつその期待に応えるっていったの? 馬鹿も休みやすみ言いなさいよ!」
「会長が誰かを特別扱いするなんておかしいじゃないですかッ」

 冷たいながらも単調な話し方をしていた生徒が荒げた声に、千寿の唇が歪む。
 日直である千寿は勿論、彼を待っていた生徒以外に教室へ残るものはいないけれど、校内に残っている生徒は多くはないが少なくもないだろう。
 つまらない話を始めて欲しくない、と千寿は尊大な調子で腕を組んで机の上に座った。

「アンタの言う特別ってなに? アタシがアイツの部屋へ泊まったこと? 確かにアタシが誰かの部屋へ、なんてアイツ以外にはないでしょうよ。でも、誰かがアタシの部屋へ泊まったのなんて数えきれないほどあることじゃない。アイツがアタシの部屋へ泊まると思うの? それでアタシが出向いたから特別? 笑わせるんじゃないわよ。そんなもの、どこにもない!」

 嘲りすら見せる千寿に気圧されたように後ずさりした生徒が、噛んだ唇を解いて歪な笑みを見せる。

「では、会長にとっては委員長も学園のなかだけの存在なんですね。いまを楽しむだけの玩具なんですね」
「……品性を疑う質問だこと」

 吐き捨てる千寿を気にもせず、生徒は安堵にも似た気持ちを胸に満たしてほっと息を吐いていた。



「会長と喧嘩でもしたか」

 校内で起きた騒ぎをまとめた書類とともに大鳥から投げ渡された問いは、桐枝にとって両眉を上げる程度には意図を掴みかねるものであった。
 ツーカーの精度に問題が生じたわけではないだろう。
 単純に、大鳥が踏み込んでくる話題であるとは思わなかったのだ。

「似たようなもんなら日常的にしてるじゃねえか。主にあいつがろくでもないせいで」
「分かっていてはぐらかすのは時間の無駄だ。二度目の朝帰りからこちら、避けられているだろう」
「……喧嘩じゃねえさ」

 桐枝は床を蹴って机から椅子を離すと、そのまま無意味に回転させて僅かな遠心力を楽しむ。
 こども染みた動作に大鳥が呆れているのには気づいているが、なんとなく遠心力が余計なものを振り落としてくれるような気がして回転を強める足が止まらない。

「俺のスタンスはなんら変わっちゃいねえが……」
「話す気があるなら回転を止めろ。聞き取り難い」

 桐枝は渋々足ブレーキをかける。ぴったりと膝を合わせて横へ足を流すというエレガントな姿勢になってしまった。

「俺からあいつへの接し方というものの根本は、なんら変わっちゃいねえんだよ。あいつがやらかしゃ俺は叱るし、あいつが大人しくしてりゃ放っておく」
「そして、会長が物言いたげに裾を引っ張ってきたら振り向いてやる、と」

 実に日本人らしい曖昧な笑顔になる桐枝は、いつだって千寿が自分に向けてきたものに相応しい態度で接してきた。
 それは勢いのまま打ち返すだけではなくて、相手の期待をそっと汲んでやるのにも似たやさしさ混じりの誠実さであり、また桐枝自身の感情を曖昧に見せる不誠実でもあった。

「会長が嫌いか?」
「それこそ分かりきった答えじゃねえの? 仕事増やされて面倒臭えは面倒臭えと思うがな」
「今だけだろう?」

 学園を卒業すれば失われるなにもかもと思えば、許せてしまうもの、正面から受け取らずにいられるものがある。
 けれど、桐枝は少しだけ眉を寄せてから「いや……」と言葉を濁した。

「そうだな、確かに委員長のスタンスは変わっていないようだ」
「通じすぎってのも困りもんだな」

 答えを出すより早く結論に行き着く大鳥に、桐枝は落ち着かなさから足を組み替える。
 僅かな揺れにきい、と軋んだ音を立てる椅子は、桐枝が卒業した後に新しく交換されるのかもしれない。

「どうするんだ?」
「何事もなく卒業するさ」
「会長はどうするんだろうな」
「何事もなく卒業するんだろう」

 刻んだ時間は正しく何事もなかったように一新される。
 それが、桃城学園の常であった。

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