小説
九話



 千寿の嫌いな物の一つに、定規がある。
 背筋をしゃんと伸ばしなさい。
 少しでも背中を丸めようものなら、すぐに襟から鯨尺を突っ込まれた。
 恥ずかしくないように行儀よくしなさい。
 こどものすること、で許される特権を千寿が得たことはなく、みっともない真似をすればばしばしと竹定規で叩かれた。
 定規のように真っ直ぐ立って、真っ直ぐな道を歩きなさい。
 できなければ、などという質問は恐ろしくて飲み込んだ。
 はい、と返事をして、指を突いて頭を下げて承知して、千寿は果ての見えない遠い先に本当の真っ直ぐなどないのだと内心で屁理屈をこねる。船の帆を例えに地球が丸いことを説明したものは優秀だ。
 千寿にとって、桃城学園に入れられたことは幸いであった。
 いや、不幸だったのかもしれない。
 誰もが学園内のことは学園内のみのこと、と承知している閉鎖空間故に、千寿が家のものに知られれば鯨尺による容赦ない打擲では済まない奔放さで振る舞っても帰省の際には口を噤んで話さない。
 ひょっとすれば卒業生である父は学園の風習を知っていたかもしれない。
 仕事を中心に生活する父は家のこと、千寿のことを母と祖母に任せた結果、彼女たちが千寿にどういう教育方針を持っているかだけは把握しているようであるから、彼女たちの勧める学校ではなく自身の母校へ千寿を入れたのがなけなしの父親心と言われれば理解できなくはなかった。
 束の間の自由に千寿は羽目を外したけれど、聡明さを失ったわけではない彼はすぐに気づいてしまう。
 高等部を卒業した先の何年、何十年は無理やり箱に詰められ形成されるような息もできないほどの窮屈さに満ちているのだと。
 両手を広げる開放感を知らなければ、膝を抱えている不自由さに実感などなかったはずだ。
 人間の平均寿命の内のたった数年だけが、千寿に許された雅洒髑髏千寿自身のための時間であった。
 まして、その時間を与えられたのは後の人生に多大な影響を及ぼすであろう年代であり、振り返っては眩しさに目を焼かれるようになる己が千寿には簡単に想像できた。
 嫌だった。
 嫌悪で胸が塞がってしまい、呼吸もままならない。
 けれど、だからといって限られた時間をその後に備えて再び縮こまって過ごそうなどとはとても思えず、千寿の振る舞いは箍が外れかける。
 なにもできなくなる前になんでもしてやろう。
 なにをしても、なにを言っても許されるような自分というものを千寿は学園内で位置づける。
 思い通りになる周囲と笑って、無闇に尽くしてくれる周囲に笑って、己の想像の域を出ない周囲に笑顔さえも強張りそうになったとき、いっそ後ろから蹴り飛ばす勢いで制止したのは、藤樫桐枝という……言ってしまえば後々の大きな面倒のために目の前の面倒を背負い込んで苦労しそうな同級生であった。
 千寿だから、で周囲が許す間違いに、桐枝は真っ向から異を唱える。
 それは正論で、潔いまでに整然としていて、愚かしいまでに真っ直ぐで、なのに言い放つ本人は苦々しそうで。
 なんで自分がこんなことをやらなければならないんだとでも言いたげな顔をするくせに、千寿の奔放さを咎めることに遠慮はない。
 思い通りになりすぎて、僥倖という予想外など望むべくもない千寿の前に現れた桐枝が嬉しかった。
 千寿が望まれる通りの真面目な振る舞いをすれば、桐枝はさっさと千寿の前からいなくなるだろう。
 だから、目の前を蝶々のように舞って、蜂のようにちくっと刺してちょっかい出して、魚を咥えた猫のように逃げ出した。
 そうすると、桐枝は千寿を捕まえて説教して一通りの罰を与えるまでは決して諦めず妥協せず追いかけてくれる。
 千寿には放置が一番堪えるのだと分かっているくせに、初めて千寿に異を唱えたときから桐枝はそれができない。
 いや、しないのかもしれない。千寿も加減を計っていたし、なによりもそれが桐枝の性分なのだ。
 痛い思いをしたくない。我慢なんてしたくない。
 桐枝にちょっかいを出したからといって捕まりたくないから叱られるようなことだけをして千寿は逃げ出すのだけれど、桐枝は千寿が絶対に捕まらない、見つからないと思ってもどういうわけだか千寿に追いつく。
 それが楽しい、これが嬉しい、ずっと続いてほしい鬼ごっこ。
 なのに、この鬼ごっこだって高等部を卒業すれば終わってしまうのだ。
 カレンダーに残された日付を見て覚えた恐怖。
 恐怖だ。
 嫌悪ではなく、恐怖が千寿を包んだのだ。
 千寿は、窮屈さや不自由さよりも、桐枝との鬼ごっこが終わってしまうことのほうが恐ろしくなっていた。
 卒業式に学園の門を通り抜けてしまえば、もう昨日とは同じ顔で会うことができない生徒たち。
 各々の道を各々に課せられた荷を背負って散り散りに去っていく。
 隣にいたひとはいなくなる。
 交わした会話さえも違ったものを交わしたのだと暗黙の内にすり替える。
 理由もなく触れたくなった額の感触すらなくなってしまう。
 千寿はそんな今更過ぎることを、それこそ今更強くつよく理解してしまったのだ。
 自分を追いかける足音も、制止をかける怒声も、捕まえようと伸ばされる手も、間もなく失われる。
 咄嗟に去りゆく背中を捕まえようとした手が届くことは、なくなってしまう。

「なんで、もっと早く気づけなかったの……っ」

 気づいていたって、桐枝との関係になにが変わったとも分からない。
 ――そうだって言ったとして、お前のなかに響くもんがあんのか?
 千寿の往く道は変わらない。変われない。
 だけれど、と千寿は喘ぐように求める。
 千寿は永遠が欲しかった。
 果てしない箱詰めの窮屈さに届かぬ永遠の「いま」が欲しかった。
 なのに、「いま」の千寿にはそんなものが欲しくない。
 一瞬でいい。
 その一瞬だけを手にできるのであれば、多くの生徒たちが分かっていながら手を伸ばし、門を出て行ったように、千寿もそれだけを抱いて何十年を生きていける。
 千寿は、桐枝の特別が欲しかった。

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あきゅろす。
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