小説
九杯目
四季は昨日のことなど何もなかったかのような、むしろ三週間の空白すらなかったように、いつも通り、テッセンの客の隙間を縫って訪れた。もう少し早く来ていたら、静馬が四季に貰った薔薇を女性客に「サービスです」と笑顔で全て配って処理した場面に出くわしたことだろう。
「よう、マスター」
「いらっしゃいませ、ご注文は」
「いつものを頼む」
大人の余裕を漂わせながらドラマの見すぎとしか思えない注文をする四季に、静馬は特に呆れた様子も見せずに頷く。
「外はすっかり寒かったぞ」
「年末だからな」
「マスターは福袋買いに行くタイプか?」
「いや……母親が態々開店前から並んで、あれこれ買ったのをお福わけつって配るの手伝ってた」
「荷物持ちか。辛いな」
「まあな」
カウンター席に陣取った四季は、なれた様子でマフラーとコートを畳み、隣の椅子にぽん、と置いている。
「あいよ」
静馬は冷えているのか赤くなった指先を摺り合わせる四季の前に、湯気を立てるカップを置いた。
「なんか量少なくね?」
「デミタスなんざ久しぶりに見たからじゃねえの。どうせ、普通のカップ使ってたんだろ」
「……そうか」
首を傾げたものの、納得した風の四季は、すぐには手を伸ばさず、暫くそれをじっと見てから顔を綻ばせる。とてもじゃないが、四十路には見えない、ヤクザにも見えない無防備な顔だった。
白く、よく見ればタコのようなもののある節ばった手が、カップを宝物のように包み込む様を、静馬は少しだけ胸が痛くなるような気持ちで見る。
「どれ飲んでも、珈琲って感じがしなくてな」
「へえ」
「もっと早く来たかったぞ」
「勘弁してくれ」
四季は悪戯小僧のように笑い、スティックシュガーの端を切り、やはり量が気になるのか半分だけカップに落とす。赤く色づいた唇が白いカップのふちに隠れ、カップが静かに傾けられる。そして、咽た。
「おい、カシミヤマフラーにシミが出来るぞ」
隣の椅子に畳まれた白いマフラーを見ながら、静馬は布巾を四季の前に置いてやる。
「ちょ、マスター、これ、ちょ、これっ」
「あ? チョコレートじゃねーよ、珈琲だよ」
「いや、違うだろっ?」
「違わんよ」
「いやいや、俺の『いつもの』とは違うよな?」
「すまん、お前のいつものは忘れたんだが、これじゃなかったか?」
白々しく首を傾げる静馬に、四季は愕然とした顔をしている。
先ほどまで和やかでいい雰囲気だったはずなのに、静馬はその雰囲気を保ちながら参加しながらこんな悪魔のような所業を並行して行っていたのだ。
「いつになくツンが柔らかいと思えば……酷すぎるぞ、マスター。俺の小鳥のようなハートがどれほど傷ついたか……」
「仕方ないな、その一杯はサービスにしといてやるよ。ったく、これだからクレーマーは」
「いやいや、注文ミスった店長の台詞じゃないぞ、マスター」
「あ? 当店には『いつもの』なんてメニューは存在しておりませんが?」
へっと鼻で笑ってエスプレッソを淹れ直す静馬を、四季は涙がちょちょぎれそうな気持ちで眺め、ちびちびと飲みなれないリストレットを飲む。
「つーか、マスター。この濃いのなによ。いや、美味いけど」
「リストレット」
「リストレット?」
「単純に言えば、お前が普段飲んでるエスプレッソの倍濃くて、おとっとき部分だけって考えとけ」
「へえ。でも、あんまり苦くねえぞ」
「おとっとき部分つったろ」
「倍濃いのに苦くない……面白いもんだ」
「なんだ、折角淹れたのに、そっち気に入ったのか」
四季は視線を上げて、静馬が掲げるカップに目をやる。
「飲む。よこせ」
「カフェイン中毒になっても当店は一切の責任を……」
「エスプレッソはドリップよりカフェイン少ないだろうが」
「反対の説もあるがな。無理して飲むなよ」
「いや、量少ねえし……」
「……次はドッピオにしてやるよ」
く、とリストレットを飲み終えて、空のカップとエスプレッソの入ったカップを交換した四季は、うれしそうに目を細めた。
「なんだよ、妙な顔しやがって」
「別にー。あ、やっぱりこっちの方が舌慣れてるな」
心から美味しそうに飲む四季に、訝しげな顔をしていた静馬も次第に顔を緩める。
自分が愛着持ってやっていることで、喜んでくれるひとがいる。常日頃は蛇蝎の如く扱っている相手でも、それはとても嬉しいことだ。
静かに微笑む静馬という、自分の前ではとても珍しいものを見た四季は、思わず携帯電話を取り出そうとした手を根性で押さえつける。ここでカメラ機能を起動させようものなら、蹴り出されてしまうだろう。塩も撒かれるかもしれない。
せっかく、静馬から「次」の話を持ち出してくれたのだから、できるなら今日はこのまま静かな時間を過ごしたかった。普段、騒がしいのは自分の言動のせいだというのは棚に上げて。
「マスター、ホットケーキ追加注文で」
「あいよ」
「メイプルシロップじゃなくて蜂蜜だと嬉しい」
「……りょーかい」
舌打ちをしたものの、静馬は文句の言葉を吐かずに奥へと引っ込んでいく。
小さな我侭を聞いてくれることが嬉しいなんて、四季はもう殆ど忘れていた。
四季が普段する我侭といえば、ご無体にも等しい、そうと理解しての要求だったので。
「マスター、愛情も追加で」
「在庫がねーわ」
「つれねえなあ」
くく、と笑って、四季は恋しくて仕方なかったエスプレッソを飲む。カップの底に揺らめくシュガーが溶けて、ほろ苦さの中になんともいえぬ甘美を運ぶ。
口のなかに広がるアロマに癒されながら、四季はほっくりほっくりと暖まる心身を感じて、ゆっくりと目を閉じる。
三週間は長かった。
いっそ、このまま勢力図でも塗り替えてやろうかとろくでもないことが頭を過ぎるほどに、長かった。
テッセンに足を踏み入れる直前まで、殺伐と乾いていた「中身」が、ようやく得られた水に潤っていく。その甘さは、まるで麻薬のように次から次へと際限なく欲してしまいそうで。
「ああ……これも一種のカフェイン中毒か?」
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