小説
五話
薄衣が掠めていくように、額を撫でられたような感触を覚えて桐枝は目を開く。
夜遅くまでまんじりとしていたけれど、結局はいつの間にか眠って朝がやってきたようだ。
額から消えた感触を追うように手で押さえるもそこには既になにもなく、視線だけで見渡しても誰もいない。
昨日、千寿が部屋へ泊まっていったことを忘れるほど桐枝の記憶力はお粗末なものでも劣化してもいないが、しかしあの千寿が眠っている自分の額を撫でていっただけで済ませたことは意外だ。落描きでもされたならすぐに起きるのでそれもないだろう。
千寿がなにもしておらず桐枝の気のせいということももちろんありえるのだけれど、彼ははっきりとした答えを出そうとは思わない。
ベッドから起き上がった桐枝は鼻先に漂う朝食の良い匂いに、千寿が本気で朝食を作ったのだと理解してなんともいえない顔になる。
肩書き持ちの生徒の部屋は一般生徒よりも設備に恵まれており、共同キッチンを用いずとも簡単な料理ならば作れるようになっていた。
美味しそうな匂いがしている以上、よほどでなければ産業廃棄物などは作っていないだろうけれど、いつ見ても尽くされる側の千寿だ。ひとに振る舞えるだけの腕があるのか疑問である。
桐枝は食べられればいいほうであるものの、朝から嫌がらせ染みたものを食べさせられればいち日がぱっとしなくなる。
千寿が既にキッチンで動いている以上、うだうだと考えていても仕方がない。
膝を叩いて勢いつけた桐枝はベッドから離れて、まずは顔を洗いにこれまた肩書き持ち特権である洗面所へ向かう。
洗面所へ向かうには台所のそばを通る必要があるのだが、案の定というべきか、流しの前には千寿がいて濡れた手を拭いていた。
「……おはよう」
「おはよう、桐枝。いい夢は見れたかしら?」
「覚えてねえよ」
「あら、いい夢だったら間違いなくアタシが出てきていたのに、惜しいことをしたわね」
「朝からお前の自信は満タンか」
いっそ羨ましいと思いつつ、桐枝は洗面所へ向かう。
洗面台に設置された鏡に映る桐枝の顔、額にはやはり痣もなければ落描きもない。
意識のない桐枝にしたことであれば、千寿はきっとなにも答えなどよこさないのだろう。そも、千寿自身「何故」の答えをまだ持っていないのかもしれない。
若干冷たい水の世話になった桐枝が戻ると、千寿が既にテーブルの準備まで済ませるところであった。
イエス・ノー枕なんぞというふざけた代物と一緒に持ち込んでいたのか、桐枝の知らぬテーブルマットまでもが敷かれており、朝からなんとも小洒落た風情である。
「結局、なに作ったんだ?」
「プレートご飯にでもしてあげようかと思ったんだけど、そうするとアタシも食いっぱぐれそうだったのよねー」
どうやら、桐枝に喧嘩を売るような献立はやめたらしい。正解だ。
よくよく見れば千寿の外したエプロンもごく普通、簡素な黒い胸当てエプロンである。正直なところ、桐枝は新婚さんいらっしゃいとでも言いたげな用途を思えば不適切極まりない白いレースとフリル過多な代物を身に着けている千寿を覚悟している部分があった。覚悟と同時、引っ叩く用意もばっちりである。
しかしながら、桐枝の覚悟は杞憂に終わり、千寿の姿にはなんら問題なく、用意された朝食とて普段食堂で千寿が食べているものを思い返せば驚くほどに桐枝へ合わせたとしか思えないものであった。
茶碗は伏せられたままであるが、茶碗があるので飯が炊かれているのは間違いない。他に並ぶのは鰯の丸干し、小松菜とがんもどきの煮浸し、味噌汁は大根と油揚げ。驚いたことに、大根の葉はじゃこと併せてふりかけにされている。
美味しい匂いは確かにした。
したが、それにしてもまさか昨今の一般家庭では朝から毎日望むのは贅沢な部類の朝食に、桐枝は思わず千寿の顔を二度見する。どえらいドヤ顔を浮かべていた。
「オーホホホ! カルシウムたっぷりに嘘はなくってよ!」
「あ、そう……」
そういえばそんなことも言っていた、と思いだし、改めてテーブルの上に桐枝は視線を落とす。
つまり、カルシウム豊富という縛りのなかで千寿は朝食を作ったわけである。
「……お前、ひょっとして料理上手か?」
「ミスターパーフェクトと呼んでちょうだい。もしくはスーパーダーリン千寿様でもよくってよ?」
「その口調でもミスターやらダーリンを名乗るんだな」
「そもそもダーリンは……」
「冷めるからそういう講釈いいわ」
チッチッチッ、と指を振りだした千寿を遮って、桐枝は椅子へ着く。千寿は行儀悪く一瞬前とは意味合いの異なる派手な舌打ちをして向かいに座った。
伏せられた茶碗を視線で促した千寿が、桐枝に片手を差し出す。三合炊きの炊飯器は千寿側にあったので、桐枝は大人しく茶碗を渡した。
熱い湯気を立てる白飯をしゃもじで混ぜた千寿は、ごく軽く桐枝の茶碗によそってから、自分の茶碗にちゃっちゃかと一食分よそい、それから桐枝の分もしっかりよそい始める。
「良妻か!」
「スーパーダーリンよ!」
語調に反して落ち着いた調子で渡された茶碗を腑に落ちない気持ちいっぱいで桐枝は受け取った。
それぞれ食べる準備が整ったところで手を合わせるのは、ふたりとも幼い頃の躾が行き届いているからなのだろう。千寿は「いただきます」と声を揃えたあとに「召し上がれ」と調理人らしく続けたけれど。
桐枝が最初にくちづけた味噌汁は当然ながら食堂で口にするものとは違う味わいであったが、鼻先から抜けていく熱気まで美味しいと思わせた。じわ、と舌に染みていく塩気はようやく体を完全に目覚めさせ、そんな汁気をたっぷり吸った大根と油揚げは食道から胃までをやさしく温める。
口に塩気が残る状態で食べた白飯は、炊きたて独特の風味が際立ち、噛むほどに米独特の甘みが滲んだ。
がんもどきは少し箸を入れただけでじゅわ、と汁気が滲んだので、桐枝は思い切って二等分するだけにして、一片を大口開けて頬張ることにする。
生憎と雁の肉を食べたことのない桐枝であるが、がんもどきは既にがんもどきという美味しい食べ物だ。噛むほどに様々な試行錯誤を経て生まれたのだと感慨深くなるような小さな発見が幾つもあった。
これまた白飯で口の中を切り替えたところで、そういえばふりかけもあったのだと桐枝は茶碗全体にはかけず、一部にのみ鮮やかな緑色を散らす。
ひと口掬って食べれば、僅かな塩気と独特の歯ごたえが楽しい。
「思うんだが」
「なにかしら」
桐枝は鰯の丸干しにさっと醤油をかけ、頭からもりもりと食べ終えてから口を開く。
「カルシウムもだが塩分も大分摂った気がする」
「日本人の宿命よ。白飯が主食で口内調理という習慣を完全に忘れ去らない限り逃げられないの」
ご飯がすすむおかずは、総じて塩分が高いものであり、それは千寿の言葉然り宿命であり、仕方のないことなのである。
桐枝は「そうか」と頷いたきり、文句も言わずに食べ進め、二回ほどご飯をおかわりした。
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