小説
三話
バリオルは嫌いだ。
カーマインは断言する。
バリオルは、カーマインの大好きな「聖上」を認めないから。逸脱を許さないから。
バリオルであること以外を絶対に認めず、許さないから。
カーマインの記憶は炎のなかから始まる。
腹が空いていた。
裸足の足は痛み、視界はぼやけ、自分が歩いているのかもあやふやだけれど、寒さだけは無縁だ。
カーマインの周囲には導くように、守るように、いつだって炎が照らしていた。
けれども、この温かい炎は、カーマインから人肌のぬくもりを奪い去ったものでもある。
炎を纏うカーマインを人びとは忌避し、魔族と呼んで怯え恐れ蔑んだ。
バリオルであろうとしたときがカーマインにもあったけれど、纏う炎を見ればどの教会も門戸を閉ざし、清めと称した冷水を浴びせるのだ。
おぞましい炎ごと、カーマインも消えてしまえとばかりに何度も、何度も。
「何故」と「どうして」を血反吐とともに繰り返した。
今ならば、バリオルがそういった反応をしてもおかしくないことをした「魔族」がいたこと、いることをカーマインも理解しているが、木の股ではなく、男に開いた女の股から生まれた自身に最初から諦めろ、受け入れろとは、あまりにもあんまりな話だと、バリオルへの嫌悪とともに言い切れる。
腹が空いていたのだ。
草を食んで木の根をほじって、それでも凌げぬ飢えに喘いでいた。
「死にたくない」
良いことなんてなにもなかった。
「死にたくない」
苦痛ばかりが数えきれぬほどに積み重なっている。
「死にたくない」
それでも、いまここで死んでなにになるというのか。
「しに、たく、なああああいいいいい」
生きたい。
生きたい、生きたい、生きたい。
ひたすらに生を渇望する。
死んだほうが増しな目には何度もあっているのだろう。今だって死んでしまえば楽にはなれるかもしれない。
だが、今ここで死んだら、自分はなんのために生まれたというのか。
苦しんで苦しんで苦しんで行き着いた先にも過程にもなにも存在していない。
ただ、苦しんだだけで終わり。
反故紙ですらない紙を丸めてゴミ箱へ捨てるような、そんな人生が己のものであるなんて!
「生きたあああああいいいいいいい」
眩む視界の先に生があると思ったわけではない。
バリオルを避けて歩いた夜の野原、今宵は新月、光の差さない真暗闇。
行く末を暗示するかのような黒い風景へ、カーマインは手を伸ばす。伸ばさずにはいられない。いられなかった。
「呵々々!」
聞こえてきたのは、とても楽しそうな笑い声。
カーマインのそばでは、今まで誰一人として上げることのなかった心からの笑声。
その笑い声を上げたひとは、カーマインの生きたいという気持ちを救い上げて、カーマインを救い上げて、カーマインを生かしてくれた。
自分をぬくもりから遠ざけた炎よりも温かいものを教えてくれた。
満腹になると眠くなるのだと教えてくれた。
やわらかな毛布の感触、冷たい鋼の感触、ぬるい血潮の感触。
全ては楽しそうな笑い声のなかに。
だから、カーマインはそのひとが、「聖上」が喜ぶためならば、楽しませるためならば、なんだってしたいと、このひとのために生きたいと――
「あ……あ?」
カーマインは――目を見開く。
ぎょろりと剥かれた双眸が愉悦と喜悦を湛えてカーマインを見ていた。
バリオルが、神狂いの連中が喚び出した神子。
「聖上」を弑し奉らんとしている相手がいま、「魔族」であるカーマインに向かって剣を振り下ろそうとしている。
殺される。
不思議と、そう思わなかった。
だが、怖い。
圧倒的な恐怖が、怖気がカーマインの全身を駆け巡り、考えるより早く炎を撃ち放つ。
燃えてほしい。
燃え尽きてほしい。
燃えてきれいになくなってほしい。
「っひゅ、い、ぃ」
項がぞわりと総毛立つ奇声。
斬り払われる炎の向こうから、神子がだらりだらりと涎を撒き散らしながらやってくる。
餌がほしい獣のほうがまだ高潔だ。
精神を蝕む薬に酔った中毒患者のほうがまだ上品だ。
こんなものにバリオルは期待しているのか。
こんなものをバリオルは崇めているいるのか。
ならば、やはり。
「お前らこそが間違っているんだよおおおおおおおお!!!」
「きいいいれええだああああああねええええええええッッ?」
バリオルを間違いだとするが故に存在するカーマインの「正しさ」も、その正しさをもたらした根源たる「出会い」も、なにもかもが美しい、きれいだ。
そう、絶賛する神子が、だからこそ、と剣を閃かせる。
焼かれた街の惨状を責め立てる言葉の一つもなく、倒れ伏す人びとやその悲鳴と泣き声に憤りを見せることもなく、惨劇のなかにあってさえ眩しい剣を魔族の血で塗らせることに躊躇さえもなく、神子は当然のようにたった一つの行動だけを成す。
「斬りたい。なら、斬るんだ」
「ッッ爆ぜろ!!」
自らごと吹き飛ぶ覚悟で上げた爆炎。
炎がカーマインを焼くことはないけれど、不自由な体勢は後ろへと浮いた。
神子は爆ぜた炎が直撃したはずだ。
少なくとも体の前面は黒焦げになっていると見て間違いない。
神子を殺した。
「聖上」を害する神子を殺した。
「聖上」はひょっとしたら退屈だと言うかもしれないけれど、カーマインは安心する。
あの恐ろしさ、おぞましさを「聖上」も自分も二度と味わうことはないのだから。
上向いた心を落ち着けて、なんとか体勢を直そうとしたけれど着地は結局無様なもので、ぐらりと傾いだ体をカーマインが立て直した直後のこと。
斬と一閃。
幼少期を引きずり痩せたカーマインの体に、冷たい剣が熱く斬り裂いていく感触がした。
「……なんで?」
何故、神子が生きている?
何故、衣服こそところどころ焼け焦がしながらも本人は無傷で立っている?
何故……確かに感じた剣の感触が嘘のように傷一つないのにも関わらず、自分はこんなにも絶望的で、取り返しの付かない気持ちになっているのだろう。
「なんで、俺は生きているんだろう?」
震えながら問いかけるカーマインに、神子が「神子」のように微笑しながら答える。
「斬ったから」
斬った。
斬られた。
ならば、何故死んでいないのか。
斬られたからだ。
斬られたから、死んでいない。
「……っなんで!」
そんなものはおかしい。
斬られたのに、死んでいないなんて。
斬られれば普通は死ぬ、死ぬはずだ、死ぬべきだ。
だって斬られたのだから。
「斬られたなら、俺は『死ねる』のに!!」
じわりじわりと浸水のようにカーマインに染みこんでくる感情。
斬られても死なないなんて、そんなのは嫌だ。
おかしい。異常だ。
嫌だ、嫌だ。
そんなのは、こんな人生は。
「――生きたくないッ!!!」
生きたかった。
あのひとのために生きたかった。
けれど、いつか聞いた笑い声は斬響にかき消され、カーマインの耳には残滓も残っていなかった。
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