小説
七杯目



 四季の顔を見ずに過ごすこと二週間。午後のテッセンと静馬の心は平穏そのものだった。
 小心者の一般庶民がヤクザに絡まれることで、常日頃どれほど神経をすり減らしていたかよく分かる、と静馬は深く頷く。
 一般庶民が心身すり減らしていたら、ヤクザに暴言吐いたり暴力振るったり出来ないなどという突っ込みをする者はいない。
 穏やかな時間を好む客が多いのか、カウンターの数席以外が埋まっても、テッセンは騒がしさとは無縁だ。控えめに賑わう空気が、静馬にとってはなによりの憩いである。

 仕事に一息入れに、といった風のサラリーマンにレモンティーを提供した静馬は、からんころん、と古風なベルが耳当たりやさしく客の来店を告げるのに振り向き、一瞬だけ動きを止める。

「いら、っしゃいませ」
「席、空いてますか?」
「カウンターでよろしければ」
「では、それで」
「どうぞ、お好きなところへ」

 就職二年目のサラリーマン。ぱっと見の印象はそんな客なのだが、なぜか、なにか、静馬は違和感を感じる。だが、接客業である以上、あからさまにじろじろ見るわけにはいかず、いつも通りの対応をしながらカウンターに戻る。客は丁度目の前の椅子に落ち着いた。

「すみません、お勧めの珈琲ってなんですか?」

 実際にこの質問をしてくる客は少ない。だが、真面目に勉強したり経験積んだりした静馬としてはうれしいので、違和感を感じたことなど記憶の彼方に放り投げて笑顔で「えーとですね」とメニューを見せながら考える。

「拘りがないようなら安心して飲めるのはブルマンで、特徴的なのが飲みたいならキリマン、モカですかね」
「あの小さいカップで飲むのは?」
「ああ、エスプレッソですか?」
「ここを教えてくれた上司が好きで、よく話してくれまして」
「へえ、そりゃ嬉しいなあ。でも、慣れないと取っ付きにくいかもしれませんよ? カフェ・ラッテにもできますけど」
「じゃあ、カフェラテで」
「はい、承りました」

 準備をしながら、静馬は懐かしい気持ちになる。
 静馬にテッセンを譲った祖父は、珈琲や紅茶のいろはを面白おかしく話して教えるお供に、よくカフェ・ラッテを淹れてくれた。小さな頃の静馬はそれを「コーヒー牛乳」と呼び、そのたびに祖父に「これはカフェ・ラッテ」と訂正されていた。カフェ・ラッテは祖父との大切な思い出の一部だ。
 自然と顔を綻ばせながら淹れたカフェ・ラッテを、静馬はそっと向かいの客の前に置く。もちろん、伝票も忘れない。
 小さく会釈した客はひと口飲んで、ほっと息を吐いた。外はすっかり冬の気温で、今日は特に風が冷たい。店内には暖房をいれているが、直接温かいものを飲むのはやはり違ったものがあるだろう。

「美味しいです」
「それは良かった」
「雰囲気もいいし、上司が通うのも分かります」
「はは、ありがとうございます。上司さんにもよろしく言っておいてください」
「もちろん。本人も来たがっているんですが、ここ最近は……」
「年末ですから、やっぱりお忙しいひとは多いですよね」
「あはは」

 静馬は再び違和感を感じる。
 客は味わうようにカフェ・ラッテを飲んでいる。
 どこにもおかしいところはない筈なのに、何故だろうか。小骨が引っかかったような感覚に、静馬は曖昧な笑みを浮かべてカウンターの奥に引っ込み、細く息を吐き出す。

(ああ、なんかスーツの仕立てが……)

 明らかに上等、と主張はしていないのだが、最初に抱いた二年目サラリーマンが着るには、良いもののように見える。
 確認するように向けた静馬の視線に気付いた客は、ぱ、と顔を上げた。まさか、目が合うとは思わず驚いたが、静馬は愛想笑いで誤魔化す。向こうも笑顔を浮かべたが、その笑顔、いや、目だろうか? 分からない。

「すみませえん、注文お願いしまあす」

 考えを裂くように、テーブル席から片手を上げた女性客が声を上げた。

「はい、いま行きます」


 注文のやりとりはすぐに済んだのだが、静馬がカウンターに戻ると客は席を立つところだった。

「お会計お願いします」
「あ、はい」

 伝票を受け取り、随分古くなってしまったレジを叩く。レシートという気の利いたものはない。

「三百五十円です」
「すみません、千円で」
「はい、お釣り、六百五十円です」

 五百円玉と百円玉、それと五十円玉が一枚ずつ。手渡した静馬から受け取った客は、革の長財布の小銭入れに落とす。

「ごちそうさまでした。また、来ます」
「はい、ありがとうござ……いまし、た」

 客を見送り軽く頭を下げようとした静馬は、唐突に理解した違和感の正体に声を詰まらせる。
 不自然に体を固まらせながら、静馬はドアの向こうへ消える客の背中を凝視する。
「ごちそうさまでした」と言った直後、客は頭を下げた。
 それはもう、きれいに、きれいに。まるで、分度器で計ったかのように。

(……今時、あんな礼をするのは不動産屋でなけりゃ……)

 最近来ていないらしい、常連の上司。
 静馬の脳裏に、上品な人形面した四十路がぺろりと舌を出してウィンクする腹立たしい像が浮かんだ。

(いやいやいや、気のせいだろ。考えすぎだ)

 そう、考え過ぎ。
 律儀なところがあるので、約束は約束と守ったのだろうと安心しつつ、あの揚げ足取りで結局は自分の思ったように物事を動かす性質の悪さを警戒し過ぎているだけだ。
 静馬は自分にそう言い聞かせて、さっきまでとは明らかに不器用になった愛想笑いを貼り付けて、接客に勤しんだ。

 まるで振り切るかのような働きぶりの静馬だが、客は「また、来ます」という宣言どおり、翌日もやってきた。
 同僚という連れを伴って。


[*前へ][小説一覧][次へ#]

あきゅろす。
無料HPエムペ!