小説
十一話



 寒気と痛みに震えながらライアンが目を覚ますと、耳に飛び込んできたのは下卑た笑い声と啜り泣きだった。
 瞬時に状況の悪さを察したライアンは自身の覚醒を悟らせぬように起き上がることなく薄っすらと目を開けて周囲を窺い、ならず者と思しき男数名と、彼らに手を伸ばされて泣きながら怯える女を見つける。
 鼻孔から入るのは饐えた臭いのする空気。
 嫌な場所にいる、嫌な状況に置かれている、脱出するには――相手の人数から効果的な方法が思いつかない。
 なによりも、魔力に弾き飛ばされて川へ落ちてからどれほど経ったかは知らないが、寒気と痛みに見舞われる体は万全には程遠く、じわりじわりと悪寒は増すばかりだ。
 女が泣き叫ぶ。
 男たちが嗤う。
 ライアンは息を潜める。
 いま、ライアンがなにをしたところで良い方向へ向かう手段にはならない。
 いやあ、いやあ、と女が泣いている。
 男たちは増々嗤いだす。
 ライアンは噛みたくなる唇から必死に力を抜き、叫びたくなる言葉を懸命に飲み込む。
 ならず者たちは川から流れてきたライアンを拾ったのだろう。自慢ではないが公爵家の人間であるライアンの身なりはいい。何処ぞで売り捌くつもりなのだと察っするのは易い。
 だが、ライアンは売り物にするには身分が良すぎた。
 財政危機にある貴族ならばまだしも、王室とも縁深い公爵家の嫡男は好色な輩であっても手を出すには高くつきすぎるため遠慮する。そこから関わっただけでも厄介と判断したならず者たちは、既に二進も三進もいかなくなった状態でライアンをどうするか。
 その辺に捨てていくならまだ良い。
 ライアンがもう少し幼かったら、その可能性はほんの僅か上がっただろう。
 けれど、ライアンは既に物事の分別がつくだろうと判断されるだけの歳である。少なくとも、誰になにをされたかを説明することができると判断される。
 自首などという殊勝なことをならず者がするなど期待すべきではない。
 女の泣き叫ぶ声をライアンは黙って聞いていなければならない。
 生きて、この場から脱出するために。
 生きていればどうにかなる。生きてさえいれば、どうにでもなる。

「もういや、もういや、お願い、家に帰して」
「おいおい、家に帰れると思ってんのか? あそこで転がってるガキ見ろよ。お前よりもよっぽどチビなのに大人しいもんじゃねえか」
「あのガキは気ぃ失ってるからだろ! まあ、いつまで寝てんだって話だけどよ。案外起きてんじゃねえか?」

 ひとの近づく気配にライアンは目を瞑る。呼吸はできるだけ自然体を意識するが、もし揺さぶられでもしたら起きないのは不自然だろうか。起きたとして怯えるべきか、そうしたらならず者の嗜虐心を煽りかねない。だからといって居直れば殴られることくらいはするだろう。ライアンは自身がこどもであることを知っている。加減も遠慮も知らない大の男の拳を受けて平然としていられるほど丈夫ではない己がどうするべきか、短い時間を幾重にも刻むように考える。
 閉ざした視界へ影が差す。
 嫌な体臭が近づき、顔へ手が伸びるのを感じた。
 嫌悪に強く目を瞑らないようにするライアンはしかし、逆に大きく目を見開くこととなる。
 派手な水音。
 ばちゃり、とまるでバケツの水を撒いたような音がして、奇妙な生臭さがライアンの鼻を突いた。
 一拍後、悲鳴と怒号。

「誰だ、なんだ、お前、なにしやがった!!」

 水音。

「やめろ、おい、どけ、死にたくなっ」

 水音。

「あああやめ助けいやだ許し」

 水音。
 水音。
 水音。
 ――水音。

「いやあっ、お願い助けて、私はっ」

 笑う気配。

「ナイト!!!!」

 かすれ声で叫ぶライアンの視線の先、馬鹿でかい銃を蹲って震える女へ向けていたナイトがぴたりと静止する。
 薄汚い小屋であっただろうに、今ではただ真っ赤な血肉撒き散らされた箱と大差なく、そんな場所を作り上げたナイトはライアンへ視線を向けて水が流れるように動き出した。
 何度も何十回も何千回も繰り返した動作は淀みなく、銃をホルダーへとしまったナイトはライアンの元へとやってくる。
 無言で着ていた上着をライアンへと着せて、無言でライアンを抱き上げた。

「熱がありますね。痛むところは?」
「全身痛いのだー……」
「すぐに治療しましょう。その後で全身撫で擦って差し上げます」
「いや、そこまでしなくても……」
「風邪を引かれたかもしれませんし、鼻が詰まったらお申し付けください。啜って吸い出しますから」
「…………ナイト、学院に護衛の許可を申請するから、今後は学院でも頼むのだー……」

 魔力制御が未熟なこども一人のせいでここまで盛大な煽りを食らわなければならない自分はそんなに悪いことをしただろうか、と思いつつ、ライアンは多くのことを諦める。

「ナイト」
「はい、我が主」
「私が休んでいる間、ずっと手を握っていてほしいのだー」

 真顔でナイトは泣いた。

「ハイヨロコンデー!!!」
「よそ見してちゃいやなのだー」
「オオセノママニー!!!」
「ナイト大好きなのだー」

 アシカの鳴き声にも似た嗚咽を漏らすナイトに、ライアンはこれだけ言っておけば拡大解釈した関係者皆殺しに向かうことはないだろうとため息を吐く。
 体調不良の主にここまで配慮させるとは、やはりナイトはポンコツ従者だ。
 けれど、ライアンはそんなナイトを信頼している。
 未だ泣き声止まぬ女のように、怯えて震えるべき状態であってもライアンはナイトが必ず来ると、ナイトが自身を救出すると、信じて疑わなかったのだから。

[*前へ][小説一覧][次へ#]

あきゅろす。
無料HPエムペ!