小説
二話



 ナイトは壁に頭を預けて深くふかくそれはもう海より深く溜息を吐いた。

「つれー、マジつれー……なんだこの仕事、辛すぎて涙出てきた……」

 ぐす、と鼻を啜り、ナイトはぱしぱしとまばたきをする。

「っ主が尊すぎてつれえええええええ!!!!」

 迸る感情のまま、ナイトは壁へ頭を打ち付ける。
 ガンガンと打ち付けるたびに天井まで揺れ、壁から不吉な音がし始めるが、その程度で留まるほどナイトの主への想いは軽くもなければ小さくもない。

「主! 主! うわああああああ!!!!」

 とうとう我慢の限界とばかりに走りだし、ナイトは開けもしない窓を突き破って外へ出て行く。尚、ナイトへ充てがわれた使用人棟の部屋は三階にある。
 きらきらと輝くガラス片とともに地面へ重力のまま落下するナイトだが、かすり傷ひとつ負わないままに着地。ガラスを突き破った証拠は散らばるガラス片にしか存在せず、ナイト本人を見ても狂行に走ったと思うひとはいないだろう。
 しかし、悲しいかな、ガラスの割れる音に溜息を吐きながらやってきた掃除を担当する使用人の顔には「またか」と大きく書かれており、ナイトの部屋の下にガラス片散らばっていればナイトが窓を突き破ったと誰もが察するほど彼の狂行は屋敷で周知されている。
 そう、屋敷という単位である。
 決して使用人棟の範囲に収まる話ではない。
 見上げるほどに身分貴きご主人様方も、ナイトが今月で既に何枚窓を割っているかご存知でいらっしゃるのだ。

「そりゃ、最初は二日と空けずにパリンパリンやってりゃ、いい加減どういうことだってなるわ」

 呆れきった様子で言うのはメリルという使用人の男だ。
 ナイトよりも幾分屈強な体躯をしているが、ナイトからすれば鼻で笑うしかない。主付きの使用人であり、ナイトが来る以前は護衛のような立場でもあったメリルはナイトのなかでいざというときの捨て駒要因である。主のため活路を開く自分に精々貢献しろ、と主との対面後、二人きりになった瞬間ナイトは居丈高に言い放った。
 メリルは主との対面前に散々ぶちぶちぶちぶち唇の動きだけで文句たらたら罵詈雑言吐き散らしていたナイトを知っているので真顔になりながら「あ、はい」と答えるしかなかったが、返事は返事なのでナイトは気にしない。
 メリルのなかでナイトはもはや「英雄」ではなく、残念な主狂いである。

「主を前にして窓ガラスぶち破るだけで済ませている俺の自制心は褒められるべきだ」
「いや、ぶち破るだけで済ませてないだろ。暗黒レターを毎日まいにち認めてるだろ」
「俺の愛は主の情操教育と文字のお勉強の役にも立つんだよ!!!」
「お前が綴る文字の内容を理解したらむしろ情操教育に悪いわ」

 暗黒レターとはナイトの迸る愛が洪水を起こして周囲を巻き込む前に、発散よろしく認めている主への手紙のことだ。
 一枚の便箋にびっっっっちりと書き連ねているために一見すると黒い紙に見える。そして、その便箋の枚数は最低三十枚以上が基本で、ナイトは毎日毎朝主へ朝の挨拶と同時にお届けしていた。
 語彙にも情緒にも溢れた手紙は主の乳母、あるいは勉学の師が主へ読んでいるものの、その際は大体の部分が検閲規制により塗り潰されて本当に黒い紙と化していることをナイトは知らない。
 今日も今日とて防弾は無理でも防刃くらいにはなれそうな厚みの手紙を懐へ、ナイトは意気揚々と主のもとへ向かっている。メリルは若干ナイトから距離をとった。暗黒レターは瘴気を放っているともっぱら噂なのだ。
 だが、上機嫌に屋敷を歩いていたナイトは不意に戦場も斯くやあらむと走りだす。
 驚くより早くメリルも追ったが、メリルにはナイトが何故走りだしたのか理由が分からない。
 けれど、確実に主へ関わることだ。
 事実、ナイトは主の部屋へと向かっており、ノックの発想もないとばかりにドアを蹴り開け銃を抜いている。
 まさか、侵入者が、とメリルは緊張して通信機へ手をかけるが、部屋からは稀に夜間警護を外されるナイトへ代わり警護を務めていた護衛が放り出され、代わりにのんびりとしたこどもの声がした。

「あ、ナイト、ナイト。おはようなのだー」
「あああああ主、主、主いいいいいい! 先ほどなにやら主の焦燥に駆られた声が致しましたがどうなさいましたこのナイトにお聞かせください誰を何人殺しますか拷問しますかどこの部隊をっぶっ!」

 メリルが部屋のなかを窺うと、丁度部屋付きメイドが凶悪犯専用牢獄看守のような顔でナイトへ花瓶から抜いたびしょぬれの花束を叩きつけているところだった。

「な、ナイトー! な、なにをするのだっ?」
「ご安心を、坊ちゃま。アンブレラ様をお花で飾り付けしてさし上げただけですので」
「そ、そうなの、か?」
「はい。御覧ください。お花に囲まれたナイト様は可愛らしいではありませんか」

 メイドが微笑む先には幼い少年、主が狼狽しながら顔を拭っているナイトを見つめており、ナイトはその視線へばっと顔を上げると顔面土砂崩れを起こしたような笑みを浮かべた。

「――おはようございます、主」

 何事もなかったかのようなナイトの様子に、メリルはうわあ、と呟く。そのまま部屋から一歩遠ざかりかけ、仕事だ、と言い聞かせながらそっと入り口側の壁へ立った。

「うむ、おはようなのだ……ナイト、その、濡れているが……」
「坊ちゃま、ご安心を。馬鹿は風邪を引きません」
「主、ご安心を。主へのお手紙はちゃんと守ってあります!」

 メイドが激しく舌を打つ前で、ナイトは恭しく主の小さな手へ分厚い手紙を渡す。
 そのずっしりとした重さに「お、おおう……」と声を上げ、主は弱々しい礼を言った。処世術が必修科目の貴族に生まれた主は、幼くとも礼の精神を忘れないのだ。
 けれど、封筒に書かれた神経質さ窺える筆跡が綴る名前を見つめる眼差しはふにゃりと柔らかな色を灯す。
 ライアン・クレランス。
 ナイトの大事な大事なだあいじな幼い主は、その眼差し一つで辞表と退職届持参でやってきた血塗れの英雄にライスクラッカーでも焼いているのかと言いたくなるような手のひら返しをさせた。

[*前へ][小説一覧][次へ#]

第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!