小説
十五話
いい歳をした男、それも鍛え抜かれた巌のような体躯をした偉丈夫が泣き喚く声響く審議の間。騒音のような泣き声がするからこそ、静寂が際立った。
「……うぶっ」
誰かが堪えかねたようにえずき、口を押さえた手の隙間から吐瀉物を滴らせる。
不快な臭い漂う目も当てられない様であるがしかし、誰もそんなものを気にしなかった。
目を逸らしたいのに逸らせない。
見たくないのに見てしまう。
目を覆いたくなる光景に視線は釘付け。
あまりにも、あまりにもおぞましく、怖気走る光景に震え、こみ上げる吐き気堪えるのに精一杯で、他のことに気を回すなどできなかったのだ。
なにが起きたのか。
仔細を説明しろと言われたものは言葉に惑い、説明するために次第を思い返して堪えきれず叫びだすだろう。
ツァーレを同行者とすると言った潔志に向けられた反対意見。
その反対意見の主なる理由を取り除けば良いのだろう、と潔志は動き、結果がこれである。
目の前の気が狂いそうな光景である。
降臨したときより「神子」が携えていた剣。それで、ツァーレのなにか、ツァーレ叫ぶところによる「神への愛」を斬った潔志。
「神子」による断罪といえば、納得できないことではないのだ。
けれど、それを言えるものはこの事態を見ていなかったものだ。話だけを聞き、話の要点だけを並べたものだ。
ツァーレの抱く神への愛を「神子」が斬ったのなら、その在り方は間違いであり、神の望むものではない。ツァーレこそが間違いである。
敬虔なるバリオル集う審議の間で、そう言えるものは誰もいなかった。
誰もが潔志に対して吐き気と怖気を覚えた。
潔志は背中を向けている。その顔がいつ振り向くのか恐ろしくて仕方ない。そんなときが来ないでほしい。神子の尊顔拝せる誉など、欠片も思い浮かばない。
「……神よ、これが試練だというのですか。こんなものが神罰だというのですか。あんなものが……」
――貴方の愛する神子だというのですか。
呟いた誰かはかろうじて続きを飲み込む。
誰もが共有するであろう気持ちであろうと、言葉にすることは許されない。バリオルであるならば。
不意にツァーレが泣き止む。
あれほどにぎゃおぎゃおびゃおびゃおと泣いていたにもかかわらず、ぷっつりとその泣き声は途切れて聞こえない。
血肉と吐瀉物を舐め啜っていたときはあれほど不自由そうにしていたにも関わらず、伏せていた体を起こすツァーレは妙に身軽であった。
見るに堪えないほど汚物まみれとなった顔面をまっすぐ天井に向け、ぎょろりと剥かれた目から涙が名残のように一粒落ちる。
「愛されないならば愛さない、愛さないのだから愛せない、俺はもう貴方を愛してなどいない、少しも、僅かも、欠片も、ちっとも、これっぽっちも、しるし程度にすら、貴方への愛を感じない。貴方を、お前を、あんたを愛していない」
ツァーレは笑った。
幾人かが悲鳴を上げ、音を立てて席から立ち上がる。
きらきらと汚物まみれの顔に輝く花咲く笑みは、どこまでも澄んで清々しく、美しい。
「さよならだ、偶像!!!」
敬虔なるバリオルが神を偶像と言い切った。
その意味を深くふかく理解できるものが、審議の間には揃いすぎていた。
愕然呆然、憤怒も超えて恐怖と恐慌。
ツァーレはさらに続ける。
誰かがやめてくれと叫ぶ声も聞かず、聞こえていないように高らかに叫ぶ。
「こんにちは、俺の新しい想い人! 俺は貴方の斬撃に惚れ果てた!!!」
バリオルとして、ツァーレという人間として、個を微塵も残さず斬殺した潔志に向かい、ツァーレは正しく恋をするように熱の篭った眼差しと表情を浮かべ、愛を、ひたすらに愛を、慕情を恋情を声にした。
そして、誰もが恐れていたときはやってくる。
動かず、黙していた潔志がツァーレに応えぬまま、ゆっくり、ゆっくりと振り返ったのだ。
不惑を迎えて尚若々しい顔に、優しげな笑い皺を深めて潔志が窺うように首を傾げる。
「これで、問題ないよね?」
当たり前のことを成したのであれば、そこに思うものなどなし。
降臨してより今日まで、潔志ともっとも密接に関わったフェートの見慣れた姿で表情で、つまりは平素通りの在り方で、潔志はただの確認をした。
神子に荷物など、と言うフェートを言い包め、潔志は包みを背負って教会の門に立つ。とんとん、と腰を叩いてしまうのは実際に疲労を感じているからではなく、これからの長い道中を思ってのことだ。外見からそう見えずとも不惑の潔志は立ち上がるときにはつい「どっこいしょ」と一声かけてしまうし、腰を叩く仕草などが増えた。
フェートは不安そうな顔をするけれど、それらは仕草だけのこと。心配には及ばないと潔志はひらひら手を振る。
そんなふたりのやりとりに割り込むよう、太い声が溌剌と発せられた。
「良い旅立ち日和ですな、潔志殿!」
「そうだねえ」
「幸先も良いことでありますし、実に喜ばしい!」
「そうだねえ」
気のない潔志の相槌であるが、それを寄越された相手、ツァーレは気にした様子もなくにこにこと上機嫌だ。
その様子にフェートは僅か眉間を寄せるのだが、ツァーレはなにを思ってかフェートに向かって勝ち誇ったような顔をする。
潔志によって神への愛を斬られたツァーレは、同量の愛を潔志へと向けた。
しかし、生来の嫉妬深さに変わりはなく、神へ侍る覡に対して嫉妬はせずとも潔志に目をかけられるフェートには嫉妬の炎が燃え盛っているのだ。
居心地悪そうにするフェートの頭を軽く撫で、我も我もと主張するツァーレを無視して潔志は教会を振り返る。
ずらりと勢揃いした各国の要人、祭司たち。皆、一様に緊張へ顔を強張らせ、中には……あのとき審議の間にいたものは潔志の視線に堪えられないというように目をそらす。
「……ご武運を。神子様に神の幸いありますよう、我ら日々祈りを捧げまする」
代表するようにナルスラーが礼をして、一同が続く。伏せた面にどんな表情を浮かべているのか、潔志は想像しない。
「はい。斬るだけ、斬れるだけ、斬ってきます」
厳かな礼に対してあまりにも軽々しく、潔志は教会に背を向け門を出て行く。続くのは未だ少年の域を出ぬ覡フェート、神への盲愛を斬り裂かれ潔志に胸焦がすツァーレ。
たった三人の「人間」が、魔族という爪牙へ鋒つきつけんと旅立つ。
道は先も見えぬほどの茨に覆われていることだろう。
けれど、悠々と歩く潔志の口元には笑みが浮かぶ。
茨斬り裂き拓く先、斬るべきものが斬りたいものがあるのなら。
「――ああ、たのしみだなあ」
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