小説
無上(後)
前触れもなく突然に、グレンの胸元でトゥールビヨンがりいん、りいん、と数時間前に聞いた鐘の音よりも軽やかに鳴った。
静寂に入り込んだ音をしかし、グレンは不快とも思わず応答する。
「グレン、あなたいま何処にいるの?」
すっかり女性になって、母親になったいつかの少女。
自身の不在に気づいたイルミナが寄越した連絡に、グレンは思わず口端を上げた。
「なあ、ガキ」
「いつになったら名前を呼んでくれるのかしら……なあに?」
不満そうにしながらも諦めているのか、イルミナはグレンがなにを訊ねるのかと柔らかな声で促す。
イルミナは、こうやってリムにも、我が子にも両の腕を開いているのだろう。
見つめて、促して、受け入れて。
フェリシテは強く靭やかな女だった。
イルミナは強くやわらかな女になった。
答えの分かっている質問をするなど本当に自分は老けたものだと思いつつ、グレンはイルミナへ問いかける。
「お前の家って何処だった?」
「呆けるには早く……ないわね。あんまりにも元気いっぱいだったからグレンも歳を取るんだって忘れてしまうわ。陛下も……亡くなったのにね。
まったくもう、新しい家になってから来ないからよ。興味ないから覚えなかったとか言わないでちょうだい。訊いたからにはそうじゃないって期待するからね」
小言じみた前置きのあと、イルミナは現在の住まいを告げる。
帝国カスタニエにある、帝国を代表する魔術師に相応しくも三人の家族が暮らすのに丁度良い家と、その周囲の特徴。
グレンは口元だけで微笑む。
イルミナの家は、イルミナの生きる場所は、この世界に存在して深く根付いている。
分かっていた。確認をしただけだ。
間違いはなかった。ならばもう――
「安心だな」
「え? ああ、確かに治安は良いけど…………グレン? そなた、いま何処にいるのじゃ?」
「いまのお前がその口調だと婆くせえな、イルミナ」
「ッグレ――」
グレンはトゥールビヨンを握り潰す。脆いクッキーを砕くように、グレンの手の中で精密機器は粉々になった。
手を払う仕草も煩わしく、グレンは手套を外して長く装備として役立ってくれたそれを床へ放る。
節と、なにより皺の目立つようになった手を眺め、グレンは無造作にポケットから小さなナイフを取り出し、それも数秒眺めてから放り捨てた。
仕草は無造作に、けれど、グレンをよく知る、隣で誰よりも見知るものからすれば過ぎるほど丁寧に、グレンは指先を左の眼窩へ埋める。
ぬるいような、熱いような温度を指先に感じ、そんな温度などどうでもよくなるような激痛を感じ、それら自身の行動がもたらす感覚こそが心底くだらないとばかりにグレンは集中した。
差し込む日差しがあんず色へ変わり、東の空にぶどう色が混ざるほどの時間。
狭い眼窩を広げるように指先で骨を砕いてもみせながら、ようようグレンは作業を終える。
左の視界は黒く、ひょっとしたら赤く失せた。
顔面なのか頭そのものなのか判断つかないほどの痛みを投げやりに無視しながら、グレンは左顔面から血を垂れ流しつつ止血もしないで水差しへと手を伸ばした。
手のひらへころりと転がる丸いもの。
どうにか無惨なことにせず抉り出した眼球は真っ赤だったけれど、水をかけて洗えばつるりとした白い部分と――魔力を深く満たした濃い紫の輝きをグレンへ向ける。
ずっと、ずっとずっと、隣をともに歩き続けてきた。
グレンは彼と、ヴィオレと生涯を共に並んで歩き続けてきた。
けれど、あの時、この場所を最後に、グレンとヴィオレが向かい合うことはなくなったのだ。
鏡に映る姿はグレン自身のものであり、ヴィオレが隣に存在することを感じはしても、前を向いたときに見つめ返してくる眼差しがないことの実感もした。
誰にも許さなかった場所を埋める気配が誇らしい。
見つめた先に存在する不在がもの足りない。
なによりも、不在の先へ告げるには相応しくない言葉がある。
グレンはたった一言を告げるために、もう一度だけ、どんな形であってもと望んだ。
それは思い出すだけで目の前見失うほどの怒りを覚えるような紛いものではなくて、消え逝くヴィオレが余さずグレンに譲り遺した彼自身の形以外には当てがない。
深い緑の目が見つめる先に、見つめ返す濃い紫の目がある。
かつて、当然だった光景。
結局、この眼差しよりも美しいものを知ることはなかったと、グレンは己に失笑する。
久しく相棒と向かい合ったグレンは、大きく息を吸い……呆気ないほどにぽつりと呟いた。
「守ったぞ」
フェリシテは亡くなった。
誰の意図したものではなく、その人生を歩みきった。
無茶も無理も数えきれないほど重ねたけれど、それらを苦労とも苦痛とも思わない。
誰がもたらす悪意からも、グレンはフェリシテを最期まで守った。
それは、つまり。
「――守りきったぞ」
グレンは、相棒が全身全霊で願った約束を、守り切ったのだ。
ヴィオレがなによりも願ったものの結末を、グレンは彼の目を見て伝える。
ヴィオレが願った通り、信じた通りの結末を、当然のこととばかりに、だからこそ呆気なく、伝えたのだ。
たったそれだけ、それ以上にない。
これ以上のものも、ない。
重ねた時間も、歩んだ道も、今ある痛みも、全てがたった一言と同時に解けていく。
そうして、己の「特権」にひとり満足し……グレンの体は糸が切れた人形のように横へ倒れた。
本人が気づいても気にしなかった変化、グレンの顔を伝って落ちていた血が粒子となって溶けていく。
グレンを満たしていた魔力は紫色を帯びてその体を包み、力の抜けた手から眼球が転がり落ちる刹那、彼の体とともに淡い光へ変わって消えた。
なあ、グレン。
なんだよ。
国を空けた身で褒められたことではないのだが……
ああ。
異世界へと渡ったことは、渡れたことは、私には良いことであった。
へえ。
あのときは非常に疲れてもいた故、初めは嘆きもしたが……元より魔術師など好奇心がなければやっておられぬものであるし、見知らぬものへの興味は尽きぬ。
それで寝るの忘れてりゃ世話ねえよ。
顔に出やすいだけで問題になるほどではないと知っておるだろうに。そんなことはよいのだ。
いいのかよ。
よいのだ。ドラゴンや魔物には驚いたな。あちらでしか見られぬ薬草の類は宝の山であったし……迷宮は理不尽であるが、故に新しい発見もあった。
そなたと冒険者をやるのは、心が踊った……
……そうか。
楽しかった、と言っている。
何度も言うんじゃねえよ、分かってる。
はは! なあ、グレン。私は……
ヴィオレフォンセ。
……なんぞ?
満足したか?
……ああ。もう、充分ぞ。
そうか……なら、俺も満足だ……
…………ありがとう、私の相棒。
どーいたしまして……俺の、相棒……
――日没の直前にある、もっとも暗い一瞬。
静かな眠りを誘う紫黒の夜が訪れるなか、赤い夕陽が一瞬、命の輝きのように眩い閃光を世界へと刻みつけた。
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