小説
王手(後)



 和臣のいなくなった部屋のなか、恋人と実兄が散々睦み合ったであろうベッドに清澄は躊躇なく飛び乗り、仰向けに寝転がった。広がるフレアスカートから長い足が伸びる。

「あいつは本当にお前の兄貴か?」
「どういう意味ですか」
「分かってるだろ」

 安っぽい軋む音を立て、誠一がベッドへ腰掛ける。
 清澄を閉じ込めるように顔の横へ突かれた手を見て、腕を辿り、見慣れた顔に清澄は不機嫌を滲ませた。

「あなたのせいでしょう」
「俺がなにをしたっていうんだ」
「俺の兄を本気で惚れさせた」

 誠一がにっこりと笑う。
 強かに舌を打つ清澄は、和臣がいまどんな顔をしているのか想像し益体もないと首を振って頭のなかを散らした。
 和臣は最初、真実清澄のために誠一へと近づいたのだと清澄は理解している。
 けれど、一度目の接触、二度目の接触、重なる触れ合い、交流が、和臣のなかに存在していなかった感情を芽吹かせた。
 誠一の意図によって、だ。

「お前と反対に如何にも堅物でございって顔したお兄さんが段々と顔つき変えていくのを見るのは楽しかったわあ」
「くそったれ。なんですか、その言い方じゃ俺が尻軽みたいだ。俺はあなたにしか足を開いた覚えはありませんよ」

 誠一の目が刃物の先端のように光る。
 きつく顎を掴まれ、頬には僅か爪の感触。

「足はな?」

 ゆっくりと顎から手を放した誠一は、爪を見つめて「化粧が入った」と呟く。清澄は「ざまあみろ」と吐き捨てた。和臣には引っ叩かれるわ、誠一には爪で削られるわ、ホテルを出る前には直さなくてはならない自身の苦労を思い知れ、とばかりの様子だ。

「なあ、清澄。お前が俺を選ばないなら、俺は酷いことをするぞ?」
「選んでいるでしょう、これ以上なく」

 まるで信じていない顔の誠一に、清澄は鼻を鳴らした。



 清澄が自宅へ帰ると、ドアの前には和臣が立っている。
 険しい顔で自身を見てくる和臣に微笑をひとつ、清澄は「上がっていきますか?」と首を傾げた。鬘でもつけ毛でもないきれいに伸ばした地毛がさらりと首筋を擽るのを指先に巻きつけてから払い、清澄はなんら気負った様子なくドアへと向かい、必然的に和臣へと近づく。
 和臣は中へ入り、茶を出されても丸々五分は黙ったままだった。清澄はその間に携帯電話をいじったり、女性向けファッション雑誌を捲ったりして時間を潰す。

「……あの男と別れろ」
「ようやく口を開いたと思えばそれですか?」

 つまらないという表情をする清澄を強く睨みつける和臣に、清澄の胸のなか冷たい水が湧き上がるような心地がする。

「あんな男の何がいい。恋人の兄とも平気で寝るような男だ。お前がこんな形になっても傍へいるっていうのに、それでも足りないとばかりに傲慢な男だ!」
「それで――俺の後釜にって?」

 平手では済まない拳を清澄は流石に叩いて落とす。痛みを楽しむ趣味など持ちあわせていないのだ。

「馬鹿なお兄様、可哀想なお兄様! あのひとの悪いところを一つずつ並べ立てて俺に同意してもらわないと安心できないんでしょうっ? これだけのことをしてみせる俺が傍にいたんじゃ太刀打ちできないって思っちゃったんでしょうっ?
 ええ、ええ、知っていますよ、お兄様! だって俺はあなたの弟だ!! 弟思いの優しいやさしいお兄様、いつからそんな嫉妬丸出しの雌顔するようになったんです? あのひとはそんなあなたに腹抱えて笑いはしてもちっとも惚れやしませんよ、ええ、分かります、だって、俺はあのひとの恋人だから!!!」

 和臣が激昂するより早く、清澄は和臣の胸ぐらを掴み上げた。

「誰があなたにくれてやるもんか」

 爛々と光る清澄の目に気圧されたよう、和臣は硬直してひく、と喉を震わせる。
 清澄は和臣が我へ返らぬ内に無理やり玄関へと引きずって行き、問答無用で外へと放り出した。
 靴を投げてからドアを閉め、鍵とチェーンをかければもはや清澄と和臣は重く硬く隔てられる。

「誰が誰が誰がやるもんか、誰にも渡さない」

 和臣の気配を振り切るように寝室へ移動し、清澄はベッドへと潜って呟いた。
 清澄は和臣が思うよりも、誠一が思うよりも、ずっとずっと好きなのだ。
 ――故に、清澄は迷いなく一手を決めることができる。
 その結果は雨が降り出しそうな重い雲に覆われた空の下でもたらされた。
 誠一と珍しく普通の恋人らしいデートをして、食事に入った店でスタミナ牛カルビ丼を大盛りで注文して店員にぎょっとされたり、誠一が雑貨店で見つけたハートストローを押し付けられて口をひん曲げたり、歩くときはずっと手を繋いでいたり。

「お、降ってきたか?」
「そうですか?」
「鼻先にぽつっと」

 立ち寄った店から出てすぐに言った誠一に、清澄も手のひらを伸ばして確認してみるが雨粒を感じることはない。
 だが、いつ降りだしてもおかしくない空がいよいよ泣き出したというのなら移動は急いだほうが良いだろう。
 空へ向けていた手を下ろして再び誠一と繋ごうとしたとき、背後から襲った衝撃に清澄の手は逸れた。

「清澄?」

 どうしたのか、と顔だけではなく、全身で自身へ振り返ってくれる誠一が堪らなく好きだと、清澄は不意に心から感情を溢れさせる。
 けれど、溢れたものは言葉として音を結ばず、母音のうめき声になるのみ。

「おい、嘘だろ」

 ふっと軽くなった体、誠一に手を突いて後ろを振り返れば、清澄にぶつかったまま体勢低くしていた男が顔を上げる。
 両手には血塗れの大ぶりナイフ。
 和臣がいた。
 清澄は和臣に刺されたのだ。
 痛みと熱に目眩がするのは気のせいではないだろう。周囲で聞こえる悲鳴が遠いのも気のせいではないだろう。
 勢い良く清澄の命が溢れているのは現実だ。
 真っ直ぐに和臣を見て、清澄は笑った。
 誠一から見えない角度であるのをいいことに、笑ってみせた。
 その表情に和臣は悟ったのだろう。非常に悔いたような、堪えるような、噛みしめて歯を軋ませるような顔をする。
 清澄が和臣の弟故に理解するよう、和臣も清澄の兄故に理解するのだ。
 愛している。
 清澄は誠一を愛している。
 けれど、全身全霊で溺れるように愛すれば、誠一はあっさりと清澄に飽きてしまうことだろう。今までの熱など忘れたように、清澄は大多数の一人として置き去りにされる。
 自分だけを見ろと言うくせに、誠一はそういう酷い男なのだ。
 許せなかった。
 愛しているのに、目一杯、精一杯、心から愛させてくれない誠一が、どうしても許せなかったのだ。
 和臣のことならば理解できる。
 他の誰かならば予想外があるかもしれないが、和臣であれば、絶対にこうしてくれると清澄は確信していた。

「ばかなお兄様、可哀想なお兄様」

 紅を引いた唇で嘲り、一転して清澄は心からの幸福を透明な笑みに乗せて誠一を振り返り、呆然とした彼だけを見つめる。
 ぐらぐらと揺れる視界と、感覚の失せた脚。

「あいしてる」

 痴情の縺れで刺され、朦朧とする意識のなか「愛してる」だなんて陳腐に過ぎる。
 けれど、清澄はこの陳腐な一言のために全てを賭けたのだ。
 清澄は弟だから和臣のことが分かる。
 清澄は恋人だから誠一のことが分かる。
 ほら、青褪め、焦燥と情愛とが混ざって必死な顔をする誠一がいた。

(ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ!)

 自分の一人勝ちだ、ざまあみろ!!
 心から勝ち誇り、心から満たされて、心から幸せそうに、清澄は目を閉じる。
 誠一が叫ぶ。
 死ぬなとか、目を開けろとか、愛しているとか、もう清澄以外に触れないからとか、酷い男が自分の持ち得るありったけの誠意と謝意と慕情をかき集めて清澄に捧げている。
 そこに混じる和臣の狂ったような叫び声。

 ――次に目を開けたときが、清澄はとても楽しみだった。

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