小説
八話
楼主の使いでリーシュの店を訪れたディフェイは、いつものように笑って迎えてくれたリーシュに微かな違和感を覚えた。
リーシュの様子はいつも通りだ。表情も、雰囲気も、話す声だってなにひとつ変わらない。それでもディフェイが「あれ?」と首を傾げたのは、年齢から考えれば信じられないほどの敏い視野で以ってリーシュを見つめていたからかもしれない。
花街において純粋な好意というものは稀だ。その希少な感情をディフェイはリーシュに抱いている。
リーシュはディフェイをただのこどもではなく、浮舟屋の楼主が目をかけるこどもという肩書を含めて見ていることがあるだろう。それでもいいのだ、構わないのだ。
目に見える形で、気付かせてしまう形でリーシュがディフェイに媚びたことなどない。猫撫で声を出して褒めそやしたこともないし、楼主へよろしく、という言葉に含むものもなかった。
リーシュの好意が嘘でも、気付かせないのならばディフェイはその好意に喜ぶことができる。
大好きなひと。
リーシュが思っているより……リアンが思っているより、ディフェイはリーシュを慕っている。
だからこそ、リーシュの様子がおかしいことに、ディフェイは気を逸らすことができない。
リアンとなにかあったのだろうか、と考えるが、それならばリーシュはもう少し分かりやすい。
隠そうとして隠し切れないものがほんの僅かに滲んでいるのだとしたら、とディフェイは考え、ここ最近の花街を思い返す。
商品を厳選する浮舟屋に出入りはないが、小見世、切見世には質の良くない女衒がよく行き来するようになった。
それとリーシュ、関係があるだろうか?
ディフェイには思いつかない。
だが、楼主から言付かった酒をリーシュが奥から持ってきたとき、ディフェイは違和感の正体にようやく気付く。
リーシュの身を飾る装飾品が、どれも随分と懐かしいものになっていた。
時代遅れ、という意味ではない。
花街にやってきたばかりの頃、リーシュ自身が持っていた装飾品だ。
最近、リアンが纏めて押し付けでもしたのか随分と質の良い装飾品を取っ替え引っ替え身につけていたのに、今日のリーシュにはそれらが一切見当たらない。
たったそれだけで敏いこどもは、敏すぎるディフェイは気づいてしまった。
「リーシュさん、何処かへ行くの」
「あら、どうして?」
いきなりなあに、と笑うリーシュは動揺など欠片も見せない。
ディフェイは幼くまろい顔に似合わぬ苦笑を浮かべた。
「なんとなく思っただけだよ。お酒、ありがと」
「そう? 重いから気をつけてちょうだい」
「うん――リーシュさんも、気をつけてね」
リーシュは朱色の紅を引いた唇に上品な笑みを湛え、ディフェイを見送った。
ひらりひらりと蝶が羽ばたくのにも似た動きで振られる手に、ディフェイも一所懸命振り返す。リーシュを振り返ったまま歩いて数歩、腕を下ろしたディフェイは前を向いた。
前へ、前へ、多くのひとに向ける愛想のいい無邪気なこどもの顔で、小唄なんて時々口遊みながら、前へ。
生まれ育った浮舟屋の裏口から楼主の部屋へ向かって酒を届ければ、こんな商売をしているのにひとの好さそうな笑い皺を深めた楼主が油紙の包みをディフェイの両手に落とす。中にはころりと詰まったあめ玉。
「おまぃはまったく利口だねぃ……おまぃの母親はもういないけど、おまぃを遺してくれたことにアテシは感謝してるよ」
ディフェイの頭を撫でる楼主の手は優しい。ディフェイはこの手が嫌いではない。きっと好きですらあるだろう。でも、きっとこの手だけを選んで握ったまま離さないでいることはできない。
夜見世の支度前まで休憩しといで、という楼主の気前がいい言葉にこれ幸いと、ディフェイは暮らし慣れた花街をぽてぽて歩き出す。
幼いこどもの体であれこれ興味深そうにきょろきょろしながら、その実ディフェイは目的を持って探していた。
そしてその探しものは甘味屋で見つけることになる。
「リアンさん」
野点傘の影の下、顔に似合わぬ白玉あんみつなどを食べるリアンが顰めた顔を上げた。ディフェイは知り合いを見つけたこどもらしい態度で駆け寄り、隣にてん、と座る。
「なんの用だ」
「用がなくっちゃ挨拶もしちゃいけないの」
「挨拶で済ますならお前は態々来ないだろう」
「流石に目が利くねえ。でも、そんな目が利くリアンさんが此処で白玉あんみつなんて食べているってことは、リーシュさんのとこには行っていないってわけだ」
つぶ餡と寒天を一緒に食べるリアンが横目でディフェイを見た。こども相手でも対等に向き合っているといえば聞こえはいいが、リアンの態度にはまったく愛想がない。ディフェイに愛想を振ったところでなんの儲けもないのだから仕方ない。
「リアンさん、リーシュさんにとうとう愛想でも尽かされた?」
「どうしてそういう話になった」
「ああ、ほんとうにリアンさんが原因ではないんだ。じゃあ、なんだろう」
リアンがとうとう白玉あんみつの器を置いた。
「なにを伝えたいんだ?」
その顔はものを訊ねているとはとても思えないほどに面倒くさそうで、反対にディフェイの浮かべるにんまり笑顔が強調されて見えるほど。
そよ風が耳を撫でるのにも似た微かな声で、ディフェイは言った。
「リーシュさん、いなくなっちゃうよ」
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