支部 
【YOI】不変の愛を孕んで
●前提
随時シリアス雰囲気。
勇利逆行。
ヴィク勇





───不変の愛を孕んで───




あと少しだけ、ヴィクトルの隣を歩く権利を下さい。

グランプリファイナルの会場であるバルセロナで、勇利は密かにそう願っていた。
ヴィクトルには話していないが、コーチと選手という関係は、グランプリファイナルが終われば解消するつもりでいた。
けれど、それまでは、ヴィクトルの隣で彼を見ていたかった。

グランプリファイナル、前日。
勇利は不安に苛まれ胸が締め付けられるのをひた隠しに、観光したいとヴィクトルにお願いをした。
ヴィクトルとの残り僅かな思い出作り。

観光と食事と買い物、中々なハードスケジュールで回りきり、最後に勇利はヴィクトルに指輪をプレゼントした。
お揃いで購入したゴールドの指輪は、明日から行われるグランプリファイナルの金メダルを取るという宣誓。
それと共に、様々な感情を込めた自分への戒めとお守りだった。


ありがとう。
勝手に決めて、ごめんなさい。
あと少しだけよろしくお願いします。

この指輪があれば、僕は、どんな舞台にも立つことが出来る。


笑顔で、歩いていく…はずだった。


「…?!勇利っ!危ない!!」


幸せな時間は唐突に終わりを告げる。



「ヴィクトル…!」
「勇利、離れて…勇利まで死んでしまう…!」
「嫌だ!ヴィクトル!」

それは事故だった。
市街で起きた倒壊事故。

とっさに勇利を庇ったヴィクトルが下敷きになり、勇利に建物から離れるように何度も叫んでいた。
建物はまだぐらついている。
もし、また崩れたら、勇利まで道連れにしてしまうかもしれない。
そう思い、叫び続けるヴィクトルの声に首を振り、勇利はけしてヴィクトルの手を離そうとはしなかった。

ヴィクトルの目には、泣き叫ぶ勇利とその上に降り注ぐ建物の瓦礫がスローモーションの様に見えていた。

「勇利っ…逃げて!」

間に合わないと分かっていても、ヴィクトルは叫ばずにはいられなかった。

悲痛な叫びに対し、瓦礫は容赦なく二人の上に降り注いだ。

「ヴィク、トル…?」
目を開いたのは勇利だった。
血塗れのヴィクトルが瓦礫の中で伏している。
ピクリとも動かず、かろうじて見える顔色もどんどんと悪くなっている様だ。

「ヴィクトル!ヴィクトル…!」

何度叫んでもヴィクトルは動かない。
ヴィクトルに駆け寄りたかったが、勇利の体は瓦礫に挟まり、動くことが出来ない。
下半身の感覚がないことすらどうでもいいと、勇利は唯一動かせる右手を必死に伸ばした。

「ヴィク、トル…!」

どんなに伸ばしても、その手がヴィクトルに届くことはなく、勇利は自身から溢れ出る生暖かい血潮の中で、静かに意識を失った。




────────────────




勇利は目を開いた。

目前に見えるのは見知った天井。
チェレスティーノに師事していた頃のデトロイトの勇利の部屋。

「(あれ?…僕は今まで…ヴィクトル…?…夢?)」

ゆっくりと体を起こして確認すれば、体にキズ一つ無いことが分かり、本当に夢だったのだと安堵とも悲哀ともとれるため息を静かに吐いた。
念のため頬をつねってみるが、はっきりとした痛みが走り、やはりあれは夢だったのだと得心がいく。

「(あまりにもリアルな夢だった…)」
ようやくではあるが、勇利は今の自分の現状を思い出していた。
今は20歳で日本代表のフィギアスケーターではあるが、グランプリファイナルには出たことが無い。
ロシア代表のヴィクトル・ニキフォルフの大ファンで強い憧れを抱いている。
けれど、彼と話したことなど一度もない。

「(何であんな夢見たんだろう)」

ベッドの上でぼんやりとしていると、右隣のベッドに寝ていた誰かがおもむろに起き上がった。
大きく欠伸をした後に、まだ眠そうに目を擦っている。

ルームメイトのピチット・チュラノンだ。
勇利と同室となってからそれなりに経つが、彼はいつも陽気で、人見知りの勇利も友達だと言えるほど仲良くなっていた。

「んー…?あ、勇利ー…サワディーカップ。…早起きだねー…」

ぼんやりとこちらを見て微笑んでいるピチットに勇利も微笑み返す。
時計を確認すれば、確かにいつもの起床時間よりもかなり早い時間だ。
タイ人故か、ピチットは勇利よりも早く起床していることが多く、勇利の方が先に起きるなど数ヶ月に一回有るか無いかというところだろう。

ふと、ピチットは首を傾げた。

「勇利、その指輪どうしたの?」

「指輪…?」
「右手に付けてる金色の指輪。綺麗だね」
ピチットの言葉を受け、ゆっくりと視線を落とす。
右手を持ち上げれば、昨日までは確かに無かった金の指輪が薬指に嵌められていた。


────勇利!


ぞくりと背筋が凍り、夢だと思っていたはずの現実が次々と頭の中に流れてくる。

『今日から俺はお前のコーチになる。グランプリファイナルで優勝させるぞ!』

『良いね!そういうの大好きだよ!』

『勇利は俺にどの立場でいて欲しい?』

『勇利が引退しなければいいのにな…』


『勇利っ…逃げて!』


ぼろぼろと涙が溢れて前が見えない。


「…あ、…あぁ…っ!!」

急に嗚咽を上げて泣き出した勇利に、ピチットはぎょっと目を見開き勇利に駆け寄った。

「勇利?!どうしたの?どこか痛いの?」
勇利の背中をさすり落ち着かせようとするが、今の勇利には全く聞こえておらず、ピチットはただただ泣き続けている勇利を見つめていることしか出来なかった。

いつまで経っても練習場にやって来ない二人に痺れを切らし、コーチであるチェレスティーノが部屋に来る頃には、勇利は泣き疲れて眠ってしまっていた。

勇利をベッドに休ませると、ピチットとチェレスティーノは部屋を出た。
ラウンジのイスの双方腰掛け、一つ息を吐く。

勇利は自分に自信がなく、感情を表に出すことすら苦手にしていた。
その勇利が感情を顕にして泣き出したというのは、それ程の何かがあったのだろうとチェレスティーノは眉を潜めて、目の前に座るピチットに視線を向けた。

「一体何があった?」
「…僕も良くわかんない。
 朝起きて、勇利の薬指についていた指輪の話を振ったら、その指輪を見て泣き始めちゃったんだ。
 理由を聞いても首を振るだけで全然話してくれなかったし…」
眉尻を下げたピチットすら泣きそうで、チェレスティーノはピチットの頭を軽く撫でた。

「ピチット、お前が気に病む必要は無い。いつも通りに接してやれ。
 勇利が起きたら、話を聞いてみよう」
「うん…」


────


「勇利!目が覚めたんだね!良かった!」
そう言って笑うピチットと師であるチェレスティーノが、勇利のために食事を持って部屋にやって来た。
気づけば既に夕方だったが、食欲が全く無かった勇利は少しだけ口にすると感謝の言葉を述べて早々に食事を終えた。

「…一体、何があったんだ?」

慎重に言葉を発したチェレスティーノに、勇利は静かに目を伏せた。

「…夢を見たんです。とても幸せで、残酷な夢を。
 朝起きた時、現実と夢が混じって取り乱してしまって…。
 すみませんでした。
 明日は練習に出ます」
もう、これ以上は聞いてくれるなと、勇利は深々と頭を下げた。
心に踏み入れられれば、きっとまた泣いてしまう。
それだけは避けたかった。

「…。勇利、辛い時は言え。俺達は師弟だ。人生相談くらい乗ってやれる」
「僕も!チェレスティーノに言えないことでも、僕になら言えるでしょ?」
「おい、ピチット…」

チェレスティーノの呆れ顔とは裏腹に、ピチットは満面の笑顔でベッドに座る勇利の手を握った。

「だって、僕は勇利の親友だもん!ね?」
そう言ってウインクしたピチットに、勇利は瞬きを数度繰返してから砕けたように笑った。

「…うん、ありがとう…」



────



その日の夜、勇利はふと目を覚ました。
体を起こして隣を見れば、ピチットが寝息を立てて眠っている。
親友だと言ってくれる彼は本当に優しい人だと微笑んで、勇利は膝を抱えた。

「…ヴィクトル…」

小さく口に出した名前に、目の前が滲む。
振り払うように袖で目元をこすり、勇利は携帯を取り出した。

「(…これは現実だ。僕は過去に戻った。
 それなら、もしかしたら、ヴィクトルも僕と同じ様に過去に戻っているかもしれない…)」

手早く携帯をいじり、SNSのヴィクトルのアカウントを表示させる。

「(でも…。
 …もし、戻ってなかったら?
 僕だけが過去に戻り、ヴィクトルは覚えていなかったら?)」

勇利の手が震える。

「(覚えていなかったとしても…確かめないと…)」


───覚えていますか?金色の指輪。


ダイレクトメッセージでたった一文。
それだけを送り、勇利は目を瞑った。

「ヴィクトル…」

祈るように呟いた言葉にも、送ったメッセージにも返信は無かった。


勇利の心は誰にも知られることはないまま、世界選手権へと突入した。



────────────────



世界選手権に出場するメンバーが次々と会場入りしてくる。
その中には勿論、勇利やピチット、そして、ヴィクトルもいる。

「勇利勇利!写真撮ろう!」
「うん。良いよ」

ピチットは相変わらずのSNS中毒で、撮った写真をすぐにネットにアップしている。
その横で勇利は辺りをきょろきょろと見渡していた。

「勇利、何?誰か探してるの?」
勇利のお尻を揉みながら声を掛けてきた人物に驚いて振り返れば、ジュニア時代からの知り合いであるスイス代表のクリストフ・ジャコメッティが勇利を見下ろしていた。

「クリス…いつも言ってるけど、お尻揉まないでよ…。びっくりした…」
「グランプリシリーズの時より絞ったみたいだね?」
「まぁね…」

以前…一度目の人生を歩んでいた勇利ならば、ストレスでもう少し太っていたかもしれない。
けれど、今の勇利のコンディションは完璧だった。

「(指輪を見るとヴィクトルに“子豚ちゃん”って言われてたの思い出して、食欲抑えられるんだよね…)」
「それで?誰探してたの?」
勇利の気持ちなどつゆ知らず、クリスも辺りをきょりきょろと見渡している。

「別に誰も探してないよ」
「ふーん…?」
クリスは全く納得していなさそうだが、ヴィクトルを探してたとも言えず、苦笑するに留まった。

「…あ、ヴィクトルだ。勇利、一緒に挨拶に行こうか!」
「え」
ヴィクトルを見つけたらしいクリスは、勇利の手を引いて歩き出したが、“ヴィクトル”という言葉にびくりと反応した勇利は手を振り払って首を横に振った。
「…クリスだけで行ってきなよ」
「ん?良いのかい?勇利、ヴィクトルの大ファンだっただろ?」
「うん。緊張、しちゃうから…」
「そっか…。じゃぁ、またね」
「うん」

去っていったクリスを見送り、勇利は小さく息を吐いた。
一度目の自分は本当に緊張してるからと断っていたなと思い出して、勇利は人知れず苦笑した。

「(ヴィクトルに会うのが怖い。
 …僕が送ったメッセージに返答は無かった。メッセージに気づいていないのか…。覚えていないのか…。
 どちらにしろ、僕はヴィクトルに初めまして、なんて言えないし、言われたくない…)」

ふと、右手に嵌めたままの指輪に視線を落とした。
「(大丈夫。僕はヴィクトルとのお守りがあれば、滑ることが出来る。
 この指輪がある限り、僕とヴィクトルとの繋がりは消えない)」

グッと拳を握りしめ、勇利は控え室へと向かった。



世界選手権は瞬く間に終了し、結果が発表された。

「勇利凄い!」
「三位…」
横から抱き着いてくるピチットの歓喜の声を片耳に受け取りながら、勇利は目を瞑って右手の拳を左手できつく握った。
指輪の温もりを左手に感じ、傍にいない彼の笑顔を思い浮かべる。

『勇利、パーフェクトだ!』

「(ヴィクトル…。…僕、まだまだ課題がいっぱいだよ…)」

すっと目を開いた勇利は、隣で携帯で写真を撮ろうとしているピチットに柔らかく笑顔を返した。




表彰台に立った勇利は、首にかかる銅メダルをテレビカメラに向ける。
優勝して表彰台の中央に立つのは勿論ヴィクトルで、勇利の記憶よりも少しだけ若い彼は美しく笑っていた。

「(あぁ、綺麗だな…。
 彼は覚えているだろうか…多少でも、あの日々のことを…)」

ふと、彼が勇利の方を向いた。

「ねぇ、勇利!君の演技凄かったね!音楽を奏でる様なスケーティング、とても綺麗だった!
 君みたいな選手がいたんだね!知らなかったよー」

ヴィクトルに唐突に話を振られ、勇利は一瞬呆気に取られ、目を見開いた。

「…あ、はい。ありがとう、ございます…」

かろうじて返答した後、勇利はすぐにヴィクトルから視線を逸らした。
きょとんとしているヴィクトルから逃げるように、勇利は取材が終わるとそそくさと会場から出ていった。

勇利は一直線に歩いてトイレの個室に入ると、荒々しく鍵を掛けた。
力なく扉に寄りかかったままの勇利の肩がかたかたと震えている。

「…、……う…うぁ…っ……っ…!」

ぼろぼろと流れ出る涙が床に落ちて行く。

「(…ヴィクトルが笑ってた…。
 僕の演技を綺麗だと言ってくれた…。

 …けど。
 間違いない。

 ヴィクトルに一度目の記憶は無い…)」

ヴィクトルが元気にしているという喜びはあるものの、記憶が無いという決定的な事実を突きつけられ、勇利は崩れる様にその場にうずくまった。
目の前が歪んで、立っていられない。
勇利は自分を抱きしめるように力強く肩を掴み、顔を埋める。

「(ヴィクトル、本当に覚えていないんだ…。
 僕のコーチになったことも、一緒に作ったプログラムも、お守りの指輪も…何もかも…。

 ………嫌だ…。苦しい…。

 …会いたいよ…ヴィクトル…)」


いつまでも戻ってこない勇利を心配したチェレスティーノとピチットが探しに来るまで、勇利はそこで泣き続けていた。



────



勇利が泣いている頃、勇利の背中を何も言えずに見送ったヴィクトルは、もやりとした気持ちのままでいた。
先程まで笑顔だった優勝者が不満そうな顔をしているのを見て、銀メダルを獲得したクリスは何事かと苦笑してヴィクトルに声をかけた。
「そんな不満そうな顔してどうしたの?」
「…ねぇ、クリス。俺、勇利に嫌われるようなことしたかな?」

思いがけない返答にクリスは一度瞬きすると、大会直前の勇利との会話を思い出して、あぁ、と息を漏らした。
「…というより、勇利はキミの大ファンだから、驚きすぎて逃げちゃったんじゃないの?」
「えぇ?!俺のファン?!…んー…日本人って奥ゆかしいっていうか…うーん…」
自分のファン、ということに盛大に驚いていたヴィクトルだが、それでも勇利の先程の態度に首を傾げてしまう。

「(ファン、という割には、俺のことを辛そうな目で見ていたんだよな…)」

胸の奥でちりりと何か痛む様な気がして、ヴィクトルは胸に手を当てると、深々とため息を吐いた。



────────────




一度目の人生とは違い、勇利は20歳の世界選手権で表彰台に登った。
翌シーズンも、その次のシーズンも、勇利は表彰台に登り続けた。

ヴィクトルの温もりを忘れぬよう、リンクに立つ時は彼のためだけに滑ると心に決めて、勇利はリンクを舞い続けた。
一度目には無かった、誰かのために滑るという揺るぎない信念を持った勇利の演技は、大きく安定した。

優勝は相変わらずヴィクトルであることに変わりないが、クリスと勇利が二位を取り合うことが当たり前になっていた。

一度目の人生では中々帰ろうとしなかった実家にはオフシーズン毎に戻り、愛犬のヴィっちゃんと戯れては家族や地元への愛を再確認した。
西郡家が経営する『アイスキャッスルはせつ』に赴いた時は、ヴィクトルとの思い出が大きすぎて、泣き出しそうになったことは勇利だけの秘密だ。

明らかに一度目とは違う歴史を歩んでいることで、何かが変わる可能性もあったが、それでも勇利はただただ未来だけを見つめていた。

「(23歳のグランプリシリーズ。
 あの年に、ヴィクトルと作ったあのプログラムで優勝する。
 それだけを考える)」

そのために勇利は音大の女の子に早い段階でオファーを出し、フリープログラム「YURI on ICE」の作曲をお願いした。
出来上がった作品は紛れも無くあの曲で、聞いた瞬間に涙が流れるのを止めることが出来なかった。

それからもう一つ。
ショートプログラム「愛について―エロス―」。
ヴィクトルは前シーズンから練習していたとユリオは言っていた。
下手をすると構成まで完全にヴィクトルと被る可能性があり、勇利は先手を打つために、シーズン中にも関わらず、来季滑るプログラムがそれであることをメディアに露見させた。

「(ヴィクトルが見なかったとしても、ユリオもヤコフコーチもいるんだし、誰かが話題に出すだろう…。
 それにユリオは同じ名前の僕のことを意識している節が一回目からあったから、食いついてくるだろうし…)」



────



この勇利の思惑は見事に的中し、ユーリが見せた動画にヴィクトルは目を見開いて驚きを露わにしていた。

「これは…」
「ヴィクトル、どうした?」
珍しく驚いている様子のヴィクトルに、コーチであるヤコフが声をかけた。

「ヤコフ。勇利が滑ってるこのプログラム、来季滑ろうとしてた俺のと同じなんだ…」
「どういうことだ?」
片眉を上げ、ヤコフも携帯を覗き込む。
後ろでは携帯を返せとユーリが騒いでいるが、二人は意に返さず動画を見つめている。

「これ、『愛について―エロス―』だよ。来季ショートで使おうか悩んでいたやつ…」
そう言ってヴィクトルは手早く動画を最初から流し始める。
「あぁ、アガペーと迷っていると言っていたやつか。まぁ、曲が被る位はあるだろう?」
「そうじゃなくて、俺の頭の中で作っていた振り付けとそっくりなんだって!」
「何?どこかメディアに出したのか?」
眉を寄せたヤコフにヴィクトルは首を横に振る。
「まだきちんと滑ってもないよ…。頭の中で組み立ててただけ。
 でも、何でか分かんないけど、本当にそっくりなんだ…。
 勇利の感性って、俺とは全然違うと思ってたんだけどなぁ…」

ここ数年、何度も同じ表彰台に登ってきた勝生勇利。
クリスからの情報で彼が自分のファンであることをヴィクトルは知ってはいるが、彼は何度会っても距離を詰めることなく、少し寂しそうな表情で見上げてくるだけだった。

「ヴィクトルが忘れてるだけで、前に見せたことがあるんじゃねーの?」

ようやく自分の携帯を取り返したユーリがため息混じりに呟いた言葉に、ヴィクトルは目を見開いた。

「忘れてる…?俺が?」

まるで鈍器で頭を殴られた様な衝撃に、ヴィクトルは頭に手を当てた。
元来ヴィクトルは忘れっぽい性分ではあるが、振付たことのないプログラムを勇利に見せることは出来ない。

けれど、忘れているという言葉に、何故かぞくりと悪寒が走った。

「おい、ヴィクトル!俺が優勝したら振り付けくれるって言ったのも忘れてねーだろーな?!」
「…?…そうだっけ?」

「忘れてんじゃねーよ!!」

ゆっくりと首を傾げたヴィクトルにユーリはキレたが、その様子が面白くて、ヴィクトルは声を上げて笑った。

…胸の奥の痛みに気づかない振りをして。




────────────




「ヴィっちゃん…」

過去に戻ってから三回目のグランプリファイナル直前、愛犬であるヴィっちゃんの危篤の連絡が届いた。
一度目ではグランプリファイナルが迫っていることもあり、実家に戻ることも看取ることも出来ず、後悔しか残らなかった。
だからこそ、勇利はコーチの静止を押し退け、実家に戻って愛犬の死を看取った。
しかし、どうにも時間が無く、愛犬の死を満足に悼むことすら出来ぬまま、バレエの先生である美奈子に飛行機に押し込められ、勇利は後ろ髪を引かれながら日本を飛び立ち、そのままグランプリファイナルの舞台に立った。

一度目と同じく精神面はぼろぼろと言っても良い程だっただったが、この舞台だけはヴィクトルではなく、愛犬の弔いのためだけに二日間を滑りきった。
フリープログラムを滑り終わった後、勇利はメディアの取材を受けれる精神状態ではなく、一人静かに涙を流したまま、ぼんやりと床だけを見つめていた。
銅メダルを獲得したものの、表彰式では痛々しく腫らした目元に酷い隈を携えており、勇利のファン以外にも彼を心配する声が方々から寄せられる程だった。


表彰式終了直後、同じ表彰台に登っていたクリスとヴィクトルが覚束無い足取りの勇利を心配顔で見つめていた。

「勇利、大丈夫かい?」
「…クリス…。うん、大丈夫…ちょっと寝てないだけ…」
「いや…えーと…」

珍しく困り顔のクリスに、勇利は一言謝罪をして、ふらふらと近くのパイプイスに座り込んだ。

「…ヴィっちゃん…」
別れは、何度経験しても慣れるものではないと、勇利は静かに涙を零す。
一度目はこんなに風に泣かなかったのになぁ、と少し場違いなことを考えながら、勇利はそのまま意識を手放した。

イスから崩れ落ちる様に意識を失った勇利を抱きとめたのは、クリスではなく、ヴィクトルだった。

「勇利は頑張ったよ。きっとあの子も分かってる…」
勇利の背中を優しく撫で、あやす様に軽く叩く。

ゆっくりと勇利を抱き抱えると、ヴィクトルは歩き出した。

「ちょっとヴィクトル、どこに連れていくの?」
「え?…あぁ、そうか。本当だ。どうしようか?」

本当にどこに連れていこうとしていたんだ。
そんな言葉を飲み込んで、きょとんとしているヴィクトルにクリスはため息を吐いた。

「とりあえずそこのイスに寝かせて、勇利のコーチを探してくるから」
「あぁ、うん」
これではどちらが年上か分からないなと頭を掻きなぎら、クリスは歩き出した。

クリスに言われた通りに並んでいるパイプイスに勇利を仰向けに寝かすと、ヴィクトルは勇利の頭を軽く撫でた。

「…何でだろうね。君の泣き顔を見たら、傍にいなくちゃって思ったよ…。
 泣かれるとどうしていいか分からないから苦手だったんだけど…。
 …変だな、本当に…」

ヴィクトルもパイプイスに腰掛け、勇利を見下ろした。
眉間にしわを寄せたまま、苦しそうに呻いていた勇利は、器用にもイスの上で寝返りをうった。
横になったことにより、ヴィクトルには勇利の横顔しか見ることが出来ないが、赤く腫れた瞼からまた一つ涙が流れ落ちるのをヴィクトルは見てしまった。

「(大丈夫。傍にいるよ)」
言い聞かせる様に、ヴィクトルは勇利の背中を撫でてやる。
チェレスティーノがクリスに連れられてやって来るまで、ヴィクトルは勇利の背中を優しくあやしていた。



────────────



「世界選手権が終わったら、拠点を日本にしたい、だと?」
「はい」
世界選手権まであと一週間。
勇利はコーチであるチェレスティーノの部屋を訪れ、お願い…いや、決意を示していた。

「勿論、デトロイトでの練習を否定しているわけじゃありません。
 けど、次のシーズンのプログラムは、あそこでしか完成しないと思っています」

「…分かった。行ってこい」

思いがけずあっさりと頷かれ、勇利は虚をつかれて、首を傾げてしまう。

「お前にとってそれが大事だというのであれば、そうするのが良いだろう。
 特にお前は頑固で、負けず嫌いだ。私が反対しても行くのだろう?」

チェレスティーノの言う通り、勇利は反対されたとしても、長谷津に戻るつもりでいた。
最悪、コーチとの関係を解消されても、押し切っただろう。

「…はい。そのつもり、でした」

「なら、行け。
 お前が望むように、ラストシーズンの自分の演技を作り上げろ」

「…え?」

勇利は驚き、目を見開いた。
何故なら、来季をラストシーズンにすると、チェレスティーノにはまだ話していなかったからだ。

勇利を見つめたまま、チェレスティーノは寂しそうに微笑む。

「私はお前のコーチだぞ?それくらいは分かる。
 三年前のあの日にお前が何かを抱えたことも、薬指につけている指輪も、祈る様に滑っていたことも、全てはお前のスケートに繋がっていた。

 大会が終わってもモチベーションが下がらないのは、お前が目指している大会はまだ先にあったからだ。
 …お前が目指しているのは、来年のグランプリシリーズなのだろう?」

「…全部、お見通しなんですね」
勇利は苦笑して視線を逸らした。

「まぁな。
 もう遠の昔から、私がお前に教えるられることはほとんど無かった。
 コーチとは、名ばかりで、お前は見えない誰かを師として滑っていると感じていたよ。
 今日、お前から話があると言われた時は、コーチ解消の話かと思った程だ」

苦笑して首を横に緩く振ったチェレスティーノに、勇利はどきりと肩を震わせる。
確かに、演技のイメージを組み立てる時、ヴィクトルなら何と言うだろうと勇利は何度も思案していた。
ジャンプとて、ヴィクトルに習ったものが多い。

ある種、これはコーチであるチェレスティーノに対する裏切りであったのかもしれない。

「それでも、お前は私の生徒だ。
 お前の最後のシーズンに、私が帯同していいのであれば、最後まで見守らせてくれ」

元々眼力の強いチェレスティーノに真っ直ぐに見つめられ、勇利は一瞬固まったが、すぐに背筋を伸ばし深々と頭を下げた。

「…よろしく、お願いします」


勇利はチェレスティーノに師事したことを、深く、深く誇りに思った。



────────────



二度目の人生の三度目の世界選手権。
勇利にとって、この大会はある種、特別なものだった。

ヴィクトルがフリーで滑るプログラム『アリア 離れずにそばにいて』。

一度目の人生では長谷津のスケートリンクで真似をして滑り、ヴィクトルをコーチに迎えるきっかけとなったプログラム。

思い出深いこのプログラムを、勇利はデトロイトのリンクで人目につかない深夜に一人で何度も滑ってきた。
…理由はたった一つ、忘れないために。

彼に記憶がなかったとしても、あれがヴィクトルのプログラムであることに変わりなく、最後くらい生で見たいと勇利は密かに願っていた。


「…やっぱり、綺麗だな…」

一度目と同じ衣装、同じ振り付け、同じ演技。
美しく舞うかつての師に、勇利は微笑みを向けた。

ヴィクトルの演技が終了すれば、会場はスタンディングオベーションに包まれた。
自国での大会なのにまるで海外の会場のようだと苦笑して、勇利はリンクに入った。
くしくも、勇利の滑走はヴィクトルのすぐ後だった。
彼のプログラムを完全に見ることが出来る幸運な位置ではあったが、このスタンディングオベーションの後に滑るのは普通の選手ならやりづらいことこの上ない。

右手の薬指に無意識に触れ、勇利は一つ頷いた。

「(まぁ、僕はアウェーの方がやりやすいんだけどね)」

完璧な演技をした勇利だったが、ヴィクトルにはあと一歩届かず、準優勝に収まった。

嬉しさと僅かな安堵を胸に、勇利はヴィクトルに話しかけた。

二度目の人生が始まってから、話すことは数回あったが、勇利から話しかけたことは一度もない。
だからなのか、ヴィクトルは目を見開いて驚きを顕にした。

「珍しいね、君から話しかけてくるなんて…」
「次のシーズン、僕は全力を持って滑ります。
 必ず、あなたを超えてみせる」
勇利の挑発的な言葉に、ヴィクトルの唇が綺麗な弧を描いた。

「良いね。そういうの大好きだよ。
 だけど、俺は君の上を行く。勇利には負けないよ」

闘志を秘めた視線が混ざり合い、辺りは異様な緊張感に包まれたが、二人が背を向けて歩き出したことにより、それを見ていた関係者達は安堵の息を吐いた。


「(僕は、今度こそヴィクトルの創造を超えてみせる)」




────────────



勝生勇利23歳のグランプリシリーズは一度目の人生と同じ中国大会、そして、一度目とは違うフランス大会の出場が決まった。
他の選手達は、今季にヴィクトルが出場していることで、勇利の知る一度目とは多少違うアサインが出されている。

勇利が出場する中国大会には、同門のピチット・チュラノンとロシアのユーリ・プリセツキーが、フランス大会では、フランスのクリストフ・ジャコメッティとロシアのギオルギー・ポポーヴィッチがアサインされた。

一度目の人生とは変わってしまったアサインではあるが、勇利の心はとても落ち着いていた。

「(誰が相手であろうと、僕は優勝を勝ち取るだけだ)」

その信念通り、勇利はどちらの大会も優勝を勝ち取り、グランプリファイナルへと駒を進めた。

大会の中で勇利を驚かせたのは、ユーリ・プリセツキーのプログラムが替わっていたことだ。
ショートプログラムは『愛について〜アガペー〜』であったが、フリープログラムは全く別のものだった。
以前、フリーの振り付けを担当したリリア・バラノフスカヤがいなかったことからも、振り付けは別の人に頼んだということなのだろう。
だが、一番の差異は、ユーリのモチベーションの低さだ。
一度目の人生では、ユーリは体力の限界を超える滑りを見せ、観客を圧倒したが、中国大会で見せたユーリの滑りは、それなり、という程度のものだった。
技術も才能もあるが、努力を怠ったのだと勇利には目に見えて分かった。

「(ヴィクトルが傍にいることで、敵が見えなくなったのか…?)」

ユーリに対してある種の親心のような感情を抱いていたからこそ、その演技に納得がいかず、大会が終わったすぐあとにユーリに声をかけた。

「君の中にいた眠れぬ獅子は、どこに行ってしまったの?」

と。

ユーリの性格上、表彰台にすら登れなかった彼に下手な応援はただキレさせるだけで逆効果になる可能性もある。
だからこそ、敢えてそう伝えた。

一度目ならただ、頑張れと伝えただけに留まっただろうが、勇利も二度目の人生を歩み、そちらの方が効果があるだろうと判断した。
ロシア大会に出場したユーリはヴィクトルに次ぐ二位を勝ち取ったことから、多少は力になれたのだろうかと勇利は人知れずほくそ笑んだのだった。



────



フランス大会では、長いことしのぎを削ってきたクリスとの真っ向勝負になったが、結果的に勇利が優勝をもぎ取った。
とはいえ、二人共完全なコンディションで滑った訳では無いというのは、お互いに分かっていた。
また、この大会で二人共グランプリファイナルへの進出を確定させたため、次こそは全力で戦おうと、お互いを讃え合い背を向けた。

それからもう一つ。
表彰式の後、勇利はフランス大会三位を収めたギオルギー・ポポーヴィッチに声をかけられた。
一度目の人生では殆ど関わりが無かったために驚いたが、彼の紳士な眼差しに勇利は背筋を正して彼の言葉を待った。

「君の滑り…プログラムは、失ってしまった愛と諦めない信念が垣間見えた。
 だが、君はその愛を取り戻そうとはしていない。
 …ユウリ・カツキ、君は何を想って滑っているんだ?」

ギオルギーのスケートを見れていれば、彼の感受性が人並外れていることは誰の目にも明らかではあった。
けれど、他人のプログラムでそこまで感じ取れると思っていなかったため、勇利は驚きに目を見開いてしまう。

「(何を想って滑っているのか…ね…)」

勇利は小さく笑って、そして真っ直ぐにギオルギーを見上げた。

「…。…僕は、その愛に応えるために滑っています」
「…愛に、応えるため…」

その答えに納得してくれたのかは分からない。
けれど、彼は少し辛そうな表情を見せた後、静かにお礼を述べて立ち去った。



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グランプリファイナル当日。

一度目の人生では今日を迎えることは、出来なかった。
今を生きているヴィクトルが事故に巻き込まれないかと少し不安に思っていたが、会場入りした時に元気な姿を見せており、勇利は人知れず安堵の息を吐いた。

結局のところ、グランプリファイナルに残ったのは、
ロシアのヴィクトル・ニキフォロフ
フランスのクリストフ・ジャコメッティ
タイのピチット・チュラノン
カザフスタンのオタベック・アルティン
カナダのジャン・ジャック・ルロワ
そして、日本の勝生勇利。

ユーリ・プリセツキーはファイナルに残ることは無かった。
けれど、彼のことだ。
来年は死に物狂いで優勝を狙ってくるだろう。



勇利は静かに息を吐いた。

「…ようやく、辿り着いた…」

会場の中は既に異様な熱気で包まれていたが、勇利は自身の中に沸き起こる静かな闘志に微笑みを称えた。
前の選手が演技を終えたのを確認すると、勇利はリンクへと滑り出した。

ポジション確認を簡単に済ませ、コーチのチェレスティーノの前に立つ。
チェレスティーノは静かに微笑んでおり、勇利の顔を見て一つ頷いた。

「私から言うことは何も無い。…お前らしく滑ってこい」
「はい」

一言頷き、勇利はリンクの中央へと滑り出した。

ショートとフリー、あと二回滑れば、全てが終わる。
終わってしまうことへの物悲しさはあるが、だからといって気落ちしている訳では無い。

最後だからこそ、最高の演技をしたい。

…もしも、どこかで彼が見ているのであれば、自分の最高の演技を見せたいから。

『勇利、カツ丼や美女で俺を誘惑するのは終わりだ。
 もう勇利自身の魅力で戦える』

「…分かってる。だから、目を離さないで…」

褪せぬ記憶の中で微笑む彼に、挑戦的な瞳を向けてやる。


ショートプログラム「愛について〜エロス〜」


勇利が滑る一挙一動に、会場全員が魅了されて息を飲む。
勇利の演技が終わりを迎えると、会場からは惜しみない拍手と歓声が沸き起こった。

それでも、勇利のショートプログラムの結果は二位。
一位はヴィクトルが掴み取っていた。



翌日、決着の舞台。

フリープログラムを次々と選手達が滑って行く。
ヴィクトル・ニキフォロフの後、最終滑走に勇利は滑る。

待っている間、勇利は目を瞑って静かに精神を高めていく。

勇利は一度目の人生をゆっくりと思い出していた。

ヴィクトルに憧れていた幼少期、
友達を作るのはどうにも苦手だったが、スケートだけは楽しかったこと。
スケートの強化選手に選ばれ、本気で勝負するためにデトロイトへ拠点を移したこと。

「勇利、そろそろ出番だぞ」

チェレスティーノに声をかけられ、すっと目を開いた。
リンク脇へと歩を進めてリンクを見れば、ヴィクトルが華やかに演目を披露している。
何度見ても美しいスケートだと勇利は微笑む。

また、勇利は昔を思い出していく。
愛犬であるヴィっちゃんが死んだこと。
グランプリファイナルでボロ負けしたこと。
突如現れたヴィクトルが急にコーチになったこと。
ユリオと温泉オンアイスで勝負したこと。
ヴィクトルと共に歩んだグランプリシリーズ…。

ヴィクトルの、演技が終わり、会場はスタンディングオベーションに包まれた。
勇利はその中へと滑り出す。

『勇利』

今でも、優しく語らいかける彼の声が耳に残っている。
未練がないとは言えないが、勇利はもう昔に戻るつもりは毛頭ない。
戻ってしまえば、確実に彼を失うことになる。

そう思えば、今の元気な姿が見れるだけで、勇利は幸せだった。

それでもここで優勝する。
それが、彼との愛の証だから。


フリープログラム「YURI on ICE」


「(二度目の人生を始めた当初は、不安でたまらなかった。
 手にしていた全てが零れてしまったようで、すくい上げることすら出来ない…。
 世界選手権で、ヴィクトルの記憶が無いことが分かり絶望に襲われた。

 けれど、彼からもらってきた愛を思い出せば思い出すほどに、僕の心は決意していく)」

演技しながら、勇利は二つの人生を見つめていた。
ヴィクトルと歩んだ、一度目の人生。
ヴィクトルに並んだ、二度目の人生。

今の勇利には、どちらも大切であり、愛おしいとさえ思える。

愛を知らなかった自分が嘘のように、全てを愛し、受け入れている。

出来ることならば、この愛をあなたに受け取ってほしい。

「…ヴィクトル……」


勇利の演技が終わる前から、観客達は立ち上がり歓声を上げていた。
曲が終了すると、更に大きな歓声と拍手が沸き起こり、会場が揺れているように錯覚する程だった。

キス&クライで点数を待っている間、小さなざわめきが起きたのを感じたが、勇利はもう全てが終わったのだという満足感と幸福感で胸がいっぱいだった。

点数は歴代最高得点を叩きだし、ヴィクトル・ニキフォロフを超える、完全なる優勝をもぎ取ったのだった。

「(ヴィクトル。僕、良かったでしょう?
 約束だった金メダルだよ。
 隣にあなたがいないのが少なからず残念だけど、どこかで、見てくれているよね…)」

心の中でヴィクトルに語りかけ終わると、勇利は立ち上がった。

観客達に大きく手を振り、この光景も最後だと思うとじわりと涙が滲んでくる。


「…利っ、勇利っ!!」


知った声が、勇利の名を呼んだ。

「…ヴィクトル?」

そこに立っていたのは、ヴィクトル・ニキフォロフだった。
息を切らし、色男も台無しの泣き顔で、勇利の名を呼んで駆け寄ってきた。

「優勝おめでとう!」

そう叫ぶと、ヴィクトルは勇利に思いっきり抱きついた。
久しく感じていなかったヴィクトルの温もりと匂いに、勇利は不覚にも泣きそうになるのを必死に堪える。

「とても、素晴らしかった…!
 今まで見た中で一番…いや、きっと生涯見る中で一番だ!
 本当に、美しかった…」
「…ありがとう、ございます」

日本人特有の模範的な言葉しか出てこないけれど、勇利は心の底から笑っていた。
ここにいる彼が自分の知るヴィクトルでなくても、こんな風に喜んでくれる。
それだけで充分だった。


「文句も説教もない!間違いなく勇利が優勝だ。

 だから、




 カツ丼、一緒に食べよう!」




勇利は耳を疑った。

彼は今、何と言っただろう?

「約束、だったろう?
 勝ったら一緒にカツ丼を食べるって、そう約束したからね」

嗚呼、聞き間違いなどでは無かった。

「どうして…?」

「勇利のフリープログラムを見て、ようやく思い出したよ。
 ごめんね、勇利。俺、忘れっぽくて…。思い出すのに、とても時間がかかってしまった…。
 けど、ちゃんと思い出したよ。
 師として隣にいられなかったことは悔しいし、勇利に申し訳ないけど…。
 でも、勇利の優勝を、準優勝という隣で見れること、俺は誇りに思う」

ヴィクトルはようやく、抱きしめていた腕を緩め、勇利の顔を見つめた。
二人共既に涙でぐしゃぐしゃだったけれど、お互いに目を見つめあってしまえば、再びぼろぼろと涙が零れてきて止めることすら出来ない。


「…ヴィクトル……おかえりなさい」
「うん……ただいま…」


そこから、二人してわんわんと子供の様に泣き出してしまい、関係者に無理やり引きづられながら、会場を後にした。

何となく事情掴んでいたチェレスティーノは、「お前らの好きなようにしろ」と呆れたように笑い、ピチットは勇利に「良かったね」と声をかけた。
ピチットも何かを感づいていたらしく、二人を見て幸せそうに微笑んでいた。

クリスからは、後で説明してもらうからね、とキレ気味に告げられ、オタベックからは「おめでとう」と一言だけ告げられた。


優勝者と準優勝者の大号泣の末の表彰式というのは、少しシュールではあったが、会場からは暖かく惜しみない拍手が送られた。



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その夜、お互い部屋に戻ったものの、如何せん寝付けず、結局同じベッドに二人で横になった。
手を握れば、お互いの薬指には金色の指輪が嵌められている。

「あれ?…ヴィクトル、その指輪…」
「部屋に帰ったら、机の上に置いてあったんだ。昨日まで無かったのにね」
「…そっか」
「…」

「「…ぷっ、あははっ!!」」

こうして普通に話していることすら、なんだかおかしくなって二人は盛大に笑った。





数日後、日本の勇利の実家にて、ヴィクトルと勇利が一緒にカツ丼を食べる姿が目撃されることとなる。









end









―あとがき―

11話前に出せたー!!

逆行って夢があるけど、やっぱりハッピーエンドが好きなので、こういう感じで。
ついつい王道からは離れがちな性癖を持っているのですが、ヴィク勇は一つくらい書いておきたかったの。

ちなみにピチット君は、勇利が夜な夜な一人で滑っている姿を目撃しており、そのプログラムが、まだ発表されていなかった「離れずにそばにいて」だと気づいています。
このため、勇利が何か普通と違うと分かっていますが、勇利が幸せならそれで良いのだと思っています。
これも一つの愛なんだろう。

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あきゅろす。
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