お話 原作寄り
陽気な午後の肉体美(スクツナザン)
目の前にある重厚な扉をコココーン!とリズミカルにノックをしたはいいが、大変困ったことに返事が返って来なかった。
うーんと首を傾げ、耳を澄ましてしばし待つ。
しかし扉の向こう側はいつまでたっても沈黙している。
うん。綱吉はひとつ頷いた。
何時ものことなので、特に気にせず入ってしまおう。
「こんにちはー、書類のサインを頂きにきました……あり?」
用向きを言い終える前に、疑問符を付けた声が口から漏れた。
勢いよく扉を開けた先には人っ子一人いなかったのである。
「……ええ?」
ここはボンゴレ独立暗殺部隊のアジト。そこの頂点に君臨する男──ザンザスの仕事部屋である。一般的には執務室と呼ばれる場だ。あくまでも一般的に。
しかし、生憎この部屋の主であるザンザスの右手には、ペンよりもウイスキーグラスが握られていることの方が多い。故に仕事詰めの綱吉は、ここを訪れる度に世の不条理を嘆き、据わった目で訴えるのである。
曰く、てめえ真昼間から何酒飲んでんだオレにも寄越せこんちくしょうが、だ。
斯く言う今回も、忙しい仕事の合間を縫い、たった一筆のサインを貰いに来たのだが、腹立たしことに部屋の中はもぬけの殻だった。
「いないとか…目の前で酒飲まれるより腹立つんだけど」
怨嗟の籠った声が部屋に響く。
こちとら、あの物臭男がうっかり忘れたサインのせいで、貴重な休憩時間を削ってやって来たというのに、ひどい仕打ちである。
ついでに休憩がてら一杯ご馳走になる目論見も外れてしまった。
「ちくしょー、どこ行きやがったアイツ」
今の時間は午後三時。暗殺部隊の活動時間には大分早い。
部屋の真ん中で仁王立ちをし、周囲を睥睨する。
そして真実、何の生物の気配も感じられないことを確認すると、深々と息を吐き出してからくるりと踵を返した。
行き先を変更するためである。どこかって?
もちろん決まっている。困ったとき、そんなとき──役に立つのが。
「作戦隊長さーん、いらっしゃいますー?」
何を隠そう、暗殺部隊のナンバーツー。スペルビ・スクアーロ作戦隊長であった。ちなみにこれは、綱吉だけでなくヴァリアー隊員にとってもごくごく一般的な常識である。
ザンザスの部屋のノックとは違い、マナーに則ったお行儀のよいノックをした後、一歩下がるとそれを見越したかのように外開きの扉が開いた。
「……なんか用かぁ」
ぬっと顔を出したのは件のお役立ち作戦隊長である。しかしその顔は何かを警戒するように険しく歪んでいる。そして何故か上半身は裸である。
「お〜惚れ惚れする腹筋」
「………何か用かって聞いてんだろぉ」
「何でそんな嫌そうな顔してんの」
「胸に手を当ててよーく考えてみろ」
「………………」
「俺の胸じゃねーよ自分の胸に手を当てて考えろっつったんだぁ!」
「アテっ」
頭に拳骨を落とされて視界に一瞬星が飛ぶ。
いてーなチクショウ。ナンバーツーは手を出す速さもナンバーツーか。殴られた所をさすりながら、別の意味に聞こえそうな言い回しを思い浮かべる。もちろんナンバーワンが不在のサボり野郎であることは周知の事実である。
綱吉は頭をさすりながら唇をとんがらせた。
「作戦隊長殿、オレにはそんな嫌そうな顔をされる理由が思い当たりません」
「お前がここに来るときは大抵両肩にトラブル背負ってる時だろうがぁ」
「おま、それ言う?それ言っちゃう?」
深く深くため息を吐きながら言われても、そんなものは知らない。だってそのトラブルの原因がここんちのトップだからね。
「お前んちのボスだろ何とかしろ」
「うぉぉい、善処してんだチクショウが」
「アイツ今どこ?」
「トレーニングルーム」
「うっわ、マジかよクソ」
途端に綱吉の目が据わる。実は綱吉が日夜思っているザンザスこの野郎ポイント≠フ一つに、その鍛え抜かれた体躯が挙げられるのだ。人種の差というのももちろんあるが、それにしたってザンザスと比べると綱吉の体は貧相である。会うたびにコンプレックスを刺激されまくるし、何よりそこを理解して鼻で笑ってくるあの野郎の態度も気に食わない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い状態である。
「普段はぐうたらしてるくせに…」
「プライドは高ぇからな。戦闘面においては自分に厳しいぜ、ボスさんはよ」
「知ってるよ、うるさいな」
もちろんその鍛錬に裏打ちされたボス業であることはわかっているのだ。だからつまり何が言いたいかというと、オレだってガンガン筋トレしてマッチョになりたいのに時間がない。あいつばっかりずるい。という繊細な男心なのであった。
「まあいいや。帰りにジム寄る。ていうかスクアーロはそんな格好で何してたの」
「俺も筋トレだ。あいつが部屋にいる時は誰も使わねーようになってるからなぁ」
「ふーん」
扉の隙間からちらりと中を覗き見ると、重そうなダンベルだったり、何に使うかは分からないがゴツくて硬そうな器具だったりが散乱していた。その中に混じって大きなリュックも置いてある。
「ん?」
綱吉は思わず首をかしげた。何故にリュック?
「どこか旅行にでも行くの?」
「あん?」
「だってリュックが」
「ああ。ありゃ腕立て用の重りだ」
「へー。あれ背負ってやるんだ」
「おお。55、6キロあるぜ」
「え゛っ」
驚いて目の前の男のようなダミ声を発してしまったが、目下、問題はそこではなかった。成人してから背も随分伸びて、体重だって中学時代からは10キロ増えたわけだが、それでも綱吉の体重はあのリュックと同じであった。スクアーロはオレを背中に乗っけながら腕立て出来んのか。男のプライド的な観点から、あまり知りたくはなかった事実である。
「ほ、ほんとにあれ背負ってできるの?」
「ああ?余裕だぁ」
「あ、あんま見栄張んない方がいいよ〜?」
「………」
挙動不審な仕草で下手に煽ってくる綱吉に訝しんだ目を向けるスクアーロであったが、小柄な体の頭からつま先までをジロジロ眺め、やがて小馬鹿にするように鼻で笑った。
「ま、てめーじゃ無理だろうなぁ」
「………」
今度は綱吉が黙る番だった。自然と目蓋が半分ほど下がる。
一応、念の為に言っておくが、けして出来ないとは思わない。ただちょっとキツいかなーと思うだけである。見栄を張っているのが綱吉の方だとか、そんな事実は無いのである。
「普通に出来ますけど?これでも先生に鍛えてもらってるからね」
「ほぉ゛ー、深くは追求しないでおいてやるが、自分の力量を把握するのも強さってもんだぜぇ」
「わーかってるよ!というか、そんなに言うならスクアーロちょっとやって見せてよ」
「いいぞ」
ちょいちょい、と指で招かれたので遠慮なく部屋に侵入する。
試しにリュックを持ち上げてみるが、腕にずっしりくる。流石は50キロオーバー。
「おも…」
思わず呟いた綱吉に、スクアーロはククと喉の奥を震わせた。
「お前と同じくらいじゃねぇか?」
「何それ、ヴァリアークオリティかよ」
「見りゃわかる」
「ぐぬぬ………いーよ、じゃあオレが代わりに乗るからスクアーロは這いつくばりなよ」
「その言い方はやめろぉ」
そう言いつつもちゃんとやってくれる所が、スクアーロの良い奴ポイントである。腕立ての体制になった広い背中に綱吉がちょこんと腰掛けると、間もなく上下運動が始まった。
「うおっ、すげー」
危なげなく上下する体に、綱吉が小さく歓声を上げる。足を浮かせて完全に腰掛けているわけだが、下の体はビクともしない。やはり暗殺部隊の名は伊達ではないということか。
背中の隆起を眺めていると、己のプライド云々の前に、純粋に男として尊敬の念を感じざるを得ない。
やっぱり筋肉って素晴らしい。
「うお゛ッ!?」
「うわー、すげー」
「テメ、どこ触ってやがる!」
「いやだってこの背筋が。あんまりにも美しいから」
「ぐぁ!可笑しな触り方してんじゃねぇぇ!」
「ふっふっふ、いやー素晴らしい筋肉。こことか、あ、ここも」
肩甲骨の窪みから浮き出る筋肉の道筋を辿って指先をつつつーと滑らせればとても良い反応が返ってくる。しかも文句を言うくせに綱吉を振り落とそうとはしない。
そのじゃれあいの許容がちょっと心地良かったり。綱吉はクスクス笑いながら暫くちょっかいを掛け続けた。
しかし何事においてもやり過ぎは禁物である。
綱吉の指先がなんの気なしに脇腹を掠った瞬間、スクアーロの息が詰まった。
「っぐ、」
「あわっ!?」
背中がぐらりと揺れる。それにつられて体勢を崩しつつ、綱吉は内心(ヤバ…)と首を竦めた。ちょっとイイ所に当たってしまったようだ。
これは怒られるぞ〜と思いながらドテーンとひっくり返って……ムギュっと潰れた。
「んっぶ」
「あー…クッソがぁ…」
ダルそうな悪態。それを聞きながら綱吉はもがいた。倒れた拍子に体勢が入れ替わってしまったのだ。重い、そして苦しい。逞しい大胸筋に顔を圧迫されて息ができない。
オイふざけんなコノヤロウ。きれいなお姉さんならいざ知らず、細く見えて実は筋肉隆々の成人男性の胸に顔を埋める趣味は綱吉にはない。
「むぅーーー!!」
「あ?何だ、何も聞こえねーなぁ?」
「むぎーーー!!!」
意地悪そうな声が頭上に降りかかる。
こ、この…!!良い奴ポイント撤回するぞ…!
ムキになって背中をバシバシ叩く。真っ赤な顔で奮闘する綱吉に溜飲を下げたのか、クツクツという低い笑い声とともに、その巨体が退いた。
ふっと軽くなる胸。解放された口で空気をめいっぱい吸い込み、綱吉はすぐ真上にある顔をジロリと睨み上げた。
「危うく窒息しかけたんだけど」
「悪ぃなぁ、チビで見えなかった」
「っだーからチビじゃない…!日本人の平均身長なんだ!オレは!」
「ハ、言ってろぉ」
「ほんとだっつーの!!」
上半身をもたげたスクアーロの下、閉じ込められつつも綱吉は食って掛かる。ギャーギャー言い合う距離は必然的に至近距離となるのだが、残念なことに、そこには甘さもへったくれもないのであった。あくまでもじゃれ合いの延長、少しだけ気心知れているが故の、なんてことは無い日常だ。
――つまり、傍から見た場合、この状況がどのように映るかには、全く考えが及ばないわけで。
空気が、唐突に震えた。
「っ!」
「っ!?」
綱吉が知覚すると同時に、スクアーロの腕が腰に回り、転がるようにその場から飛びのく。その直後、元いた場所にはマンホール大のクレーターが煙を上げながら完成していた。
「な、なっ……」
床に転がったままクレーターの先に視線を滑らせる。目に飛び込んできたのは、開けっ放しの入口と、そこに仁王立ちする、予想通りの人物。
スクアーロと綱吉は、押し倒し、押し倒された状態のまま、その人物――ザンザスに食ってかかった。
「あぶ、あっぶ…!!危ないわこの暴君!!もうちょっとで直撃だったぞこの野郎ー!!!」
「うぉ゛ぉぉい!!!このクソボスがぁぁ!!部屋で銃ぶっ放してんじゃねーよ!!」
「うるせぇカスども」
ボディラインに沿ったスポーツ用のウェア、首にタオルをかけている。明らかにトレーニング帰りである。綱吉は完全に据わった目でその逞しい体躯を睨みつけた。
「……勤務時間中に優雅に励む筋トレはさぞ楽しかっただろーなぁ」
「あ?」
恨みがましい声にザンザスが肩眉を上げる。そして転がる綱吉を睥睨し、ハッと嘲笑した。
「勤務時間中に部下にセクハラかましてるテメーに言われたかねぇな」
「セ、セクハ……!?」
聞き捨てならん……!!
綱吉は怒りの形相でスクアーロの下から這い出し、そのまま助走を付けて飛んだ。
「健全なるコミュニケーションキィーーック!!」
「ハッ…!」
華麗なる飛び蹴りが決まった――と思いきや、これまた華麗に見切られ、掴まれたのは足首だ。
「くっ」
「遅ぇ、ナマってんな」
「うがーーー!!」
そのまま投げ縄よろしくクルリと頭上で回され、最終的に厳つい肩の上に着地した。担がれたとも言う。
「ぐふぅ……!」
「腹筋もねーのかよ」
「あるわ!!!」
しこたま腹を打ち、悶絶する綱吉の眼前には引き締まった腰、そして尻。
先ほどのスクアーロに負けず劣らずの美しい筋肉である。しかし素晴らしいとは一ミリたりとも思わない。
やっぱり人柄あっての筋肉だよね……!!
「うぉぉい、筋肉に人柄もクソもあるかぁ」
「あれ、オレ口に出してた?」
「こんなペラペラな尻して言えた口か」
「ひんっ!?」
無遠慮に尻を揉みしだかれて思わず情けない声が出る。どっちがセクハラだよ馬鹿野郎……!!
「だいたいお前のサインが足りないせいでここまで来る羽目になったんだぞ!なのにお前いないし!作戦隊長の微かな良心に縋らざるをえなかったオレは無実だ」
「微かな、は余計だぁ」
「フン」
ビタンビタン揺れる綱吉など意に介さず、ザンザスの紅眼がスクアーロを見据えた。
「何だぁ…っぅおお゛!?」
上半身のみ起こしていたスクアーロを、再び灼熱の一閃が襲った。銀糸を舞わせながら間一髪で躱す。コンマ一秒遅かったら頬肉を持っていかれたところだ。
「っだから、部屋で銃をぶっ放すなと……!!」
「手が滑った」
「んなわけあるかぁぁ!!」
「うるせぇ」
「どふっ」
近くに転がっていたダンベルを無造作に投げつけられ、スクアーロは沈んだ。
「あーー!な、なんてことを……!」
「このくらいで死ぬタマか」
「そういう問題じゃないだろ!?この横暴男、妖怪筋肉ダルマー!!」
「…ほお?」
一段低い声で返され綱吉はギクリと固まった。担がれているので顔は見えないが、分かる。どうやら地雷を踏んだらしい。
(今日は厄日か〜!?)
綱吉を担いだ男は、悪辣な表情で口角を持ち上げた。
「そこまで言われたなら存分に味あわせてやらねーとな」
「な…何を…」
「おら、テメーの好きな筋肉だぜ」
「うぐぅっ!?」
男の腰の位置にある綱吉の首に逞しい腕が回る。ギリギリと締め上げられては元も子もない。
「ギ、ギブ…お助け…!」
「丁度いい、その鈍った体叩き直してやる」
「えええええ!?」
「まあゆっくりしてけや」
世界を滅ぼす魔王もかくや、という顔で心底楽しそうに笑う暗殺部隊のボス。某黒衣の死神に勝るとも劣らない地獄のトレーニングが決定した瞬間であった。
綱吉はあんまりな事態に開いた口が塞がらない。
一筆のサインを貰いに来たはずが一体何故こんなことに…!!
「うわーんスクアーロ〜!!」
「ブハッ!無駄だドカスが」
はらはらと涙を流す綱吉をホールドしたまま、ザンザスは高笑いとともに再びトレーニングルームへと消えていった。
***
二人の気配が消えた頃。
ぼんやりと目を開けたスクアーロは、視界が焦点を結ぶと同時に意識を覚醒させ、勢いよく起き上がった。
辺りを見回す。
「…持ってかれたかぁ」
頭をボリボリと掻きながら一つ舌打ちをした。
あくまでもじゃれ合いの延長、少しだけ気心知れているが故の、なんてことは無い日常――などと思っているのが本人だけと知ったら、件のボンゴレ十代目は一体どんな顔をすることやら。
容易に想像ができて、スクアーロは微かに口角を上げた。
「わりぃが、引く気はねぇぞぉ」
綱吉と、そして彼を連れ去った暴力の権化とも言うべき男に呟く。
彼の男に絶対忠誠を誓っている己ではあるが、だからといって負けてやる道理は一切ない。あくまでも忠誠は忠誠、色恋は色恋である。
スクアーロは口元に不敵な笑みを浮かべ、差し入れという名の追加メニューを食らわすべくトレーニングルームへと足を向けるのだった。
男二人の思惑を綱吉が知るのはいつの日か。
陽気でバイオレンスな午後は、今日もゆったりと過ぎてゆく。
←→
[戻る]