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きっと無理だろうな、とは思っていた。足止めは頼んだものの、きっと彼らではティエリアの足止めなど出来ないと分かっていた。だから私は最下層で待っていた。…ここで、彼らの足止めをするために。ティエリアと刹那だけだと思っていたから、そこに見慣れた…それでいてどこか懐かしく感じてしまう顔があって正直驚いた。けれどすぐにそれが私の慕うニールではなく、彼の双子の弟であることを悟る。信じられない、というように目を見開くティエリアに、私は小さく首を横に振った。

「ごめんなさい」

心を決めて、私はストックしていたスペルを一気に解き放つ。一番最初に反応したのは刹那だった。放心状態のティエリアを突き飛ばし、自身もその場から飛びずさる。旅の最中、ずっと刹那に護られていたから分かる。刹那は最初にスペラーであるティエリアを庇うだろう、と。

「ッ!!」

バチィッ、と大きな音がして刹那が事前に張ってあった罠にかかる。痛みはないが、網のように絡み付くそれから逃れることは剣士である刹那にはほぼ不可能だ。一番の懸念であった刹那はもう動けない。手を出し兼ねているイグニスY世にも間髪入れずに同じ術を掛ける。ティエリアにだけはどうせ掛けても無駄なので掛けなかった。

「***…本気か」
「…はい」

立ち竦んだまま私を見るティエリアに、私はゆっくりと頷く。

「独りで行きます。…私はもう、誰も失いたくない。貴方も、刹那も、…彼も」
「…」

ティエリアはしばらく考え込むように眉を寄せた後、ゆっくりと視線を足もとに落とした。それを容認と受け取った私は、足を踏み出してティエリアの横を通り抜ける。不自然にそびえ立つ白いドア。ドアなんていう現実的な形を持っていることが酷く滑稽に思えたが、これが外界とヘルヘイムを繋ぐ門だった。扉が白いせいで、いっそ黒く見える銀色のドアノブに手を伸ばす。ぱしり、とそれを白い手に止められた。

「!」

瞬間、腕を引かれて無理矢理振り向かされたと思うと、パンッ、と甲高い音が響いて僅かに視界が揺れた。何が起こったのか理解できないまま動きを止めていると、じわりと左の頬が熱を持ったように痛む。そこまで行って初めて、ティエリアに頬を叩かれたのだと知った。

「…」

初めて…ティエリアに叩かれた。いや、初めてというのは正確ではない。彼には一度、私を正気付かせるために叩かれたことがある。それでも初めて、と思ったのは…こうしてまっすぐ私を見ながら叩かれただろうか。目の前のティエリアは初めて見る瞳の色で私を見ている。

「…勝手なことを言うな」
「…」
「お前は俺に言った。お前と共に行くと言った俺を受け入れる、と」

思い起こされるのは、イグドラシルを出るとティエリアに告げた日のことだった。あの夜は厚い雲が空を覆い、空気も少し湿った悪天候だった。日も沈み、空が青から赤、赤から濃紺へと色を変えた時間帯。味もするかどうかさだかでない食事を終えて、食事に混ぜられていた毒のせいで起こる内臓の不快感に耐えながらティエリアの淹れてくれた紅茶を飲んでいた。初めて、カースの発作に見舞われたのが丁度その三日前。初めて味わう絶対的な苦痛の正体をティエリアに聞いた時、私は旅立つことを決意した。

『アルフヘイムに行きます。世界を救うために』

ティエリアは悪魔だった。それは幼い頃から知っていた。普段は角も翼も隠しているが、時たまに見せる姿は私の忌み嫌う悪魔そのもので。私を犯すサタンやそれを見て笑っているリジェネと同じ、けれど、どこか気高く美しいもの。きっとそれはティエリアだからだ。私にとって彼は悪魔である以前に、唯一私の傍で私を気遣ってくれる"友人"であり、"家族"だった。
だからこそ、私は本来なら告げるべきでない言葉を彼に告げた。私の言葉に別段ティエリアは驚いた様子もなく、ただ一言そうかと返しただけだった。お世話になりました、と私が頭を下げるよりも早くティエリアはそっと床に膝をついて私の手を取る。頭を垂れるティエリアは、静かな声音で、私を見ながら呟いた。

『なら、俺も共に行く』

傍にいなくて何が傍仕えだ、と幾度となく告げられた言葉をもう一度繰り返される。私が返す言葉もなく中途半端に口を開いていると、ティエリアは静かに翼を広げた。くるりと丸まった角は、彼の対であるリジェネ・レジェッタと同じ形状をしている。ティエリアは無言のままその角に手を寄せると、パキィン、と美しい音を立てて角を折ってみせた。悪魔にとって角は象徴だと、悪魔に近く存在していたからこそ知っている。折れた角はぼろぼろと崩れ去り、足もとで崩れていく。ティエリアは静かに私を見た。…かつての金色の瞳ではなく、私と同じ、赤い瞳で。

『…はい』

それは悪魔に対する裏切りであり、私に対する忠誠にも似た何かだった。
私は呆然とティエリアを見つめる。そうだ、今の彼の瞳は…あの時まっすぐ私を見た眼によく似ている。

「ニール・ディランディを失ったお前の気持ちなど、俺には想像もつかない。だが、お前が彼と関わって変わったのは分かっているつもりだ」
「…」
「だが、俺は変わらない。お前と共に行くと決めた俺の決意は、揺るがない。…最後までついて行く。そう、決めた」

すっと手が伸ばされる。幾度となく私に触れた手だ。人よりも冷たい、優しい悪魔の手。

「…勝手に、俺を置いて行くな」
「…けれど…私のために、貴方達が失われるかもしれない。もう…誰も、私は…」
「お前が命を捨てる覚悟をしてイグドラシルを出たのと同じだ。俺もその覚悟でお前について行くと決めた」

ぐにゃりと視界が歪む。弱々しく首を横に振って、私は静かに俯いた。ぽたぽたと白い床の上に涙が落ちて黒い染みを作る。私がずっと避けていた、ティエリアの"覚悟"。知っていたはずのそれが、今では全く違う意味を持って私に突きつけられる。それを拒絶したいという願いは強いが、私にはティエリアの覚悟を否定することができなかった。
刹那とイグニスY世にかけていたスペルを解く。静かに私たちを見ていた刹那が、ゆっくりと口を開いて言った。

「ロックオンが護りたいと願った。…俺はその遺志を継ぐ」
「死ぬつもりはねぇよ、生憎な。俺にも、護らなきゃならないものがある。だからここに来た」

数秒俯いて、私は涙を拭う。

(私は…本当にいい人々と巡り合えた…)

ゆっくりと息を吐き出して、私は顔を上げる。まっすぐ私を見る視線を受け止めながら、私は小さく頷いて彼らを見つめ返した。



***



白い扉を抜けた先は、空をどんよりとした厚い雲が覆った薄暗い世界だった。見渡す限りの荒地、肌を舐めるように重く湿気を帯びた空気。ライルと名乗ったイグニスY世も、異世界さながらの(まさしく異世界のわけだけれど)ヘルヘイムに言葉を失っているようだった。

(知っている…)

この重々しい空気を、私は知っている。わずかに眉をよせ、ゆっくりと息を吐き出す。芽生えとは即ち、世界の統合だった。清涼な空気の満ちた外界と、全ての汚濁が詰め込まれたヘルヘイムの統合。ゆっくりと荒野に目を向け、私はある一点へと視線を向ける。

「ライル、あちらへ」

呼ばれている。すぐそばにいるためだろうか、ウェルバの神殿がどこにあるか…手に取るように分かった。ハロは私たちを乗せ、私の示す方角へと進んでいく。

「…、あれ、か…?」

どこか困惑した様子でライルが呟く。それもそうだろう。全体的に暗色の世界の中で、一際明るい色を保つ建物が目の前にあるのだから。美しい様式の神殿は、ところどころ崩れかけているものの本来の姿は保ち、悠然とそびえ立っている。創世の時代から存在するそれに、静かな威圧感を覚えた。

「…」

降り立った神殿で、言葉もなく唖然と立ち尽くす。悪魔の介入がないことにも驚いていたが、それ以上に与えられる威圧感に潰れてしまいそうだった。私の旅の終わり。数秒白い外壁を見上げてから、私はゆっくりとティエリアたちを振り返る。

「…行きましょう」

神殿に足を踏み入れる。泉の地下にあった神殿とはまた違った様式で、外観の崩壊具合からは想像もつかないほど内部は美しく保たれていた。讃美歌のような音楽が耳に届いている。どこへ行けばいいかは、探すまでもなく本能で悟っていた。

「、」

数十分歩き続けた後、天井の高い、大きな広間に出る。外界の祭壇のある場所にも似ていたが、ここがそれと同じでないのはすぐに分かった。

「綺麗だろう?神殿に来た巫女は必ずここを通るようになってる」
「!」

やはり、というべきなのだろうか。彼はそこにいた。白い神殿の中で、黒衣に身を包んだリジェネ・レジェッタはいささか浮いて見える。

「邪魔は、させません。…貴方と戦うことになっても」

刹那が剣を抜き、ライルが弓を構えるのが分かる。リジェネはしばらく無表情で私を見た後、猫のようにしなやかに笑って見せた。その笑みに、僅かに表情が曇る。彼が何か、嫌なことを思いついた時の顔だ。今更何が起こるわけでもないのに、反射的にその笑みを警戒してしまう。

「ねぇ、***。僕は今まで何人君の思い人を殺して来たかな?」

こつ、と靴音を立ててリジェネは役者のようにゆったりと歩き出す。

「初めに殺したのは君に恋した侍女だったね。その次は君を助けようとした枢機卿、その次が君の慕った騎士、その次が君の両親、その次が騎士団長、そしてあの巫女の出来損ない…7人か。案外少なかったね」

指折り数えたリジェネに、顔を歪める。彼にとっては虫けらにも等しい命。けれど、彼はそのどれも忘れることなく覚えていた。私の絶望で色を添えて、鮮明に。

「でも、もう飽きたよね?拷問やレイプと同じ。インパクトが小さいよね」

ぱっ、と振り返ったリジェネは酷く楽しそうに笑っている。下衆が…とライルが小さく吐き捨てるのが分かった。それすらも甘受してリジェネは笑う。

「だから、返してあげるよ」

芝居がかった恭しい動作でリジェネはお辞儀をして見せる。最初は彼が何を言っているのか分からなかった。返す?…何を返すと言うのだろう。失われた命は戻らない。…彼が私から奪ったものは、何一つ戻らないというのに!

『***』

様々な思いが爆発しかけた瞬間、耳に届いた柔らかい"音"にさっと血の気が引いて行く。明瞭な声ではない。むしろ、脳に直接届くような声。よく知っている声だが…ライルではない。たとえ同じ声、同じ姿でも私が彼らを取り違えることなどない。

「…」

信じられない思いでゆっくりと振り返る。そこには静かに佇む懐かしい姿があった。どくん、と心臓が大きく跳ねる。幻か、紛い物か。そうあってほしいという願望もあった。けれど…私が見間違えるはずもない。心臓を握り潰されるような焦燥、私の全てが、あれは私の知るニール・ディランディだと告げている。

「なっ…馬鹿な…!?」
「兄さん?!」

驚きの声を上げる彼らに後押しされるように、私はニールに向かって駆け出していた。その勢いのまま、ぶつかるように抱きつく。幻でも幽霊でもない、確かに触れることができた。私を抱き返す腕の温かさも変わらない。

「ニール…!」

私を見下ろす翡翠の瞳が酷く優しげに細められる。堰を切ったように溢れ出す涙を堪えることはできなかった。ニールはゆっくりと私の髪を、頬を撫でて微笑む。ああ、確かにこの人だ。私が愛し、共に生きたいと願った人…。ニールは微笑みながらぼろぼろと零れる涙を唇で拭って、口付けてくれる。優しい口付け。私に初めて温もりを与えてくれた唇。愛おしい、ひ、と…

「…」

ゆっくりと、目を見開く。呆然とニールを見つめた。彼は嗤う。猫のようなしなやかさで…鋭い牙をその唇から覗かせながら。

「…ニー…ル…」

うそだ…、と心の中で呟く。ニールは微笑みながら、目を閉じて…ゆっくりと瞼を開く。私を見る金色の瞳。ばさっ、と大きく羽ばたく音がして、黒く大きな翼が世界を覆った。緩くウェーブの掛かったハニーブラウンの髪の隙間からまっすぐ天に伸びる長く、黒い角。

『会いたかったぜ、***』

ただ静かに微笑む悪魔は、ウェルバに捧げた声を失くしたまま愛の言葉を囁き、私を極上の絶望へと誘った。




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