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きみのなまえ



きみのなまえ



「あんた、これじゃあ足りないよ」
「嘘っ!?」

昼食時間。
一階の廊下にある購買は、まるで戦場だ。
手のひらに小銭を乗せ、おばさんは首を横に振った。
首に掛けられたエプロンが、とてもよく似合っている。

「十円足りないよ」

購買の鉄壁と呼ばれるほど、お金には厳しい。
比古は緋色の瞳を悔しそうに伏せた。
こう見えて育ち盛りなので、人の倍以上は食べるのだ。
友人たちからしてみれば、ただの“大食い”にしか見えない。

「仕方ないっか……」

諦めた瞬間、隣から小さな手が差し出された。
その手は、おばさんの手のひらに銅貨を一枚落とした。

「はい、十円」
「え?」

比古は右隣へと視線をめぐらせる。
少し長い黒髪を首の後ろでひとつに纏めた少年がそこに立っていた。
にっこりと笑顔で。
その少年の制服には、校章がきちんと留められている。
大抵の生徒は嫌がって、付けていない。
しかし、この少年は頭から足先まで校則通りであった。

「十円足りなかったんだろ?」
「あ、まぁ……」

理解に苦しむ比古を尻目に、少年は自分の注文し始めた。

「俺、苺ミルク」

胸が高鳴るような透き通る声だ。まるで歌のように優しい響き。

「九十円ね」

おばさんは、お金と引き換えにパンを少年に手渡した。
少年は左手でそれを比古に渡して、右手で自分のを手に持った。
少年の後ろには、まだ大勢の生徒が血走った目で順番を待っていた。

「おばさん、ありがと」
「おい、お前っ!」

少年からパンを受け取った比古は不服そうな顔をしていた。
そして、走り出した少年を追った。

「……何?」

肩を掴まれて振り返った少年は不機嫌そうだった。
近くで見ると整った顔立ちで、どこか中性的な見目。
纏う空気はそこだけが、際立って見える。
自分を見る比古に険のある色を黒の瞳に浮かべた。
そこでようやく我に返った比古は、言うべき言葉を見つけ出す。

「え、えっと……ありがと」
「別に……次からは注意した方がいいよ」

少年が指差した方には、密集した生徒たちが押し合いをしている様子がうかがえる。
言い返したくなるような物言いだが、あんな光景を見た後だともっともらしい忠告である。
この場に友達がいたなら、間違いなくそう言うだろう。
思わず俺は、言葉に詰まってしまった。

「待ってる人が困るだろ?」

更に追い討ちをかけられた比古は、我慢の限界まできていた。

「十円返すっ!待ってろ」
「なかったから、こんなことになったんじゃないの?」

少年は、意地になっている比古を更に煽った。

「明日持ってくる!」
「いい、十円くらい……クラス一緒だし」

最初から最後まで、少年は比古を相手にせず、自分のペ―スで話を運んで去っていった。
残され、割り切れない思いを抱えていた。

「同じ、クラス?」

この日、比古は“安倍昌浩”という名前を知った。
それまで他人になんか全然、興味がなかった。
でも、あいつがとても今は気になる。

「安倍昌浩か……」

いつも教室の隅でひとり、本を読んでいる。
しかもその本は決まって陰陽道だとか幽霊だとか、人外の存在について書かれたものだ。
友達と話すこともなく真面目なのかと思えば、授業なんて聞いちゃいない。
安倍は何もしないで、ずっと本とだけ向き合っている。
誰にも心を開かない。
誰の色にも、染まらない。

- * - * -


放課後の教室。
安倍は、いつもすぐには帰らない。

「ねぇ、いつまでそこにいるの?」

頬杖をついて窓の外を眺めていた安倍は言った。
その言葉に俺は少なからず動揺していたに違いない。
何て言ったって、俺は安倍の視界には映らない場所にいるはずなのだから。

「た、たまたま通りかかっただけだ!」

俺は必死に否定の言葉を並べた。
嗚呼、でも俺は自分がどんなに間抜けな顔してるか想像できる。
きっと耳まで真っ赤になっていて、安倍の顔なんか直視できないだろうな。
俺はずっとその場に立ち尽くしていた。
すると安倍は少し間を開けて言った。

「最近、俺のことずっと見てただろ?」

思わぬ一言だった。
そう、俺は自分でも気づかぬうちに安倍のことを目で追っていたんだ。
しばらくの沈黙の後、安倍は形の良い唇を動かした。

「珂神……俺にハマってるだろ?」

嗚呼、そうか。
俺は、自分でも気づかぬうちに安倍にハマっていたのか。

「そうだな、俺はお前にハマってる」

そう言って、距離を縮めた俺は一瞬のうちに安倍の唇を奪っていた。
安倍は拒むこともせず、ただ俺の胸元のシャツをぎゅっと握り締めていた。
僅かに震えている肩を抱き寄せて、深く深く口付けた。
その口付けにふたりは溺れていった。

『……お前も俺にハマってるだろ?』
『そうだよ、俺は珂神にハマってる』



*END



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