キリリク
10
彼らが店内に入ると、店主の妻らしき女性が治療道具を既に準備してくれていた。
水道を借りて傷口の汚れを落とした櫂斗は、言われるままに椅子に座って彼女の手当てを受ける。
櫂斗が手際よく傷口を消毒していく彼女の手を何となく目で追っていると、ふと先ほど自分が確認したのは樂を殴打しようとした男の姿だけだったことに気付いた。
自身が飛び出す前には他にも男たちがいたはずだ。彼らはどうなったのだろうか?
そう思って樂に問いかける。
「樂、さっきは状況を把握するのに精一杯だったんだが、あの倒れていた男以外の人間はどうしたんだ?」
「あぁ、あなたは少し混乱していましたからね。私達が話している間に騒ぎを聞きつけた軍の人間がやって来て連れて行かれましたよ。もちろん暴れていたのとは別の…ね」
櫂斗の隣で手当ての様子を見ていた樂は、微かに笑みを浮かべてそう答えた。
「倒れている彼も今頃運ばれて行ったところだと思いますよ。私たちがここに入るときには担架を準備していましたから」
「あんたらの周囲でも大分と騒がしくしてたけど、それに気付いてなかったとは…。坊っちゃん、大物になるよ」
樂と同じく近くにいた店主もそう言って笑う。
「まったく気付かなかった…」
「あなたはこういう荒事に立ち合うのは初めてですから、自分の周囲が見えなくなるのも仕方ないことですよ」
驚きの表情を浮かべる櫂斗に樂は宥めるような口調でそう返す。
それに対して感心したように樂に声を掛けるのは店主である。
「逆に兄ちゃんの腕は大したモンだったなぁ…。俺たちはもちろん、軍のヤツらまで何が起こったのか分からないって顔してたぜ。坊っちゃんのトコで雇われてなかったら、あの役たたずの警邏隊の代わりにこの辺りの警備を頼みたいくらいだ」
冗談めかして言ってはいるが、少なからずそれは本音なのだろう。彼は残念そうな表情を浮かべていた。
樂はそれに苦笑で答える。
「私はこういうことを仕事にしていますからね。それと、残念ながらこの辺りの警備は出来ませんが、今回の騒動は軍の上部にも伝わったでしょうから、警邏隊に関しては何かしらの変化があるはずですよ」
それを聞いて訝しげな表情を浮かべたのは店主である。
「何でそんなことが言えるんだ?」
「場を納めた軍の人間に顔見知りがいたんですよ。彼は規律に厳しい人間でね。この状況を放っておくような性格じゃありません。あちらも私に気付いていましたから、近い内に事の経緯を聞きにくるでしょう。その時に、この現状を伝えておきますよ」
「それはありがてぇな。兄ちゃん達にはまた改めて礼をさせてもらうよ。また近い内に二人揃って飯食いに来な」
樂の言葉で笑顔を浮かべた店主に、樂も頷いて笑い返す。
「是非寄らせてもらいます。今度はゆっくりと食事をしたいですね」
彼らの会話が終わる頃には櫂斗の手当ても終わり、その日はひとまず帰宅することになった。
以来、樂と櫂斗は度々その店に通って店主とも懇意にしている。あの後の交流で櫂斗の店の存在を知った店主は、今となっては下町のいろいろな話を教えてくれる心強い協力者となっていた。
彼との関わりによって櫂斗自身にもいろいろな変化があったのだが、それはまた別の話である。
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