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つまさき、ソーダ、ワルツ


ここでの私の行動範囲は二つだけ。ツェッドさんと一緒の時は、だいたいこの施設の中心に当たるフロアにいる。
そこのソファに腰かけて、ここ“ライブラ”の人達が忙しそうに出入りを繰り返す様子だったり、コーヒー片手に雑談している様子だったり、デスクワークで書類に追われている様子だったり、あとクラウスさんが観葉植物の森作りに精をだしている様子だったりを見ている。

ツェッドさんが用事や仕事で出て行ってしまう今日みたいな日は、このアクアリウムのような部屋でぼんやりしている。ソファベッドの上でこてんと横になってみたり、タイルの上を一つ飛ばしに歩いてみたり。今日もソファの上で、いっぱいに水を湛えた水槽の中にゆらめく光を眺めていたけれど、彼のいない空っぽのアクアリウムは、何だかとても寂しく見えた。

私をこの部屋に残していく時、いつもツェッドさんは顔一つぶんだけ開いたドアから少し困ったような表情を覗かせては、すみませんと言って扉を閉める。
たぶん、閉じ込めていくみたいで気が引けるんだと思う。私はドアノブに触れはしても動かすことはできない。だから、誰かがドアを開けてくれないと部屋から出られもしない。
でもレオさんがいる時も、私はあの一番広い部屋にいるので、実を言うとこの部屋に一人でいることはそんなに多くなかった。

彼のいない水槽を見上げ、ひとつため息をついた時だ。ノックの音がして、ドアが少し開いた。そこに覗いたのはツェッドさんの顔だった。
今日は帰りが早い。
小走りにかけ寄った私に、ツェッドさんは茶色い封筒を差し出した。
けれど私はそれを受け取れない。
うっかり出してしまった手を引っ込めると、彼は「すみません失念していました」と言って中の紙を取り出してくれた。

「これから公園に行くんですが、一緒に行きますか?」
「…!」

久しぶりの外だ。お誘いにこくこくと何度も頷く。中にいることを苦痛だとは思わなかったけれど、ようやく出られるのだと思うと、やっぱり心が躍った。

「あの…でも良いんですか? 私…」
「ようやくスティーブンさんから許可が下りたんです」

彼が広げて見せてくれた紙には、確かにその旨が書き綴られていた。
まずは色々と調査なりがあったらしい。けれど不可視の――それも分かっているのは外見だけという大きな矛盾を抱えた者を相手に身元調査もなにもない。無駄に時間をかけただけで手掛かりは一つも無かったと聞かされた。

「今日はあまり時間が無いので出るだけですけど、用のない時は僕も手伝いますから、これからは一緒に探しましょう。外でまで一緒なんて息が詰まるかもしれませんが…」
「…そ、そんなことないです。あの、うれしい…です。すごく…」

ぶんぶん首を振れば、彼がふと表情を緩めたように見えた。



「どこに行くんですか?」
「この辺りで一番大きい広場です」

片手に大きなトランクを下げて、彼が訪れたのは大きな池の周りに木々が青々と生い茂る場所だった。そこの噴水前、すでにいっぱいの観客に囲まれて、彼は持ってきたトランクを開いた。

他の人に見えないのを良い事に、私は彼の隣という特等席で膝を抱えその様子を見守る。
何が始まるのかとどきどきしながらその時を待っていると、トランクから出てきたのは真っ白な…。
真っ白な、なんだろう…。
大きなツェッドさんの手の中、蝶ネクタイの形にカットされた紙が巨大ミルフィーユみたいに分厚く積み上げてある。両端を押さえていた指が離れると、それは音もなくふわりと浮きあがった。

――――あ

「ちょうちょ…」

無数の蝶が、柔らかな日差しの中を舞う。
命を吹き込まれたように、羽がひらめき、紙を透かした薄い光が、ゆっくり瞬きをするみたいに午後の公園に降り注いだ。

ただ目をいっぱいに開いて、息を呑むしかない。
喉の奥にむずむずしたものが湧きあがり、ふと見てみればどの人も同じように口を開けその光景にただ魅入られていた。
終わってしまうと、意識まで蝶と一緒に高く舞い上げたようになっていた人達が、我に返ったようにツェッドさんの前に詰め寄せた。見る見るうちにトランクが投げ込まれたお金でいっぱいになっていく。その勢いに気押されながら、私は両手で口を覆ったまま動けずにいた。未だ頭の芯を痺れさせる余韻に、何だか上手くものが考えられない。

人がすっかり引いてしまってから、ツェッドさんが振り返る。
待ってましたとばかり、弾かれたように私は立ち上がった。

「すごいです…!すごくきれいです…!あの、きらきらが…、いっぱいきらきらしてて…っ」

握り締めた拳をぶんぶんと上下に振る。
頭の奥が熱い。その熱に浮かされたように口が空回る。
蝶は白一色だったはずなのに、もっともっとたくさんの光に溢れて見えた。

言葉にならない。こんな、こんな想いを現す言葉を、私は知らない。
形を見つけられなかった気持ちは、微かなため息に変わって唇から零れ落ちる。

「………私。きっとこんなにきれいなの、初めて見ました…」

堰を切って溢れだした想いの、最後の一滴が吐息に混じると、ふっと彼がその眦を柔らかく緩ませた。

「僕も、そんなに興奮する貴女は初めて見ました」

だって…

「あんまりにも、すてきで…」

温度の無い頬が熱くなった気がして、隠すように両手で覆った。
この気持ちを、もっとうまく伝えられたらいいのに。
吐きだせない思いが塊になって胸に支えるようで、ほんの少し苦しくなる。

「あの、どうやったんですか?さっき…ちょうちょが飛んだの」

あぁと彼は空中へ目を向ける。

「あれは風です」
「風?」

そうだったんだ。全然気付かなかった…。

「――あ…そっか。私、風が吹いても分からないんですね」

靡きもしない自分の髪に触れる。そういえば、冷たいだとか暑さや寒さもまったく感じていなかった。
食べられもしないし、そもそもお腹も空かない。眠れるけど、眠たいとは思わない。風や床の冷たさも、陽の温かさも分からない。
生きてる実感。そんなものを全部どこかに落としてきたんだなぁと、ぼんやり思う。

「………ちょっと待って下さい」

ごそごそとやって、差し出された彼の手の上には紙の蝶が数枚のっていた。
何かと見つめる私の目と鼻の先で、命を吹き込まれた蝶がふわりと羽ばたいた。

「――わぁ…っ」

意志を持ったみたいにその薄い翅をひらめかせ、ここじゃないどこかへ。
間近で見たその様子が、本当に、本当にきれいで。

「魔法みたい…」
「魔法…ですか」
「あ、はい。こう、ぶわーっとなってふわぁって…」
「………」
「………あはは…」

全然…伝わらないや…。
苦笑いをしたと同時に傍でちゃりんと音がした。顔を上げれば杖をついたお爺さんが小銭を投げ入れたところだった。
思わずツェッドさんを見ると、丁度その視線がこちらを向く。小さく笑えば、彼も同じように笑ったのが分かった。

ツェッドさんが口にしたお礼に、お爺さんは頷くでもなく、ゆっくりゆっくりと歩いて行った。途中で、その頭がぱっくり割れたと思うと、飛んできた小鳥大の羽虫みたいなものを一呑みにしては、また何のへんてつもないお爺さんに戻って去っていく。
遠ざかるその背を見送り、ツェッドさんが言う。

「良かったです。喜んでもらえたみたいで」

お爺さんのことかと思ったけれど、彼の目は私を見ていた。

「ずっと籠っていると、…こう」

言い澱む彼が首を傾げるから、つられて同じ方向に首を傾げる。

「自分の輪郭がぼやけてくるというか。不確かになってくる気がして」

輪郭…。呟いて自分の身体を見下せば、彼は「いえ」と手を振った。

「貴女がどうとかではなく、僕の感覚としてなんですが」
「……はい。分かります、たぶん」

自分が薄らいでいくような。本当にここにいるのか分からなくなるような。

「ありがとうございます」

伝えると、彼は少し驚いたような顔の後、とても優しい顔をした。




部屋に戻るなりかかった本日二度目の召集に慌てて出て行ってしまったツェッドさんを見送って、私はぽつんと扉の前に立ち尽くしていた。
彼のいない空っぽのアクアリウム。
静かでひんやりした、彼のためだけの部屋。
誰もいないのを良いことに、部屋の中で一人、靴の踵でタイルを叩いてみた。
音はしない。でもきちんと跳ね返る。
つま先、踵。打ちつけては、かつり、かつりと、鳴らない音を数える。
自然と曲が頭の中で流れ出す。名前も、歌詞があるのかも分からないけれど、知っているらしい曲。ほんのちょっと、遠慮がちなステップを踏み、くるりと回ってみれば、スカートの裾が風をはらんだように広がった。

…今日は、いい日。

そう思うと頬が緩んで、ついにやけてしまう。
スカートの裾をつまみ上げ、またくるりと身を返してみる。柔らかく膨らむ生地は、風に揺れる花弁に似ていた。





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