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「茜ー?」

はっと顔を上げれば恵理子のふくれっ面がそこにあった。

「もー、また聞いてなかったの?」

言って恵理子は唇を尖らせる。

「ごめん。何だっけ、昨日のドラマの話?」
「それとっくに終わった。今は今日の体育の話」
「そ…だよね…。ごめん…」
「それも何回目よ」

確かに、今日だけでもう何回この顔をさせているか。
気にしないようにと思えば思う程、ポケットの中のあの紙を意識してしまう。
また重ねそうになったごめんねを呑み込んで苦笑いにすり替えた。
恵理子にも、千春にも。いい加減言わなきゃって思ってたのが、余計に言いにくくなっていく。夏休みの宿題と同じだ。リミットは必ずあるし、ずるずるいっても良いことなんて一つも無いってことも、分かってるけど。
けど、でも。言い訳ばかりが胸を埋め尽くしていく。

二人が交わす目配せ一つですら、あたしは怖くてたまらない。




放課後、ようやく仁王を掴まえ紙を見せれば、案の定仁王は渋い顔をした。計画通りに事が運ばないと仁王でもこんな顔するんだなと思った矢先、ぽつりと呟きが零れる。

「ぐしゃぐしゃじゃ」
「あぁうん、…うっかり捨てそうになっちゃって」
「読めん」

そこは頑張ってくれとしか言いようがない。
苦い顔の理由は、当然私の身や先行きを案じた訳でもなければ、思うようにいかない歯痒さでもなかったらしい。紛らわしい顔しないでほしいな。

手招きされついて行った先の屋上。階段とを繋ぐ扉の上に設けられた庇が作り出す気持ち程度のスペースに収まりながら、梅雨を目前にした陰鬱な空を見上げた。朝から降り続いている雨は勢いを衰えさせず、今も目に見える程に大きな雨粒が引っ切り無しにコンクリートの上を跳ね回っている。遠くの町並みのみならず屋上の景色までも煙らせる雨は、時折強くなる風に乗って吹き込んでは、上靴の先をじっとり重く湿らせた。

「別れろだって。言っとくけど写真撮られたワケじゃないからね。特に何も変わった事とかない筈なんだけど、それが下駄箱の中に入ってた」

あれかな…こないだの、グラウンド走ったやつ、と眉を寄せるあたしの視線の先で、長い指につままれた紙は湿気を吸って端の方を反り返らせながらぺらぺらと揺れている。

「…それが理由なら、別れろ言うんは早計すぎる気もするが」
「…そっか。あれだとテニス部に近づかないでよこのメスダヌキとかになりそうだもんね…」
「…タヌキ…」
「ちょっと仁王笑わないで。こっちは真剣なんだってば」

真剣、と自分で言った言葉がふと引っかかる。
いきさつはどうであれ、ぐるになって一人の女子を謀ろうとしてるんだ。改めて考えてみても、あんまり気分のいいものじゃない。
泣きながら家庭科室を飛び出して来た女生徒の姿が頭の奥にチラついた。
自分の心配はしてたけど、実際どうしようもなく切原が好きなその子はどう思うかなってのは、あんまり意識してなかったかもしれない。

話しても駄目だったって切原は言うけど、本当にどうしようもなかったんだろうか。
溜め息をついたあたしを見て「大丈夫じゃ」と仁王は言う。

「心配ない」

そう口にしながらも仁王は顔を曇らせた。たぶん、あたしが先に難しい顔をしたからだ。

その大丈夫って何のこと?
相手の子って、どこの誰なの?
どうして写真は駄目なの?
どうしてあたしだったの?

沢山の疑問が浮かび上がっては消えていく。
じっとあたしを見つめた仁王は、大きく息を吐いて空を仰いだ。

―――降りるか?

雨に混じって落ちてきた意外過ぎる言葉に、あたしは数度目を瞬いた。
今までぐるぐるに縛り上げたロープの端を意地でも離してくれそうになかったのに、急に何だって言うんだろう。

仁王の横顔は、からかうでも冗談を言ってる風でも無い。
ここにきて、初めてきちんと選択肢を投げられた。テニス部と関わってからこちら、ずっと聞きたかった言葉。無理矢理乗せられたこのゲームから降りる言葉だ。
なのに、頷こうにも首が動かなかった。

雨粒の出所を見上げながら答えを待っていた仁王が、つと視線を向けてくる。

「即答で頷くと思っとった」
「……だって…」

だって、何だろ。
乗りかかった船だとか、そんな気風のいい考えはあたしの中にちっともないし。
自分の身の安全をとるなら仁王の言う通り頷いておくべきだったとも思う。
こんなこと、さっさと降りちゃえばいいのに。続ける理由なんて、なんにも無いのに。

仁王から紙を受け取り、雨の匂いが立ちこめる屋上を後にした。
暗く湿った、色が一つもない廊下。連なる窓の向こうを埋め尽くす重たい雲が、空に巣食う巨大な化け物みたいに見える。

帰るの嫌だな。雨、止んでくれないかな。

鞄と傘を手に、ついでに山ほどの憂鬱を引き摺って、足は自然と図書室へ向いていた。
唯一の逃げ場所。今日は委員はないから、本に没頭もできる。
上履きの底がリノリウムの床にこすれるくぐもった音が、徐々に速度を上げていく。
耳に障るその音を意識してようやく、思うよりもずっと不安だったらしい自分に気づく。
早く身を隠せる場所を見つけないと。じゃないと、あの不安と同じ色をした雲に押し潰されてしまう。

結局こうだ。これがあたしだ。

仁王は全然、何にも分かってない。
びくびくと身を縮めて逃げ隠れするのはみっともない。分かってるけど、他にどうしようもない。怖いことからは逃げて、厄介事には見て見ぬふり。あたしに出来ることなんてせいぜいそんなもので。それがきっと一番正しい。
あたしだけじゃない。皆少なからずそうだし、どんな綺麗事を言ってみた所で、誰だって自分が一番可愛い。

図書室の引き戸に手をかけるだけで少しほっとできた。すりガラスの向こうに遠いさざめきみたいな人の気配。

―――と、ブレザーのポケットの中でケータイが震えた。

誰からか、大体予想はつく。
つくから、このまま気付かなかったことにしようかと思った。
この時間帯。このタイミング。間違いなく切原だ。
もう一度、取っ手にかかる指に力を入れようとして、できなかった。

逡巡の後、結局開いたメッセージに、溜め息をついて踵を返した。
液晶に映ったのは。2-Dの文字。その下に、大非常事態の文面が続く。
非常事態に大も小もあるもんか。

 


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