2 なんとか、あたしの足も最後までもってはくれた。だけどそんな幸運も、息も絶え絶えながらトラックを離れ、どうにか水道に辿りつこうかという所でついに尽きる。 ぐにゃりと足から骨が消え去ったような感覚。地面に倒れて、もう起き上がる気にもなれずにそのまま土の上に転がった。 普段ならこんなの、絶対あり得ないけど。もう正直それどころじゃななかった。足も肺も限界だ。誰に見られ驚かれたって構わない。今はなにより休息が……あぁ…でもせめて水は飲みたい…。 その一心で、どうにか重たい頭を持ち上げた時だ。 「ゾンビか行き倒れか」 迷うのぅ、というような事を頭上で口走る人間がいた。 この胡散臭さしかない喋り方……。 「……仁王…」 もう名前を呼ぶ労力さえ惜しい。地面にうつ伏せ見上げたすまし顔の横で、スポーツドリンクのボトルが揺れる。 も、持ってきてくれたんだ…? 差し出す仁王が天使に見える。人間限界が近づくとそれまでに起きたあれこれなんてきれいに忘れ去れるものみたいだ。思い出そうとしてみても、どうして自分が仁王を要注意人物認定していたのか、さっぱり思い出せない。 貰ったそれを、カラカラでひりつく喉に夢中で流し込んだ。今口にしたスポーツドリンクが生きてきた中で一番美味しいと豪語できる。どこか薬っぽい匂いとともに、塩気と甘みが身体に沁みていく。生き返るって、たぶんこういうことだ。 気付くと、汗を拭いていた仁王がなんでかこっちを見ていて、目が合えばにやりと笑った。 「間接ちゅー」 「!!!!?」 スポーツドリンクが行き先を気管へ変更、容赦のない行進をかました結果、ごほッ、うぇっ、っと恵理子が言う所の可愛くない咽かたを披露する羽目になる。 な、何言い出すんだこの男は。 「傷つくナリ…」 ワザとらしくしょげた顔をする仁王。あたしは返事の代わりにげほっと湿った息を吐き出し、目に浮かんだ涙を拭った。 喉の奥、めちゃめちゃ滲みた…。イガイガと、風邪で喉を潰した時のような不快感が奥に残る。 あぁ…余計な体力を使った気分…。 残り少なかったHPが底を尽きかけてる。 仁王の事だからどうせ真面目に取り合うだけ無駄で、でも黙ってるのもなんだかなぁって思って、他の皆のこととか訊ねてみる。そしたら、もう全員コートに戻ったと言われて戦慄した。やっぱ運動部って化け物だ。 「…仁王、ここにいて怒られないの?」 「トイレに行くっちゅうてきた」 「スポーツドリンク持って?」 「真田は細かいこと気にする男やなか」 「…気付かないだけじゃん」 ちょっと黙って、あたしは流し台に半分だけ腰かけているその人に、ボトルを掲げて見せる。 「……これ、ありがとう」 「あぁ」 どういたしましてと茶化すような調子で仁王が応じる。 ――――… 「……やだな」 ぽつりと思ったそのままを口に出すと、汗すらも武器に変えている涼やかで整った顔が怪訝なものに変わった。 「何がじゃ」 「………全部」 何を思ったか、仁王は首にかけていたタオルやら自分のジャージやらをチェックし始める。 「仁王のことじゃなくて、あたしの話…。………ほんとは、帰ろうとしてた」 「まぁ、帰れ言われとったしな」 「…結局何周走ったのって感じだし」 「俺も結局100は走っとらんぜよ」 「…そういえば」 あたしに合わせて遅れに遅れていたはずが、仁王だけトラックに残ってるなんてことは無かった。…ちゃっかりしてる。そんな心の声が聞こえたみたいに、また謎のプリッが聞こえてきた。 でも、そんな仁王も、実は結構ストイックな所もあるんだって、前に切原が言ってたような気がする。 目の高さに持ち上げたドリンクのボトルは底の方とか結構ボロボロになってきてて、だいぶ使い込まれてる感じ。 …だから、あんなに楽しそうに出来るんだ。 頭を過るのは、ドーナツ屋で見た光景。それ以外にも、思い出そうとすれば、いくらでも出てくる。 たぶん、皆何かに一生懸命だから。楽しそうで、きらきらしてる。顔だけじゃないなんて、余計に悔しい。 「もうずっと、長いこと…あたしはあたしが嫌い」 どっちつかずで、根性無しで。いつだって楽な方へ流され続けてて、こんなの最高にかっこ悪い。 かっこ悪いって分かってて、それでも逃げることをやめられない。 外も中身も、何もかも惨敗だって思ったら、不公平だって言いたくなった。でも、これであたしみたいなのが楽しく生きてたら、それこそ不公平なのかもしれない。 呟いてから間が空いた。 「……俺は割と好きじゃけどな。お前さんの無謀なとこ」 ぽつりと、お返しとばかり落とされた呟きのせいで、今度も変な間が空いた。 「……なにそれ…」 こんな疲労と自己嫌悪でいっぱいいっぱいな時に、頭使うような台詞ぶつけてくるのやめて欲しいな。完全に、頭、回ってない。 恐々目を上に向けたあたしに、仁王が口元を弛めた。 「二の足踏んどったかと思えば、一足飛びにとんでもない飛び出し方したりするじゃろ。見とって飽きん」 …褒められてるんだろうか。少なくとも貶されてる風じゃない。 「そんな…無謀なこととか、するわけない」 「そうか?」 「ないもん…度胸とか、そういうの」 「そう思うとるのはお前さんだけじゃ。…と、少なくともまーくんは思うちょる」 「………」 呆れて言いたい事が全部吹っ飛んで行きそうになった。 頭を振り振り、どうにか気を取り直す。 「……仁王って、前からあたしのこと知ってたの?」 さっきの口ぶりだってそうだ。ここひと月くらいの付き合いのはずなのに、まるでもっと前から知ってでもいるみたいな。切原に仁王の推薦だったなんて話を聞かされてから何度も考えてみたけど、仁王の前でそんな無茶をやらかした覚えどころか、関わった記憶もない。 「あたし、どこかで仁王に会った?」 「貴重な青春の1ページぜよ」 …なにそれ。 どうにもそれ以上は答える気はないみたいではぐらかすから、真田にバレたこと、どうする気なのか訊ねてみた。もう終わりにしようかって、そんな言葉を期待しながら。 でも、ほんのちょっとだけ、言って欲しくないような思いも…。ってなんだそれ、馬鹿かあたし。 浮かんだ考えに、慌てて頭を振った。 平和な日常が戻るなら、それに越したことはないに決まってる。 「真田の方は誠心誠意反省して別れたことにしておけばまぁ誤魔化せる。なんせ浮いた話に疎いからのう」 くく、と笑う仁王は妙に楽しそうだ。 「ついでに生真面目だから、よっぽど下手打たない限りはあれこれ勘ぐるようなこともない、って?」 「ほう、ようわかっとる」 「けど…バレたらもっと怒られるんじゃないのそれ…。また走るとか死んでも嫌だからね」 「次やったら200周ぐらいかのう」 「……テニス部に関わってから、ほんっと碌なことない…」 「これは自発じゃき、ノーカンやろ?」 呆れて物も言えないとはこの事で。 「茜ちゃん」 「何」 「なに笑うとるん」 「仁王こそ」 取りあえず。この計画は真田に怒られたぐらいでは終わらないらしい。 ところで、あたしなんで怒られたんだっけ。 [back] |