ラウンドラン
結局何が何だか分からないままに、延々続くかに思われた真田のお説教も一応の鎮静化を見せ、集められていた面々にはトラック100周が言い渡された。
痺れた足の痛みに呻きながらも、ひっ立てられて行くテニス部。感覚をなくしていた足が今度はじんじんとしてくるのを堪えつつよろよろ歩きだすと、固い声が降って来た。
「栗原はもう行っていい」
「え、でも…」
あたしだってと口にしようとしたのを、真田はぴしゃりと撥ねつける。
「お前は部外の人間だからな」
そんなこと言われたって、一人だけそんな訳にはいかない。ついて行こうとすれば、口々に止められた。
「やめとけって」
「そーそ。真田がいいって言ってんだからラッキーだって」
「プリっ」
「元々こちらが一方的に巻き込んだんです。貴女が気に病む必要はないですよ」
「つーか、無理だろ」
突き放した物言いに、目の前でシャッターを下ろされたような心地がした。
ばくばく跳ね回る心臓を押さえつけ、あたしはこの日、建造物侵入及び窃盗を犯した。
実際のところはテニス部の部室に忍び込み、古びた帽子を拝借して、そそくさと女子更衣室の中へ滑り込んだ。時間が中途半端なのか、更衣室には誰もいない。無人でよかったと胸を撫でおろし急いで体操服へ着替えた。くくった髪を見えないようにしまい込み、帽子を目深にかぶる。
扉の前で壁の鏡を振り返れば、ぎりぎり男子と言えなくもない生徒の姿があった。
男女の体操服が同じでよかった。ついでにあたしの胸もささやかなサイズで良かった。ジャージを着ればなんとか誤魔化せそうな気がする。
心臓はずっとうるさい。小心者の心臓には酷だ。明日くらいには力尽きて止まってしまうかもと思いながら、こそこそと更衣室から出て、グラウンドを目指す。
我ながら、馬鹿なことをしてるとは思う。
ていうか、ほんと何してんだろあたし。
一度校門は出たんだ。だって、走れるわけないし。真田にもお前はいいって言われたし。そもそも嫌々付き合わされてただけだし。女子が一緒に走ってたらおかしいし。
そんな風に言い訳を並べて歩き続けてたら、段々並べるものがなくなって。そうしたら足まで止まっちゃって。なんでか喉の奥に苦いものが広がって、結局引き返してしまった。
それじゃお先になんて……。いやちょっとは…っていうかかなり言いたかったけど。
いまいち実感がなくたって一応は共同戦線を張ってると思ってた。
「……あの時、どうにかしてればって思うより……」
ねぇ切原、本当に…?
身体いっぱいに吸った息を、ゆっくりと吐きだし、帽子のつばをぐっと引き下げた。
砂埃に薄くなったトラックの白線に沿う。テニス部の一団は少し先を走っている。
今何週目くらいかな。本気で100周も走るんだろうか。このトラック一周何メートルだっけと考えて、頭に浮かんだ数字に気が遠くなった。鬼か。
走り始めてみれば、最初こそ軽かった足はいくらも周を重ねないうちに重くなってきた。
俯いて走るあたしの横を、もう何度目かテニス部が追い越していく。
何あのペース…。
息を切らしながら、その背中を見送っていた時だ。
一人だけ集団から遅れて走っていた仁王がぐんとペースを落とした。
「何しとるん、茜ちゃん」
あっという間に隣に並んだ仁王が前を向いたまま訊くのに「その呼び方やめてってば」と返し、頬を流れる汗を拭った。
「連帯責任なんでしょ?」
「無茶じゃろ」
「だから途中からなの」
また玉の汗が滴り落ちる。見も知らぬ帽子の持ち主にあぁごめん…と胸中で詫びる。ちゃんときれいにして返すから許して…。
何故か並走しだした仁王を窺い見れば、間髪入れずに目で返事をされる。
「……平部員くらいには見える?」
「見えん」
「…ですよね」
喋れるだけ、まだ余裕があるってことなのか。というよりあたしがあれこれ工作してる間もずっと走ってたはずの仁王が何でこんな余裕なんだろ…。恐るべし運動部。
「悪いけど、100周はさすがに無理って、自分でも分かってるから」
「さすが茜ちゃん。堅実じゃ」
「嫌味?」
「いや?」
唇の端だけをくっと持ち上げ笑った仁王は、それ以上何を言うことも無く少し先を走り始めた。
一定のリズムを刻む音。靴底が乾いた真砂土を蹴る音と、早くも限界が見えて来たかのような自分の呼吸。色んな運動部の掛け声やらは聞こえているけれど、どれもがやけに遠く感じられる。
しかもどんどん周回遅れは重なって、もう数も分からなくなった。
根性ないなぁ、あたし…。
ゼェゼェと、吸っているのに肺が空気を取り込めてる気がしない。
やってもこれだけ情けないんじゃ、何もしないで帰る方がよっぽど…。
元々亀のようだった速度がさらに落ちる。
もう…無理かも。
足が止まりそうになったその時、ばしんと背中が音を立てた。
「いッ…!?」
走った痛みに、いつの間にか地面ばかり見ていた目を上向ければ、切原が素知らぬ顔をして追い抜いて行く。ちょっとだけ振り返り、べ、と舌を出すのを驚きと共に見つめた。
今度は頭に衝撃を受けて、振り返れば丸井だった。ちら、と視線を寄越して追い越し様に先を走る仁王に声をかけていく。
「とろとろ走ってんなよ仁王」
「これが一番いいペースじゃ」
「嘘つけ」
それからも次々に、抜かれてはいくけど。
「あと少しですよ」と柳生。「無理するなよ?」なんてジャッカル君も苦笑して。
ぎゅ、と唇を噛んで帽子を深く被り直した。
…なにそれ。皆だって息切らしててしんどくないワケないのに。
ちょっと…。いや、だいぶ…。かっこよく見えちゃって悔しいんですけど……。
「よっ、しゃあ!ラスト一周っ!」
丸井が腕を振り上げて叫んでて、もう足は重いし上がらないし、なんなら感覚もなんかおかしいし、余裕なんかまったく無くって。死にそうだったのに。地面を蹴りつける足に、ほんの少しだけ力が戻る。
ラスト一周。なんて素敵な響きなんだろ。
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