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3
 

悔しいぐらい揺らぎのない声。


「まし…」


つられるように繰り返す。急速に水の膜で覆われる視界の中で何かが落ちて行く。その一瞬だけ景色がクリアになって、落ちたそれはアスファルトにぶつかって、弾けて、吸い込まれていく。
ずっと痛い程本を握り締めていた方の手の甲を目蓋に押しあてた。良かった、この程度ならすぐおさまる。大丈夫。
けれどその仕草のせいか切原がギシリと固まったのが手を通して伝わってきた。


「お、おい…?」


うっかり溢れそうになった思考にぎゅっと蓋をして意識を今へ向ける。切原の手が熱いなとか、なんか声が焦ってるんじゃない?とか。どうでもいい事をつらつらと考えた。
手首を握る手の力が弛んで、また強くなってを繰り返し、そこから動揺具合がダイレクトに伝わってくる。


「……手」

「あ…悪い…」


言えば即座に離されたそこをすぅと冷たい風が撫でた。


「………」

「………」

「……な…泣くほど嫌だったのかよ…」


違う。馬鹿。そうじゃない。


「わ…悪かったって。…な?」


さっきまであんなだったくせに、今度はあんまりにも動揺しまくりのブレっブレな声を出す。
しかもあの悪魔が謝った。なかなかに衝撃的だ。なんて思うと段々可笑しくなってきて。視界に入る手すら無意味にさ迷い出したのを見ると、ちょっと笑えてきた。

肩を震わすあたしに最初こそ慌てた様子の切原だったけれど、段々怪しいと思い始めたのか、「テメェ、嘘泣きだったら許さねー」との低い声が降って来た。
顔を上げないままくるりと踵を返し、そんな切原を置いてあたしはすたすた歩きだす。


「おい」


苛立ちと戸惑いと半分づつな声が追って来る。
追いついてきた切原は、何故かあたしを抜いて半歩前へ出た。伸びをするように頭の後ろで手を組むと同時に大きな溜め息をついて、「…それに今は一応彼氏(仮)だしな」と先刻の会話に対する言い訳みたいに言う。

顔は見えない、振り返りもしない。妙に明るい声になって切原は続けた。


「絡まれてんのがあんたなら、どんな場面だろーと助けてやるよ」


返す言葉も出てはこなくて、私はあっけにとられたままその後ろ姿を見ていた。

今…すごい恥ずかしいこと言われたような…。

じわじわ熱がこみ上げる気がして口元を隠して俯いた。
あれ、なんか…。なんだろ、顔が上げられない。
そんなことを思ったのも束の間、なんてったって高確率で原因俺だろうしなーとのん気に言われ、感じていた筈の思いが一気に馬鹿馬鹿しさに取って代わる。


「(偽)の間違いじゃないの?」

「どっちでもいいだろ、可愛くねーな」

「可愛くなくてけっこーです」

「………」

「………」


あ、振り返る。何でかそんな気がしてとっさに顔を逸らした。思った通りこっちを見た切原が、それでもめげずに覗きこんでくるもんだから、まだ手に持ったままいた文庫本で顔を隠せば、「何してんだよそれ」と呆れた声が聞こえた。


「なんか無駄に見てくる人がいたらこうする事にしてるの。気にせずどうぞ」


おいおいどんな恥ずかしがり屋だ。と苦しいにも程がある言い訳に自分で突っ込んだ時、不意に指先に触れるものがあった。覆うようにして半分だけ手を握ってきたそれから伝わってくるのは、さっきまで手首に感じていたのと同じ温度で。
顔に感じている熱が、また上がったような気がした。


文庫本から引きはがされた手を引かれて、歩く。
駅までって言ってたのに、結局切原はやっぱ俺も一緒に帰ると言って電車に乗り込んだ。
駅のホームで病院組に電話をかけていたみたいだったけど、また丸井がぎゃあぎゃあ言ってるっぽい声が漏れ聞こえていた。

そうしてほんの二駅の距離だというのに、切原は今、あたしに寄りかかって爆睡している。彼女か、と内心で突っ込んで、あぁ彼女でしたと思う。(偽)の。
なんでかちょっと眉を寄せて難しい顔をした切原の寝顔を盗み見てみると、頬にもじゃもじゃが触れてくすぐったかった。

その膝の上に置かれた無防備な手を見つめ、躊躇いがちに触れてきたその感触を思い出しては、重たいため息をついた。

人との距離の縮めかたなんてもう忘れてしまった。

心を開くってどうするんだっけ。信用ってどうやってしたらいいんだっけ。全部全部忘れてしまった。前までは、息をするみたいに当たり前に出来てたはずだったのに。











「何か良いことあった?」

「え、何が?あたし?」


休み時間、おもむろに千春がそんなことを言い出した。
その隣では、食べかけのポッキーをタクトみたいに振った恵理子が、まじまじと顔を覗き込んでくる。


「そ。なんかぽや〜っとしてるわよ」


言われ、文庫本を開いていた手に視線を落とした。


「特にない、かな?」

「えー、ほんとにぃ?」


良いこと、なのかは正直分からない。
悪いこと、ではないと思う。

そんな恵理子の隣で、開いていた文庫の表紙を覗き込んだ千春が「…あ、新作」と呟いた。





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