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「栗原茜」
渡り廊下を越え特別教室がある棟へ入った辺りで、フルネームで名前を呼ばれた。
振り返るとそこには銀の髪と気だるそうな瞳。
「に、仁王」
この顔を見るのは久しぶりだった。他のメンバーはなんだかんだでよくお弁当を食べに来てるけど、仁王だけは初日以降来ていない。まぁ見なくて済むにこしたことはないんだけど、
「そんな警戒せんでもよか。たまたま通りかかるのを見かけてな。他愛のない世間話じゃ」
警戒したのを敏感に感じとったらしい。仁王は肩を竦めてみせた。
テニス部が直接声をかけてくることなんてあんまりなかったから、つい勘ぐってしまう。
柳生なんかは時々心配して声をかけてくれることもあったが、なんとなく仁王からそんな雰囲気は感じない。
「どうじゃ調子は?」
だからその口からこんな言葉が飛び出したことに衝撃を受けた。
「…いたって普通」
「そうか」
そうかって…。まさか本当にただの立ち話をしに来たんだろうか。
「作戦の方は順調そうじゃな」
「そう、みたい。何か噂が立ち始めたって聞いたけど」
「ひょっとしてあの切原赤也に彼女ができたんじゃないか、ってやつじゃな」
「知ってたの」
「俺が仕入れてきた情報じゃ。他にも最近テニス部レギュラーの周りをちょろちょろしてる女がおるっちゅうのもあるぜよ」
たぶんあたしだよそれぇぇぇぇ…
頭の中に居座っていた空想が現実になりそうな気配に頭を抱える。
「それをあたしに話してどうしたいの。ビビらせて楽しいわけ?」
「防災意識は大切じゃろ?」
もはや災害なのか。そのうちあたしの周りはあれか、炎上するのか。
足元に撒き散らされた油に続く導火線がじりじりと燃えていくのを見ているみたいだ。このままだと引火する事は分かっているのに、どうすることもできやしない。炎に撒かれるのを指を咥えて待つだけなのか。いや、何か、何か策はあるはず…
ぐるぐると、出口が見つからずすっかり迷子になってしまった考えを巡らせていると、「もう一つ」と目の前の男が言った。
「良い知らせがあるぜよ」
どう転んだってあたしに良いようにはならないんじゃないか。訝る視線を向ければ、仁王はにやりと笑った。
「彼女疑惑もちょろちょろしとる女も、それがどこのどいつなのかは誰も知らん」
「それ…」
「今のところ、上手くいっとる」
仁王の言葉の意味が分かるなり、あたしの胸は弾んだ。
「それって、まだあたしだってバレてないってこと!?」
信じられない。あれだけ顔を見られているのにそんなことってあるもんだろうか。
防火用のバケツが途方に暮れていたあたしの前に現れた。
仁王からそんなことを聞くなんて意外にも思えたけれど、確かにそれはあたしにとって良いニュースに違いない。
「じゃあもうこの辺で!」
「それはない」
浮き上がりかけたあたしの足はしっかり地面に打ち付けられた。
せっかく見つけたバケツの中身は空だった。
まだ計画は終わらないらしい。
「この計画って、どこまでいけば終わるわけ?」
「切原に言い寄ってるそいつが諦めたら、じゃな」
計画が終わるのが先か、火がつくのが先か…。
はは…と薄い笑いを浮かべたあたしの頭に、ぽすんと仁王の手がのった。
「へ?」
「大丈夫ぜよ。写真だけ撮られんように気をつけとけばよか」
「う、うん…?」
お弁当計画の前にも告げられた、その言葉。
とりたてて重要でもない事を告げるような、けれどもしかしたら彼の中では最高に真面目かもしれない顔で仁王は言った。
見られても平気。でも写真だけは撮られるな、と。
それっていったい――…
探るような視線を向ければ、何を考えてるか分からない目と一瞬見つめ合う形になってしまう。
「え、と…」
目を逸らすと、クッと喉で笑う気配がして手が離れた。
あの、と改めて声をかけようとしたその時だ。
「雅治――!」
タイミングを見計らったように割って入った声に、二人揃って本校舎の方を振り返った。
短いスカートから細い足を惜しげもなく出した女子が仁王に向かって手を振っていた。
「どうせなら楽しめ」
そんな一言を残し、にやりと笑って踵を返した仁王。歩いて行った彼の腕に女子の腕が絡みつく。
楽しめって、そんなの無理に決まってるじゃない。
二人の姿が校舎の中に消えていく直前、ぴったりとくっついていた女子がこちらを振り返った。視線がチクリと刺さる。けれどすぐにその頬を仁王が引き寄せ、不満げに尖ったその唇に自身の唇を重ねる。
「!?」
突然のことに見ていたこっちが赤面して顔を逸らした。振り返ることも出来ないままに仁王達とは反対の校舎へ戻り、逃げるように階段を上る。
今の女の子の…。牽制、されたんだろうか。
けっして好意的とは言えない視線。
心配しなくても、あたしは貴女の敵にはなりえないけど。
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