おもいびと
◆無常2
「――最後に、礼を言っておきたくて」
決して安くはないホテルのベッドの上。おれは女と会って、別れを告げた。
相手は十才年上の独身キャリア組。いい女なのに男に縛られたくないと言って、おれを買っていた上客だ。
したあとで別れを切り出す男は最低だと笑われた。
「どうしてわたしに会いたいと思ったの?」
女はベッドに俯せたまま煙草を取って火をつけた。長すぎず短すぎず整えられた爪が目立たないマニキュアで飾られて、堅実な職業に就いていることを仄めかす。
「おれが恋してるって見抜いたのは、あなただけだから」
「ほかのお得意様は?」
「……どうしようか迷ってる」
「会わない方がいいわ。あなた刺されるわよ」
喉の奥で笑いを殺して、喫い始めたばかりのメンソールを灰皿に押し付けた。
「自分の事を全然解ってない」
おれを見てニヤリと笑う。まるで値踏みをするような視線。
もう慣れたが。
「あなたみたいな男は放し飼いにしちゃいけないわ」
「……ちょうどよかった、これから檻の中へ行くんだ」
女は意外だとばかりに驚いて見せる。
しかし、詮索はしない。
そういう関係だ。
「好きな子がいるのに?」
「好きな子がいるから」
おれの答えを聞いて、しばらく疑問を抱いたままおれを見つめていた視線が、不意によからぬ考えに支配されたようで。おれを憐れむような、蔑むような。事情を深読みする複雑な表情を持って興味を向ける。
「あなた、その子を抱いてないでしょう」
見抜かれて断定された。頭のいい女ってのはこれだから手におえない。
「あなた、自分の気持ちから逃げるつもり?その子の人生に関わるのが怖いの?」
容赦ない。
だからこの女は男と付き合えないんだ。
絶対に嘘もごまかしも通じない。
女は嘲笑のような笑顔を貼り付けておれに迫った。
「……セックスで人を変えられるとでも思っているの?人を変えるのはセックスじゃなくて情よ。そこが分かっていない」
そうなのか?と、思いも寄らなかった指摘に驚かされる。
興味本位で初めて知ったセックスに溺れて転落するヤツを何人も見てきた。
初めての相手と、オトナになった自分が、この世界で全ての価値を持っているかのように錯覚して関係に囚われる。それは精神の成長を阻む以外の何物でもない。
だからおれは、てめえの中身がガキなうちはそんな関係に足を入れるもんじゃないと思っていた。
初めて教えた行為に溺れて自分では出来なくなった陸。それはおれの責任だ。真っ当だったはずの人生をおれが歪めてしまった。そう思ってきた。
おれしか知らない陸。
おれしかいらない陸。
そんな陸が、本当に正常な判断でおれを愛しているのかと自問自答を繰り返して、安易な関係に走るのを戒めてきた。
快楽が欲しいだけじゃない。陸はおれを好きだと言って欲しがった。傍に居たいと言った。
そんな感情にありながら抱かれたなら。
この女が指摘する通り情が人を変えるのだとしたら。
陸は余計おれに執着するだろう。
おれには、陸の全てを受け入れるだけの覚悟が、責任が。
自信がなかった。
やばい。自分のヘタレ具合を自覚してヘコむ。
「愚かな男。……仕方ないわ、まだ子供なんだもの」
「その子供を喰ってるあなたがそれを言うの?」
悔し紛れの憎まれ口をたたくが、そんなもので女は怯まない。むしろ更におれを嬲ってくれる。
「少しは賢くなったの?」
おれの腹に乗ってきて、上からキスを落としてくる。
それは、別れの際に在って、執着を見せる心残り。
本当は、この女も何かを渇望しているんじゃないかと思えた。
「あなたも、早く誰かと一緒になった方がいいよ」
「言うわね。……永遠を口にできるなんて、なんて無邪気なのかしら」
クスクスと笑いながらおれの唇を吸う。胸をなぞる指先が、乳首を弄ぶ。
意志に関係なく、疼きがおれを支配しはじめた。
「ひとの人生も運命も時とともに変わってゆく。いつだって無常にループしているだけ」
情欲に溺れるようなエロい顔でそんな哲学を語られても説得力に欠ける。
リアルを満喫している時点で、十分無邪気だろう?
女は不意に真剣な表情を向けておれを諭した。
「運命に呑まれないで、海斗。どんなに分が悪かろうと、足掻くのを止めてはダメ。諦めたらそこで」
まるで母親のような説教に、どうしてだろう、愛情すら感じてしまう。
そんな痛いほど真剣な視線を、真っ直ぐに見つめられる程、おれは強くない。
「試合終了?」
おれの不真面目な切り替えしで、女は自分を取り戻した。
「わかってるじゃない」
「バスケットマンですから」
「うっそ!信じられない」
「ひでぇな。おれをどんだけ不健全だと思ってるんだ」
「女食い物にしている時点で5ファールよ」
痛い。
僅かながらの良心が痛む。
「……否定できないでしょ?」
ばつが悪いとはこの事だ。おれは何も返せない。
「可愛いわ、あなた。……本当に可愛い」
おれを掻き抱いてキスを寄越す。これが最後だなんて思えないほど執着を見せる。
こんな彼女は初めてだ。
「……なんて、憎らしい」
やっと聞こえる小さく呻くような声。
おれは、胸が握りつぶされるかと思った程の強い痛みを覚えた。
『夢見ていたわけじゃない』と言った。
なのに、彼女はおれに優しくて。
おれはずっとその想いを食い物にしてきたんだ。
でも、謝ったりしたらきっと怒るんだろうな。
さよなら。
好きだったよ。
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