思い出せなくなるその日まで
立てればいい。エストは顔を上げて、淀んだ瞳を向けてくるツヴァイを睨んだ。痺れる身体を奮い立たせ、大きな剣を構える。
「ボクはまだ、戦える!」
エストが言うと、ツヴァイは口角をあげる。不敵な笑みは、余裕の証だ。
「まだそんな口が訊けたんだ。でも、そうでなくっちゃ。簡単に死んじゃったら、つまらないもの」
淡々とした口調の中に混ざり込んでいる狂気。ツヴァイの長い袖の中に隠れている爪とナイフは、エストを着実に苦しめていく。
「エスト……もういいよ、早く逃げよう! 今のツヴァイには何を言っても無駄よ!」
エストの後ろでエトランゼが叫ぶ。彼女もまたツヴァイの攻撃によって傷を負っている。しかし、大半はエストが防いでくれた。
「無駄なんかじゃないよ! だって、ボクらはずっと、一緒だったんだ!」
威勢は良いが、エストは前に足を踏み出せない。腕を斬られた際、毒にかかってしまった。致死性はないようだが、普段のようには動けない。体力も消耗しているため、身体は言うことを聞いてくれなくなった。
「そんな昔の事、すっかり忘れちゃったなあ……。でも、僕は君が欲しい。君の持っている力が欲しいんだ」
闇夜に映し出されるツヴァイの影がゆるりと動く。音を立てずに忍び寄る影は、エストの横を通り過ぎていく。
「きゃっ!?」
ツヴァイが狙ったのは、エストではなくエトランゼだった。縄のように太くなった影は、エトランゼの身体を拘束する。油断していたことに動揺を隠せないエストは、少し上ずった声でツヴァイに言った。
「エトランゼは関係ないでしょ! 攻撃するなら僕だけを狙えばいいじゃないか」
ツヴァイはそれを受けて、こう返した。
「今の君の顔が見たかったからだよ」
静寂の中に、ツヴァイの笑い声が木霊する。何も出来ない無力さを押し殺して、エストはエトランゼを助けようとする。
「く、苦しい……」
しかし、それを見たツヴァイは影により強い力を込める。エトランゼはその力に苦悶の表情を浮かべた。
「そこから一歩でも動いたら、このままエトランゼの身体を真っ二つにするよ。さあ、どうする?」
エストは奥歯を噛んだ。そう言われて、お構いなしにエトランゼを助けようとすることは出来ない。これ以上傷付けたくない。その気持ちが頭の中を駆け巡っていた。
「私のことはいいからっ……!」
「良くない! ねえ、ツヴァイ! エトランゼには手を出さないでよ!」
その言葉を耳にすると、ツヴァイは一瞬でエストの目の前に現れる。そのままナイフを持っていたはずの左手で、エストの首を掴んだ。
「あの頃から隙だらけなところは全然変わってないねえ。このまま絞め殺しちゃってもいいんだよ」
見た目とは裏腹に、気管を押し潰さん勢いでエストの首は締め上げられる。激しく咳き込むエストは、何も言い返すことが出来ない。
「ツヴァイ……エストに乱暴するの、もうやめなさいよ……」
まだ声の出せるエトランゼはツヴァイに言う。どうにか魔法の発動を試みるが、どんどん意識が遠のいていくせいで集中力が続かない。
「嫌だね。僕はエストが降参するまで攻撃をやめないよ」
腕を掴んで必死に抵抗するエストに対し、ツヴァイは人間の形状に戻った拳で顔を殴る。一度では飽き足らず、鈍い音を鳴らして何度も殴る。その間も影はエトランゼの身体を拘束したままだ。
左手を離し、ツヴァイは足を上げて、血塗れになったエストの顔を蹴り飛ばした。力なく浮いたエストの身体は、エトランゼの傍に倒れ込む。
「何で……エストは、ずっとツヴァイのことを……」
何も出来ない悔しさと、エストの想いが届かない現実に、エトランゼは昂った感情を押さえられなくなる。瞳の皿から零れ落ちた涙が、地面に注がれる。
「だからだよ。僕のことを想ってくれるから、僕はエストを苦しめたくなる。それでも僕を信じてくれる、馬鹿なエストを見て、幸せを感じたいだけなんだ」
無慈悲なヒールの音が鳴り響く。諦めずに剣を握るエストの右手に、尖った部分をぐりぐりと押し付ける。嗚咽を漏らすエストを見るツヴァイは、穏やかに笑っている。
「死なない程度に殺してあげる。これからだってエストは僕の物になるんだ。そのためにはもっと強くなって、僕を楽しませてよ。まだまだこんなものじゃないんでしょ?」
その言葉に反応するように、ツヴァイの服の裾をエストは掴む。左手を伸ばし、しがみつくような格好で、エストは食らいつく。
「早く……エトランゼを離せ……」
自分の身体はどうなっても良かった。右腕がこのままもがれてしまっても、声が出せなくなったとしても、エトランゼがちゃんと生きていてくれるのがエストの望みだった。
「ツヴァイ……ボクを、あの頃を、思い出してよ!」
エストの叫びが、ツヴァイの力を一瞬弱めた。影の拘束がゆるくなり、エトランゼは自力でそれを断ち切った。
「私は、今のツヴァイを、許せない!」
両足に力を込め、両手をツヴァイに向ける。
「いい加減、目を覚まして!」
エトランゼの周囲に浮かび上がった光弾が、ツヴァイ目掛けて発射される。不意を突かれたツヴァイは目の前に迫った光弾の激しい輝きを見た。
次々に光弾は爆発する。灰色の煙と爆音が立ち上って、周囲を見えなくした。感情がコントロール出来なくなって、エトランゼは息の上がった状態のまま、攻撃を続けた。
しかし、その煙の向こうに、歪んだ影が見えた。エトランゼは目を疑った。
そして、その方向から、槍の形状に変化した影を纏って、ツヴァイが突進してくる。エトランゼは思わず目を瞑った。
酷く嫌な音が、エトランゼの耳に入る。
槍は、エトランゼの身体のすぐ傍まで伸びているが、刺さってはいない。ただ、そこから滴り落ちる雫は、エトランゼの戦意を失わせた。その場に崩れ落ちる。
「そんな……」
それは、エトランゼと同時に、ツヴァイも発した言葉だった。
「ごめん……こんな守り方しか……出来なかった」
腹の部分に刺さった槍は、空が雲に隠れると同時に消える。
こんな時でも、エストは何故か笑っていた。
「馬鹿だよ……エスト……どうしてそこまでエトランゼのことを守ろうとするんだい……わざわざ自分の身体を犠牲にして……」
「犠牲になんか……ボクは、こんなくらいじゃ、倒れたりしないから」
ぽっかり空いた穴を塞ぐために、エストは左手で傷口を押さえる。ゆっくりではあるが、傷は塞がっていく。
「ツヴァイ……ボクの声、聴こえた?」
ほんの一瞬、ツヴァイに正気が戻った気がした。希望を抱いて、エストはツヴァイの方を見る。
「……はは、ははは! ははははは! 大馬鹿野郎だよ君は! 何でそこまで僕のことを信じるの!? 僕は君の敵なんだよ!? どう足掻いたって、僕たちはもう、わかりあえないんだよ!?」
動揺を隠せないツヴァイは声を荒げる。
忘れていたはずの記憶が蘇って来たからだ。
何も考えずに過ごせていた日々を。三人で笑い合えていたあの時間を。
エストは泣き虫で、エトランゼは気が強くて、そして、ツヴァイは、三人のまとめ役だった。何をする時も、ツヴァイが居ないとまとまらなかった。
それぞれ違う部屋が与えられていたのに、同じベッドで眠った。
大人の目を盗んで、森の中で遊んだ。
ずっと一緒に居れると、信じていた。
「僕は……僕は……うわあああああ!」
頭を抱え、ツヴァイは倒れ込む。エストは自分のことなどすっかり忘れて、ツヴァイに駆け寄った。
「嫌だ! 帰りたくないよ! 僕はみんなと一緒に居たいんだ! 僕は、僕は……ぼく、は……」
「ツヴァイ! 待ってて、必ず助けてみせるから! また僕らのことを忘れちゃっても、また思い出させてみせるから!」
弱々しくなったツヴァイの身体を、エストはきゅっと抱き締める。少しずつ、ツヴァイの存在は闇に溶けていく。
「だから、そんなに泣かないで」
ツヴァイの身体が消えてしまって、自分の身体を包んでしまうまで、エストはずっと、目を閉じていた。その姿をエトランゼはただただ、眺めていた。
「エスト……」
「ごめんね、辛い思いさせちゃって」
「ううん。それより、私はエストの方が」
「ボク、こう見えて身体は頑丈なんだ」
目を開いて、エストはぱたんと、大の字になって倒れる。ぽっかり空いた天井の穴の向こうは、満天の星空が広がっている。
「ツヴァイは、まだ鎖に繋がれたままなんだ。早く、断ち切ってあげないと」
エトランゼは、思わずため息をつく。
「もっと、自分のことも大切にしてよ! もう、死んじゃうかもしれないって、心配するじゃんか!」
「えへへ……つい身体が動いちゃって」
舌をペロッと出して、エストは笑う。エトランゼはそれにつられて、笑ってしまった。
「もう! 笑いたくないのに……!」
エトランゼはそう言うが、エストはその表情を見ることはなかった。
エストは瞳を閉じていた。
開くと、涙が零れ落ちそうで怖かったからだ。
end.
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無我夢中で書いてみることもたまには悪くないと思う。
エストは僕にとっての希望でもある。
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