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エクステンドドリーマー【前編】(2012年大学祭冊子掲載作品)
  エクステンドドリーマー
                    神宮司 亮介


「シュウの夢って何?」
 ミツキは、右隣でポケットの中に手を突っ込んで歩くシュウに尋ねる。自然な栗色の髪が、太陽の光に反射する。
「オレ? お父さんが消防士だし、人助けの仕事には憧れてるよ」
 そう言って、消防士が放水をする動作の真似をシュウはし始める。
「相変わらず、シュウは子供だな」
 ミツキの左隣にいるゴウが、シュウの行動を見て鼻で笑う。片目を覆う程、長く伸びる黒い前髪が風に揺れる。
「へへっ! だってオレたちまだ十四だぜ! 子供じゃんか!」
 シュウは鼻を擦る。綺麗な白い歯が顔を覗かせた。
「十四でも、将来をちゃんと考えなければいけない時期に違いはない。シュウだって、もう少し真面目に勉強しろよ」
 真ん中のミツキを置いてきぼりにして、シュウとゴウは言い合いを始める。いつもながらの光景に、ミツキは苦笑いするしかない。
「オレがどんな夢見たっていいだろ!」
「僕は友人として君のことを心配しているんだ。十四にもなってヒーローに憧れているなんて、恥ずかしいと思わないのかい?」
「どこが恥ずかしいんだよ! 困っている人を助け、悪をやっつける、かっこいいじゃないか!」
「ヒーローなんてエゴの塊じゃないか。所詮自分たちの正義を押しつけているだけだ」
 いつから二人はこうなってしまったのだろうか。ミツキは寂しく思いつつも、賑やかな二人の声に幸せを感じる。成長期に入り始めた二人は一足先に大きくなっていたミツキの背に追いつき、今にも抜かそうとしている。女の子のような高い声も落ち着きはじめ、特にゴウは男らしい声に変わりつつあった。
「小学生の頃だったら、力で鎮められたのになあ……」
 二人には聞こえているのかわからない。ただ、二人が凄いのは、ミツキが何かをボソッと呟くだけで、こちらを向いてくれることだ。シュウの大きい瞳と、ゴウの細く鋭い瞳。両方が、ミツキを捉えている。
「何か言った?」
「何か言ったか?」
 ミツキははにかむ。こんな二人が、好きだ。
「何にも言ってないけど?」
 三人は右側に公園のある十字路を迎えたところでそれぞれ別れる。ミツキは左に曲がり、少し先にあるマンション。ゴウは右に曲がり、しばらく進んだところにある大きな屋敷。そして、シュウは真っ直ぐ行った所にある住宅街。そこにそれぞれ三人の帰る場所がある。今日も三人はここで別れ、三人は手を振って、それぞれの帰路に就く。
 シュウは夕暮れの空を見て、帰りを急いだ。もうすぐ六時。テレビの前を妹に占領される前に、シュウにはテレビの前を陣取る必要があった。学校指定の黒い長ズボンが、汗で濡れていく。
 一つ横断歩道を渡り、住宅街へ入るシュウ。ここまではいつも通りの帰り道。何一つ変わることのない、平和な町だ。それは逆に、無個性な町ともいえる。似たつくりのポスト。同じ色の屋根と家のデザイン。一台は車を停めることを前提に作られたガレージ。そんなことには気にも留めず、シュウは走った。
「待って」
 すると、突然背後から、小さな男の子の声がシュウの足を止める。悲痛な叫びに近い、待って、の言葉。シュウは恐れることなく振り返る。
 そこには、真っ黒い影が人の形をして、座り込んでいた。シュウが気付いた時、空の色は美しい橙から、瘴気に満ちたような紫色に変化していた。息を吸うだけで肺がやられてしまいそうな。
「な、何が起こってるんだ……。というか、君は……」
「キミの心、とっても美味しそうだから、食べていい?」
 え、シュウが戸惑っている隙に、影はシュウの足元に這い寄って、ぐるぐると巻き付いた。
「うわっ……な、なんだこれ!」
 汚れた白いスニーカーとズボンが巻き込まれる。皮膚に食い込むようなそれの力によって、足に痛みが走る。シュウは顔を歪めた。
「これからもっと痛くするよ! そして、キミの心を、ボクのものにするんだ!」
 影は太腿、大腿部を伝わり、ついに腰回りまでを覆い尽くす。影は筋肉や血を吸うような感覚。足の力が抜けそうになる。
「……何だかわかんねえけど、人の心を勝手に奪おうとすんな!」
 シュウは今一度、足の裏に力を入れる。何としても、地面から足を離してはいけない。直感がそう教えてくれている。
「どうして諦めないの? 諦める方が早いのに」
 影が言う。
「でも、諦めたら嫌なことだってあるんだよ! それが今なんだ! わかんねえけど、お前の好きにさせるもんか!」
 シュウの目が影を注視する。そこから光線でも出ているかのように、鋭く。
 ズボンから裾がはみ出たカッターシャツ、教科書の入ったショルダーバックが風で揺れた。ただ、それは普通の風ではない。シュウを取り巻くように吹き上がっている。影がそれを見てたじろいだ。
「わわわ……ま、まさか、お前……」
 シュウは胸を押さえる。痛むのではない。心臓から流れ出る生命の源が、何倍も力を増してシュウの身体全体へと行き渡っていく。
「何だ、これ……力が……湧いてくる……」
 身体の奥底からどんどん湧き上がる力。今まで感じたことのない温もり。
「光野集……あなたにこの力を捧ぐわ」
 どこからともなく舞い降りてきた声。シュウは目の前を眩い光に包まれる。
 違うものが肌に触れる感覚。だが、嫌ではない。むしろ、感情が昂る。広い空の果てまで飛んで行けそうな、分厚い壁を破っていけそうな、無限の力が、溢れる。
 光が治まって、シュウは目を開く。明らかに今までの自分とは違う。シュウは首元に手を置いた。柔らかいものに触れた手が、そこにあった白いカッターシャツの存在を忘れてしまった。
「……オレ、この格好……もしかして」
 少し赤みがかった茶色い髪は、鮮やかな金色に染まる。白いスーツの胸のあたりには青い石が埋め込まれており、そこから赤い筋が四本、四肢の先端まで伸びている。正義の象徴のように、首に巻かれたマフラーが膝のあたりまで垂れ、空気の中を泳いでいた。腰に巻かれたベルトの部分には、銃が装備されている。
「エクステンド……レッド……」
 エクステンドレッド。それは、シュウが毎週楽しみに見ているアニメのタイトル。シュウと同年代の少年が、地球を侵略しようとする怪物と戦うアニメ。帰りを急いでいたのは、間もなくエクステンドレッドが放映される時間帯だ。また、漫画が原作で、もちろんシュウは小学生の頃から愛読している。
 そして今、シュウの姿は、主人公が変身した時の姿そのもの。顔が違う以外は、ほぼ同じ。
 事態は飲み込めていないがはしゃぐシュウに、両耳を塞ぐ、線のないヘッドフォン型の通信機から、声が流れた。
「聞こえる? 光野集」
 大人の女の声。顔はわからないが気品があり、理知的な人物像を描かせる。
「だ、誰?」
「話は後よ、まずは、目の前の敵をさっさと片付けなさい」
 通信機を押さえシュウは問うが、女は軽くそれをあしらって、指示を出す。影が人の形を崩し、黒い塊となって蠢いている。
「キミが選ばれたのか……ふふ……面白い。でも、ボクに勝てるかな?」
 影の色が抜け、目の前にはシュウより少し小さいくらいの少年が現れる。灰色の髪に、整った顔立ち。日本人ではなく、白人の血が入っていることはわかる。お金持ちのお屋敷のお坊ちゃん、という言葉が似合う服装。少し顔を覗かせる足首が、子供らしさを演出している。それを、シュウは知っていた。
「もしかして、ヴァニッシュ!?」
 名前を呼ばれた少年は、頷いた。
「ご名答だね……キミの宿敵さ。エクステンドレッドのね」
 影が変化した少年、ヴァニッシュ。それは、同じ作品に登場するエクステンドレッドの敵キャラクターだ。黒幕に操られ、主人公に襲い掛かる様は狂気に満ち溢れている。電気の力を操ることが出来、作中では何度も主人公を窮地に追いやった。そんな強敵が、今目の前にいる。
「どうだい、キミが得た力と争うのにこの姿はとても似合っているだろう?」
 殺気とは、こういうものなんだな、ということを、シュウはひしひしと感じる。武者震いと言ってしまいたくなる程に、身体が震える。
「ふふ、じゃあ、ショーの始まりだ!」
「来る!」
 通信機に女の声が流れ込む。シュウは前を見て、腕を構えた。
 ヴァニッシュは指を鳴らす。パチン、毒々しい町に響く音が、雲を割って空を引き裂いた。そこから光の鉄槌が落ちる。雷だ。
 上からの攻撃、シュウは反応出来ず、雷の餌食になる。
「うわあああ!」
 虚像の痛みを、実際に感じた感想。身体全体がナイフで切り裂かれていくようだ。シュウは足をしっかり地面につけて、電流の波を耐える。攻撃が治まった後も痛みは中々消えない。
「どう? 痛いでしょ? でも、耐えちゃうなんてすごいなあ」
 余裕の表情で、ヴァニッシュは身体が痺れているシュウの元へ近付いていく。シュウは前に一歩踏み出す。倒れたら負けだ、という意思が、シュウを突き動かす。
「集、貴方が見てきたもの、その通りにやればいいわ。これが貴方の描いたもの。貴方が心の中で描き続ける理想よ」
 シュウを落ち着かせてくれる女の声。決して自分は今、一人でないということがわかって、不安が消えていく。
「誰だかわかんないけど、わかったよ! オレ、やってみる!」
 シュウは歯を見せる。ヴァニッシュは攻撃を受けても尚笑っていられるシュウに、少し恐れをなす。緑色の瞳が、細くぎらついた。
「何をするつもりなの? ボクに刃向ったって、そう簡単に勝てるわけが……」
「そうだとしても、オレは戦う。オレの心を、勝手に奪われてたまるもんか!」
 シュウは空に向けて掌を掲げる。掌に収まる光球が生まれ、それは大きな剣の形になる。シュウはそれを握り締める。
 刃先をヴァニッシュの胸のあたりへ向ける。そして、心の奥で夢見ていた言葉を吐き出した。
「深い闇を斬り裂く光の刃、セイクリッド・ジャッジメント!」
 ヴァニッシュの目から見たシュウの姿は、恐ろしい程に輝いていた。どこか締まりのない顔も引き締まっていて、その姿に、思わず手を伸ばす。
 違う、ヴァニッシュは拳を握りしめる。
 シュウは一直線にヴァニッシュの懐へ飛び込み、力いっぱい振り下ろした。
「うおおおおお!」
 煌めく刃を振り下ろせば、光弾がアスファルトを裂いて遠くまで放たれた。轟音が辺りを包む。
 そこに、ヴァニッシュの姿はない。シュウはガッツポーズをしかけたが、ここで女の声が入った。
「集、敵を逃がしたわ。まあ、最初の戦いにしては上出来だったわ」
 え、とシュウは声を洩らす。
 それと同時に力が抜け、シュウはその場にへたり込んだ。
「い、息が……」
 何の前触れもなく早くなる呼吸。シュウは苦しくなる胸を押さえる。
「落ち着いて、集。決して、この世界から目を離さないで。夢を、理想を、受け入れるのよ」
 まるで、隣で背中をさすってくれているようで、女の声は心強かった。
 しかし、シュウはありがとう、と言おうとして意識を失った。視界が暗くなる瞬間は、あっという間だった。


 その日から、シュウは何時以来かわからない風邪をこじらせたのか、熱が出たために二日ほど学校を休むことになった。
シュウが二日も学校を休んだことは、クラスの中では割と重大ニュースの中に位置づけられた。小学校の頃から病気を一切せず、遅刻もない。皆勤賞を続けて来たシュウが二日も休むということは、にわかには信じ難いことであった。
「びっくりしちゃった。シュウが学校休むなんて」
 その日の帰り道。ミツキの右側にゴウの肩が、左側にシュウの肩がある。ミツキは変わらない日々が戻って来たことが、嬉しかった。
「ホントに大丈夫なの?」
 ミツキは心配ではある。シュウは何もない、と言うが、今までにこんなことはなかったこともあり、動揺は隠せない。
「大丈夫だって、それより、二人共お見舞い来てくれてありがとう! オレ嬉しかったよ!」
 シュウはそんな心配を吹っ飛ばしてくれるように、ニッコリと笑う。二人は、シュウのお見舞いに来てくれた。ベッドの中には居たものの、元気で顔色もよく、普段と変わらないシュウの姿に拍子抜けしてしまったのは、ミツキとゴウの秘密だ。
「そ、そう? なら、良かったかな」
 ミツキは両手で持った通学鞄を揺らす。少し膨らんだセーラー服の胸のあたりに、シュウは目をやった。
「オレたち、変わってるようで、そんなに変わってないな」
 ショルダーバッグを腰から背中に回し、シュウは呟く。外面は皆小さいころに比べて変化は著しいが、内面はそれほどだな、シュウは思った。
「それはシュウだけだろう?」
 黒いリュックを背負ったゴウが言う。鼻につく様な話し方。確かにゴウは変わっているなと、シュウは頷く。
「かもなあ」
「いつもみたいに突っかかって来ないと、僕も心配だな」
 シュウの反応にゴウは頭を掻く。普段ならどんなことでも突っかかってくるというのに、今日は大人しい。シュウの代わりだと言わんばかりに、強い風が三人の間を吹き抜ける。
「ゴウも心配してくれてんのか? そっちの方が心配だぜ」
 シュウは歯を見せて笑う。ゴウは照れ臭そうに、シュウから顔を背けた。
「そ、そういうのじゃないからな」
「そういうのって……ゴウも変だよ」
 二人のギクシャクしたやりとり。ミツキは左右を見て、言った。
「全部、急にぶっ倒れるシュウが悪いんだ」
 ゴウは呟く。シュウとミツキは互いに顔を見合わせて笑う。
「相変わらず、素直じゃないんだから」
 三人の帰り道はあっという間に終点に辿り着く。十字路に立つ三人の影が傾いている。
「そうだ、次の日曜日、どっか遊びに行かない?」
 別れ際に、ミツキは二人を誘った。もちろん、二人は頷く。
「ホント? オレなら大丈夫だぜ!」
「別に日曜日なら大丈夫だよ」
 ミツキは手を叩く。膝下まで垂れるスカートがふわり、浮かんだ。
「またメールする! あ、ゴウには電話かけるね! じゃあ、また明日!」
 綺麗な、色白の肌。長細い腕が車のワイパーのように左右に振れる。
「うん、また明日!」
「じゃあね」
 この日、シュウとゴウは二人、ミツキの背中が小さくなって、見えなくなるまでその姿を眺めていた。きっと明日も会えるはずなのに、互いに胸がざわついた。
「シュウのせいだよ。こうやって、当たり前だった日々が、そうじゃなくなるんじゃないかって、不安になること」
 前髪を掻き上げ、ゴウは言った。
絡み合う電線。夕焼けに混ざる雲の色は、灰色を落としている。ハトでもカラスでもない鳥が茜色を吐き出す天球に向かって飛んでいる。
「……ごめん。心配かけて」
「……だから、別にお前を心配しているわけじゃないからな。僕はミツキが、気になるだけだ」
 ゴウはシュウに背を向ける。このまま帰るのかとシュウは思ったが、ゴウは立ち止まったままだった。シュウは何かを思い出して、鞄を開ける。
「そういや、忘れてた。ゴウがやりたいって言ってたゲーム、持って来たよ」
 そう言って、シュウは白いカバーに入った携帯ゲーム機を渡す。
「中にソフトも入ってるから。返すのはいつでもいいからさ」
 渡されたものを見て、ゴウは受け取ることを躊躇った。
「ゲーム機ごとなんて……そんな、おじいちゃんに見つかったら」
「大丈夫だって! それに、ゲームとかアニメとか漫画とかダメ、ってさ、ゴウのおじいちゃんが頭固過ぎるんだって」
 家の事情も知らないで、ゴウは思った。もし、これが見つかったら、没収されるんだよ。わかっているのか、そう言いたかった。
 ただ、掌に乗せられた重みは心地の良いものであった。ずっと我慢していたのだ。この感触が、手の中に馴染むことを。
「……わかった」
「へへ、感想待ってるぜ!」
 鼻を擦って、シュウは能天気に笑っている。ゴウはそんなシュウを見ることが出来なかった。ふと足元に目線を移す。塗装されたアスファルトが、シュウとゴウの間で、色を変えていた。


 荘厳と目の前に立ち塞がる門を開け、ゴウはその中にある家へ帰る。大倉、と書かれた木の表札は、黒く焦げたようになっている。
「ただいま」
 この時間に家に居るのは、一人しかいない。ゴウは溜息を吐く。
 革靴を横に並べ、ゴウはそそくさと二階へ上がろうとする。
「待ちなさい」
 そんなゴウを呼び止める声が、廊下から聞こえる。白い靴下を履いている足が止まった。
 小さい中庭を挟んだ向こう側に、ゴウの祖父である、キヨマサの姿が見える。平成も二十四年経ったこの時代でも尚着物を愛用している。深緑のそれと、黒い帯がゴウの視界に入った瞬間、思わずそちらから顔を背けた。
「ゴウ、ちょっと来なさい」
 階段を上がろうとしているゴウの後ろ。キヨマサは腕を組みゴウの前に起ち塞がっている。側頭部に残された白髪交じりの頭髪。鼻の下と顎に髭を蓄えている。もう七十を過ぎたとは思えない程、肩幅が大きく、筋肉質の身体。威圧感がゴウの垂れる髪を突き抜けて、瞳の奥を抉る。
「おじいちゃん……」
「ゴウ、また買ったのか」
 キヨマサが片手に持っていた本は、見たことのある帯に包まれていた。
「こういうものは、教育上良くないと言っているだろう! 何度言ったらわかる!」
 怒号が飛び交う家の中に、父と母の姿はない。どちらも学校の教師をしている。帰ってくるのはどちらも夜だ。
「おじいちゃんは考え方が古臭いんだ。僕以外の頭の良い子だって漫画の一冊や二冊持っているのに!」
 このやり取りはもう何度目だろう。どうしても欲しくなって、少ないお小遣いを貯めて買った漫画を奪われたのは。
「こんなものを読んでいる暇があったら新聞を読みなさい」
 馬鹿の一つ覚えのように言われる言葉。この家には自由がない。 立派な教師になるために生まれてきたらしいが、ゴウの夢は教師ではない。そのことを伝えても、この家では通用しない。
 ゴウは奥歯を噛みしめるだけだった。漫画を奪い返す努力はせず、ただまた一冊、自分の元から消えていく勇者の物語を憂うだけだ。
 自分の部屋に帰ったゴウは、恐る恐る鞄からゲーム機を取り出す。やはり、これは明日返そう。無機質な茶色い木の机に置いたままにしたりして、見つかってしまえばシュウに申し訳ない。いつか心置きなく出来る日まで、ゴウは鞄に入れ直し、代わりに教科書とノートを取り出す。大きさと授業の時間順に整理されたそれらは、しっかりと勉学の為に使用されている机の上に置かれる。毎日の復習は欠かせない。
 本棚に詰め込まれた参考書と図鑑の数々。娯楽が一切排除された部屋。それでも、ゴウは耐えている。学校が、好きだからだ。
 両親の説得もあり、なんとか公立の中学への進学が出来た。キヨマサはそんな両親の考え方にも不満があるらしい。今のご時世、私学で高い教育を受ける方が良いに決まっている、と。その部分はしっかりと流行に乗っている。その代わり、今までは大目に見られていた漫画やゲームは没収されてしまった。もちろんテレビを見る暇はない。音楽も聞かない。大人との会話について行けても、周囲の流行について行けない。
 それでも良かった。漫画やゲームなんかよりも、大切なものがある。そこから切り離されたくなかった。
誰よりも、ゴウはシュウのことを、親友だと思っている。小学校に入学した当時、なかなか友達が出来なかったゴウに手を差し伸べてくれたのが、シュウだからだ。
「結果を出せばいいんだ」
それが、魔法の言葉だった。塾の時間を気にしつつ、ゴウは勉強の海へ飛び込んだ。


「シュウ君どうだった?」
「うん、元気そうだった!」
 ミツキは夕飯を作る母親のユズキの隣で手伝いをしている。使った食器をミツキが洗っている傍で、ユズキは夕飯のカレーを煮込んでいる。
「でも、いつもより元気なかったかも」
「そうなの? 確かに、シュウ君は学校休んだりしないもんね」
 味を確認し、笑顔でうなずくユズキは、野菜たっぷりの甘みが詰まった、香ばしい香りと共に尋ねる。ミツキは蛇口を止め、母に言った。
「多分、明日は大雨! それくらい、元気ない気がする」
「あら、じゃあミツキがシュウくんを元気づけてあげないとね」
 髪を後ろで一つに束ねて、ユズキは凛とした表情でミツキに言った。そんな母と似た後ろ姿のミツキは小さく頷く。
 食器洗いが終わり、ミツキはリビングでカレーの完成を待つ。その間に、ミツキはシュウへメールを送る。どこに遊びに行きたいか。何時に集まるか。このメールを作るのに時間はそうかからないはずだが、ミツキは中々、シュウにメールを送れない。書いては消し、書いては消しを繰り返す。綺麗に伸ばしてある爪がボタンに引っかかって、指が止まる。
 そろそろ、自分の気持ちに素直にならなきゃな、とミツキは思う。長い間シュウに抱く想いは伝えられないままだ。
「シュウは、気付いてるのかな……」
 多分、気付いてないよね、と自分でつっこんでしまうのが、悲しい。鈍感な男子を好きになったら大変だよ、と女友達に言われたことを、実感する。
「……早く、明日にならないかなあ」
 当たり障りのない文面で、ミツキはシュウにメールを送った。深くついた溜息に、ユズキは「青春ね」と言う。
「お母さん……そうやって茶化さないで。とっても悩んでることなんだから」
「存分に悩みなさいね。楽しいわよ、恋は」
 テーブルにカレーが置かれる。量が多いものが自分のカレーなのかと思ったが、ユズキはそちらの方に座った。
「あれ、お母さん、そんなに食べる方だっけ」
 少し前から気にはなっていたが、今まで少食気味だったユズキがここ最近食べる量を増やしている。決して不健康にはあたらないので、心配ではないが。
「最近お腹すいちゃって。ミツキも成長期なんだし沢山食べなさい」
「えー。あんまり太りたくないなあ」
 でも、ユズキが作るカレーはとてもおいしいから、いつもおかわりをしてしまう。席について、手を合わせ、いただきます、の合図とともに、スプーンでカレーをすくった。
「もうおかわりするって予約しとくね!」


「見込んだ通りね、二戦目でそんなに戦えるなら十分よ」
 ミツキがシュウに思いを馳せている頃、シュウはまた戦っていた。相手は前回のヴァニッシュではなく、また別の少年だった。酷く憔悴し、憎しみをむき出しにし、獣の姿となってシュウに襲って来たのだ。
「前回は相手が悪かっただけよ。酷く心をすり減らしていたようだけど」
 相変わらず姿を見せず、女はシュウに話しかけている。
「お陰様で皆勤賞の夢が……って、まあそういうのはいいとして、一つ聞きたいことがある」
 相変わらず毒々しい空を眺めながらシュウは尋ねる。
「顔を、見せてくれよ」
 操り人形のような扱いを受けている感覚に陥り、シュウの中では猜疑心を抱きつつあった。それに、この世界が一体何なのか、シュウにはまだ見当もついていない。だから、そのことも含めてシュウは知りたい、と思った。
「そうね、それに、集に与えた力のこともそろそろ教えてあげないと」
 カツ、シュウの後ろで、ヒールが弾む音が鳴る。
 ベージュ色の髪が、腰のあたりまで垂れている。OLのような出で立ちではあるが、服に収まり切らない胸の為に、上部のスーツとシャツのボタンが開いている。モデルばりの細長い足が、こちらに歩いてくる。シュウは緊張する。昂っていた脈動が落ち着いたと思えば、制服姿のシュウに戻っていた。
「貴方の、真っ直ぐな心。それが、この世界を変えられる。私はそう思って、貴方にこの力を与えたのよ」
 彼女の言っている意味が、シュウにはわからない。それ以上に、その美しい容姿に戸惑っている。目のやり場に困っているシュウを見て、女は笑った。
「あら、私の身体がそんなに気になっちゃうかしら……」
「あ、い、いえ、決してそんなことは」
「ふふ、正直者は嘘が下手ね。目が泳いでるわ」
 女は口角を上げる。ルージュの口紅が女の妖艶さをより引き立てている。
「……夢の世界へようこそ」
 オドオドしているシュウを尻目に、女は唐突に言った。シュウはその言葉に気付くも、思わず首を傾げる。
「夢の世界……それって……」
「平行世界みたいなものかしら。貴方たちが普段生活している世界とは別の、ね」
 フィクションの世界にのみ許された設定だとばかり思っていた世界。シュウの目の前に広がっている世界は、まさしくそれだった。
「まあ、前回のときはいきなり厄介な敵に遭遇しちゃったから、あっさり倒されてしまうんじゃないかって思ったわ」
 淡々と語る女は、細い腕を、制服姿のシュウの身体に伸ばす。冷たく張り付いた腕が、心地よい。
「そして、貴方の戦う姿が、今の貴方自身の夢。大事にしなさい」
 しなやかに波打つ細い指。シュウの胸の辺りから、下の方へと流れ落ちていく。服越しに感じるものが、思春期のシュウを内側から熱くさせた。
「え、あ、あの……えっと、オ、オレが、どうして襲われるのか教えてくれよ」
 緊張の面持ちでシュウは女に尋ねる。すると、大きな胸が顔にぶつかって、胸が詰まった。
「……集には、人を引き寄せる力がある。まるで、太陽のようね。だから、心を失った者は、貴方のような人間を憎むわ。眩し過ぎるのよ、貴方の持つ光が」
 女の言っていることは、彼女の視点からの発言であるために今一つ真意が読み取れない。シュウは自分が憧れのヒーローの姿になったことや、虚ろな少年に襲われること、この世界のこと、それぞれ分けて詳しく教えてもらいたかった。容姿に比べて、説明力は乏しい。
「オ、オレはとにかく、戦えばいいのか?」
「うーん、戦うというより、救ってあげて。心を失くした者たちの闇を、照らしてあげて」
 シュウは頷くことしか出来なかった。
「じゃあ、これ以上は集の身体に負担がかかっちゃうから、そろそろ『夢装』を解きましょう。じゃあ、またね、集」
「ちょ、何だよそれ!」
 最後に叫んだ言葉は、女には届かない。ハッと気が付けば、シュウは家の前に立っていた。徐々に夕暮れが空を包みつつあるが、帰る時間としては問題ない。
 だが、シュウの頭の中は疑問に包まれる。今、身の回りに起こっている異変に、思考が追いつかない。
「オレ、これからどうなるんだろ……」
 ポツリ漏らした言葉に、シュウは今、不安を感じた。
 家に帰ってもすぐ部屋に籠り、窓から町が夜に変わっていく様をぼんやりと眺めていた。気を紛らわすためにゲームでもと思ったが、生憎今やりたいと思っているゲームはゴウに貸してしまった。
 憂鬱な気分の中、シュウはついこの前に、ゴウに言われた言葉を思い出す。
『僕は友人として君のことを心配しているんだ。十四にもなってヒーローに憧れているなんて、恥ずかしいと思わないのかい?』
「オレの憧れかあ……」
 シュウにとっての憧れのヒーロー。真っ先に思い浮かぶのは、父親の背中だった。シュウにとっての誇りであって、目標。
 まるで、そんなシュウの心を悟ったかのように、ノックが鳴る。
「何しみったれてんだ! もうすぐご飯だぞ!」
 シュウが許可を出したわけでもないのに、ドアは開く。ジャージにTシャツという、だらしない部屋着姿で父親のタケオが、そこに立っている。
「お父さん……何で勝手に入ってくんだよ!」
「鍵かけてない部屋なら入っていいってことなんだよ」
 理由になっていない理由を述べて、タケオは窓際に佇んでいるシュウの元へ行く。樫の木のような手が、シュウの肩に置かれた。
「学校で嫌なことでもあったか? それとも、まだ具合が悪いのか? 言わないと、伝わるもんも伝わんねえぞ」
 言葉遣いに比べて、言い方はとても柔らかった。それがシュウの胸に響くと、シュウは思わず、瞼を閉じる。
「まあ……言いたくないことも、男にはあるもんだよな」
「……お父さん」
「そうしょげるなって。人生そんなときだってあるさ。でも、食うもんはちゃんと食ってないとな。下で待ってるぞ」
 そして、タケオはシュウの頭を撫でた。ゴシゴシと、撫でるというよりは、擦りつける勢いに近いが、それでもシュウは嬉しかった。
 消防士という職業は、子供の頃は男の子が憧れる職業の一つだ。防災訓練で学校に消防士が来て、校庭で消火訓練をする時の盛り上がり。そして、その中に自分の父親がいるとしたら、どんなに嬉しいことだろうか。橙の服は、ヒーロースーツのように映り、ホースから放たれる水流は、悪を滅する光線のようだった。
 昔から特撮が好きだったシュウは、人助けをするという職業に憧れている。警察や自衛隊、SPなど、テレビで紹介されるような職業はどれもシュウの目にはかっこよく映っている。
 その中でも、タケオの職業である消防士には強い興味があった。逞しい肉体は窮地から人を救うためにある、タケオはそう言って、常に鍛錬を欠かさない。それでいて、家族のことも愛してくれる。重い荷物は全て持ってくれ、休みの日は家事を手伝っている。授業参観も来られる時は必ず来てくれるから、シュウは消防士として、そして何より父として、タケオのことを誇りに思っている。キャッチボールが上手くなったこと、食べ物に好き嫌いがないこと、友達に意地悪をしてはいけないこと。本当に色々なことを教えてもらった。
 そんな父の手の温もりが、まだ頭の中に残っている。
「やるしか、ないよな」
 シュウは瞼を開く。藍色の空が、目の前に広がっていた。くよくよしてられないと、シュウは部屋を出る。誰も居なくなった空っぽの部屋にタイミング悪く、ミツキからのメールが届いた。


 翌日、シュウはゴウに朝早く呼び出される。朝は起きるタイミングがバラバラなため、三人一緒に学校へ行くことはない。
「やっぱりこれ、返すよ」
ゴウはシュウに貸してもらったゲーム機を返そうとする。
「え、やってないんだろ?」
「でも、見つかったらいけないから」
 見つかってしまえば、きっとこのゲームは帰って来なくなる。それは絶対に嫌だ。そんなことになるくらいなら、ゲームはしなくてもいい。ゴウはそう決心する。
「僕の家が厳しいこと、シュウも知ってるよね。だから……」
 ゴウは厳しい表情でシュウに伝える。しかし、シュウはゲーム機を受け取ろうとはしない。小学生の少年少女がランドセルを背負って学校へ向かっている道路の端で、二人の少年は立ち止まったままだ。
「いいって。隠れてやればいいじゃんか」
 事情を分かってくれないシュウに、ゴウは糸を切った。
「僕はシュウのことを想って言ってやっているんだ! それがどうしてわからない!」
 ゴウだって、我慢はしたくないが、しなければならない事情がある。それをわかってくれないシュウに、ゴウはついに怒りをぶつける。
「僕はシュウみたいに呑気に生きていくわけにはいかないんだ!」
 ゴウは無理矢理ゲームをシュウの手に持たせ、学校の方へと走って行った。ゴウの手の温もりがそこに残っていて、シュウは彼の背中が消えていくまで、そちらの方をぼんやりと眺めていることしか出来なかった。
 その日、シュウとゴウは一度も話さなかった。ゴウは普段から特に変わらないポーカーフェイスを保っているが、シュウは太陽の如く明るい笑顔を雲の中に隠していた。それを何も知らないミツキは、ちゃんと見ていた。昨日よりもますますシュウの元気がなくなっていることを。
 その日のホームルームが終了し、授業が全て終わる。ゴウは帰り支度をすぐに終わらせてしまって、シュウの方には目もくれずに帰って行った。
「シュウ、帰ろう」
 教室からぞろぞろと流れ出るクラスメイトの波を見つめているシュウの肩を、ミツキはポンと叩いた。シュウはそれに驚いて、ミツキの方を見た。ホッと息を吐くシュウは、どこか小さくミツキの瞳の中に映っていた。
 つい先日、ゴウと二人で帰ったばかりだというのに、今度はシュウと二人きりで帰ることになるとは思っていなかった。学生の群れが車の行き交う忙しい道路の端を歩いている中、シュウとミツキも例に漏れず、気休め程度の白線の中を歩いていた。
「ちょっと機嫌が悪かっただけだって」
 ミツキはまだまだ浮かない顔をしているシュウを励ます。だが、ゴウに言われたことのイメージが中々大きいのか、シュウはまだ、その視線を地面に落としたままだった。先程まで降っていた雨で濡れているアスファルトは、熱が逃げていく香りを吐き出している。
「……ありがとう、ミツキ。だよなあ、あんまり考えてたって仕方ないか」
 ミツキにはシュウの言葉が雨上がりの天気と重なって聞こえた。まだ晴れ渡ったとは言えない、それでも雨は収まった、そんな空模様のような。
「そうだよ! いつもみたいに元気なシュウでいてほしいからさ!」
 考える、なんて言葉は、シュウに似合っていない。ミツキは思っている。真っ直ぐに突っ走って、自分やゴウを巻き込んでいく、それがシュウらしさ。行き過ぎた時は、二人がシュウのストッパーになる。ミツキが描く、三人の関係だ。
「ほら、前にシュウが猫を助けた時だって、私たちは見てるだけだったけど、シュウは助けに行ったことがあったでしょ。私たちじゃ出来ないことを、シュウはやっちゃうの。ゴウだって、そんなシュウが、好きなんだよ」
 二人でお見舞いに行った前の会話は、よく覚えている。ゴウがポツリと漏らした言葉は、きっと真実だ。
「アイツがいないと、世界から太陽が消えたような感じだ」
 そう言った後、ミツキが笑ったことに対し、顔を赤くしてゴウは「シュウには言うなよ」と釘を刺した。勿論、ミツキはシュウにそのことを言うつもりはない。
「だから、元気出して」
 ニュアンスとしては、ミツキやゴウの為に元気を出して、とも取れなくない言葉。しかし、シュウは顔を上げて、ミツキに白い歯を見せる。
「ああ、そうだな!」
 二人しかいないいつもの交差点。シュウは昨日タケオに言われたことも思い出す。煮詰まったままでいるのは、性に合わない。
「希望の光が輝く限り、オレの命は色褪せない! だな!」
 エクステンドレッドの、決め台詞とポーズを真似て見せるシュウ。ミツキはそこに、本物が居るような気がした。
「うん! 正義は、必ず勝つんでしょ!」
「ああ! 必ずな!」
 ささやかな日常には似合わない言葉を交わす。ただ、シュウにとってもミツキにとっても、これが当たり前の日常だ。


「良いお友達ね」
 ミツキと別れてすぐ、次元を割るようにあの女が姿を現した。
「わっ! き、急にどうしたんだよ!」
 ショウは驚いて尻餅をついた。アスファルトに打ち付けられた臀部がジリジリと痛む。
「また、彼らが集の心を奪いに来たのよ」
 女はそう言うと、集の頬に手を伸ばす。成長期の少年の肌は、瑞々しい。
「じ、じゃあ、戦わなきゃな!」
 シュウは真っ直ぐな瞳で女の顔を見る。そこで、シュウは一つ、聞き忘れていたことを思い出す。
「そういや、名前は?」
 シュウに尋ねられると、女は束ねた髪を振り、煙草を吸うように息を飲み込んだ。
「ないわ。名前なんて」
 名前なんてない、女の発言に、シュウは耳を疑った。怪しく空を包む雲が近くなっても、シュウは女をずっと見ていた。
「とにかく、この戦いが終われば、また話してあげるから。さあ、行きなさい、貴方の光で、彼らを救ってあげるのよ」
 女の手が、シュウの胸に置かれる。眩い光に包まれて、シュウはまた、変身する。憧れのヒーローになったシュウは、一つ拳を握った。
 住宅地の一角にある公園にシュウは向かう。三人が別れる交差点の所にあるだだっ広いだけの公園とは違い、滑り台やブランコなど、遊具が揃っている。
女曰く、そこにターゲットがいるらしい。言われるがままにマントを靡かせ、シュウは大地を蹴り飛ばた。
 普段は子供たちでにぎわっている公園も、流石にこの一瞬ばかりは静まり返っている。歩道に溢れている自転車もない。
一先ず、シュウは中に入っていこうとする。すると、公園の周囲に生い茂る木々が、ざわざわと揺れ始めた。シュウは立ち止まり、攻撃の構えを取る。
「お兄ちゃんも、こっちにおいでよ」
 公園の方に気を取られていたシュウは、自分の真後ろに少年が居ることに遅れて気付く。慌てて振り返り、シュウは問う。
「……キ、キミはどうしたの、何か、嫌なことでもあったのか?」
 見た目は小学校高学年の少年。短い黒髪に、膝が見えるズボンは、子供らしい服装。ただ、頬に残る涙の跡が、痛々しくシュウの目に映った。
「お兄ちゃんは、いいなあ。家族も、友達も、あったかくて」
 よろよろと歩く少年。その瞳が、赤く輝き出す。
「集、安易に戦ってはダメよ。前も言ったけど、貴方に与えた力は、心を失った者を救う力。その手で、彼の心を、闇の底から引きずり出すのよ」
 シュウは頷く。そして、拳をまた、強く握った。
「毎日、毎日、勉強ばっかで、友達もいなくて……ボクはどうしたらいいの……ねえ、教えて、教えてよ!」
 少年の叫びが、シュウの胸に突き刺さる。
 その叫びは、聞いたことがあった。
「実は、オレにもそんな友達がいるんだ。その子もおじいちゃんがすごく厳しくて、むしろ、何でオレたちと同じ学校に通ってるんだろうって思うくらいなんだけどさ……でも、そいつは変わったんだ!」
 こういう時に、ミツキやゴウなら、的確に、その場に合った言葉を言ってくれる。上手く言葉が見つからないことが、シュウには歯がゆくて仕方がない。それでも、シュウの胸の奥にたぎる思いを真っ直ぐに伝えることしか出来ないと、シュウは少年の目をじっと見つめ、続けた。
「教室でずっと一人で、それじゃ寂しいだろって、オレが伸ばした手を、最初は取ってくれなかった……でも、今じゃ、オレの親友なんだ! キミだって、本当に友達が欲しいなら、手を伸ばさないと、何も掴めないぞ!」
「ボクのことなんて何も知らないくせに! ボクはお父さんの跡を継いで、立派なお医者さんにならなくちゃいけないんだ……でも、ボクは野球がしたいんだ……お医者さんなんてなりたくない!」
「じゃあ、何でそんな大事な想いをオレなんかにぶつけてるんだよ! キミがそれを伝えなきゃならないのは、オレじゃないだろ!」
 シュウは息を切らして、少年の心へと叫びを突き刺した。すると、少年は黒い光に包まれる。そして、黒い装束に身を纏った。赤と青のオッドアイが、シュウを羨望の眼差しで見つめている。
「来るわよ。ここからは存分に戦いなさい。シュウが思い描く戦い方で、ね」
 女の指示に、シュウは頷く。
「それでも無理なら、オレがキミの友達になってやるよ!」
 女の指示とは裏腹に、シュウは両腕を大きく広げる。こっちに来いと、言わんばかりに。少年は銀髪を揺らして、シュウに指を差す。少年の影がシュウの足元に伸びると、地面から波のように黒い影が押し寄せる。
「そんなんで来ないで、自分からぶつかって来いよ! 遠いところから叫んだって、気付かれなかったら意味ねえんだから!」
 影はそのままシュウの身体に巻き付いた。締め付けられる痛みに歯を食いしばり、シュウは訴えかける。
「くっ……何逃げてんだよ!」
 少年の指が震え始める。シュウの声が、少しずつ少年の心の奥に届く。影が緩むのを感じ取ると、シュウは力いっぱいに影を振り払う。あっさり解放されたシュウは、掌を空に向けて掲げた。
「なら、オレの精一杯をぶつけてやる! キミの壁を、ぶち壊すために!」
 剣を手にしたシュウは、緊迫した場面に関わらず、おどけて笑った。
「そしたら、友達になろう!」
 少年に、もう戦意はなかった。トドメを差す前に、姿が元に戻る。元に戻った少年は、目こそ腫れていたが、笑ってくれていた。
「もう、キミの闇は晴れたぜ! 諦めるなよ、まだまだオレたち子供だろ!」
シュウが鼻を擦りながら言う。少年は、涙を流しながら笑っている。憎悪をむき出しにしていた先程までとは違う。こんなにも、笑顔は、明るいのに。
「ありがとう……ボク、頑張るよ……お兄ちゃん」
 少年の姿が、どんどん透明に変わっていく。まるで、この世界から消えてしまうかのように。シュウは手を振る。また会えると良いな、そう付け足した。最後は、砂のように細かい光が、空へ散って行った。
「元気でな……」
 そう呟いて、シュウは変身を解く。元の自分に戻り、隣に降り立つ女が、シュウの方を向いた。
「もっと、知りたいんでしょう、この世界のことを」
 シュウは頷く。
「何も知らない世界で戦い続けるのは、不安なんだ」
「それもそうね。でも、あまり話さないで、って言われているの」
 女は長く、鋭いナイフのような人差し指でシュウの唇に蓋をした。
「だ、だふぇに」
「それは言えないわ」
 でも、と女は続けた。
「人は、誰もが夢を見る。例えば……あの少年は、こんな姿になりたいのよ」
 女が指を鳴らす。すると、シュウの前に突然、人の姿が浮かび上がる。恐らく、少年の憧れている、野球選手。見た目はアイドルのようにかっこいいが、キャッチャーとしてピッチャーをリードし、チームの司令塔として活躍している選手だ。
「彼が憧れている人物。そして、夢。ただ、彼の中ではこれは叶わないものだってわかっている。そんな夢さえも、彼は奪われそうになっていたのよ」
「だ、だふぇに」
「夢喰い、私たちはそう呼んでいるの」
 女はまた、指を鳴らす。野球選手の姿が変わり、シュウが今までに相対した少年たちが現れる。
「夢喰いは人の夢を己の欲望のままに喰い尽くしていくわ。そして、夢を奪われ、心を失った人間も夢喰いになる。連鎖的に、夢喰いは増えていくの」
 シュウはどこか、ゾンビを思い浮かべる。映画やゲームの中に出てくるような。
「厳密には、夢喰いは例外を除いて、夢を失いかけそうな人間の心を喰らう。未来を見失いそうな人間に取り入って、この世界の色に染めてしまうの。そして、心を失った人間は、その存在をも失ってしまう。まるで、初めからそこに存在していなかったかのようにね。まあ大体は、存在が失われてしまう前に、自ら命を絶ったり、原因不明の死に方をしたりするから、勝手に消えてしまうのだけどね」
 シュウは口を開けたまま、ボンヤリと頷くしかなかった。
「ただ、問題なのは、その対象が、子供たちに広がっていること。今までは、こんなことなかったわ。まあ、少なくとも貴方には夢があるでしょう? 消防士になりたいのではなくって」
「あ、うん……お父さんみたいな、消防士に」
「でもね、みんな夢を持たなくなった。というか、持ちにくくなった。お陰様で、虚ろな人間の心がこっちの世界に滞留し始めているわ。ここままだと、加速度的に、心の消失が進んでいくわ」
 心の消失。母親に教えてもらったことを、シュウは思い出す。心を亡くすと書いて、忘、という漢字が完成すると。
「色んなことを忘れていく世の中よね、今は。でも、忘れていることにも気付かないの」
 忘れていく。気付かない間に忘れていく。女はシュウの頭を撫でる。忘れないように、忘れないようにと念じているようだ。
「貴方をこの世界へ連れて来たのは、貴方の力が、必ずこの世界を晴らしてくれると思ったから……。純粋で、ひたむきで、穢れのない貴方の心なら、救えると思ったからよ。私たちには、その心がないから……それにしても、十四にもなってヒーローに憧れる子供なんて、久々に見たわ」
 シュウは少し恥ずかしくなる。
「べ、別にいいじゃねえかよ」
「ふふ、でも、もう少ししたら、オタクだって気持ち悪がられるかもよ、好きな女の子に」
「う、うっせえな! それに、あいつは、絶対そんなこと言わねえし」
「……そう。まあ、せいぜい儚い夢を、持ち続けられるだけ持ち続けなさい。集、私は、貴方を信じているわ」
 その声は、とても美しく、それでいて、壊れそうだった。シュウが言葉を返そうとすると、もうそこには、女の姿はなかった。それどころか、元の世界へ戻っていた。
 割と、空は曇っている。シュウは大きく、息を吐いた。


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