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永遠と一瞬(2011年文化ウィーク冊子掲載作品)
「私達の住む世界、レクセールは、自然に溢れた、美しい世界です。この星が出来て十数億年が経ちましたが、今でも数多くの生物が生きています。また、ここ数百年の間に私達は日々の生活を豊かにするための物を沢山作りだしました」
 教科書には、自分の住む世界のことが、人間視点で事細かに記されている。
「便利な機械が発明され、人々の生活様式は多様化しました。そんな中でも、人はこの世界の全てと共存できる存在であります」
 そこには、とても美しい世界が描かれていた。
 とても美しい世界が。


授業が全て終わり、ニルスは帰ろうとする。鞄には教科書を授業のあった順に並べて入れ、しっかりとファスナーを閉める。
「今日もお疲れ。帰ろっか」
 後ろから、元気な声がする。誰なのかを、ニルスはわかっていた。
「そうだね。一緒に帰ろう」
 手に鞄を持ち、声のあったほうを向く。そこにはニルスの親友であるユリアが立っている。肩に若干届いている程度の、橙色をした髪が教室に吹き込む風で揺れていた。
 二人は、小さい頃からの幼馴染である。遊びに行く時はいつも一緒で、それは十五歳になった今でも変わらない。これからもそのつもりである。クラスの生徒からは、二人はもう付き合っているという噂も流れているが、今のところはお互いにそのような申し出はない。友達以上恋人未満という言葉がよく似合っている。
 雪の舞う季節も、もうすぐ終わりを告げようとしている。あとひと月もすれば、卒業という大イベントが待っている。ちなみに、二人は進路を既に決めている。ニルスは父親のエドガーが首領を務めている戦士ギルドへの入団を決め、ユリアは両親が経営しているパン屋の跡を継ぐことにしている。二人とも、卒業してからもこの町、アルザスに住むことが決まっているため、別段別れを気にする必要はなかった。
 レンガ造りの道を真っ直ぐ歩いて行く。町の中心にある時計台前の広場までは、二人とも帰る道筋は同じである。
「ニルスの成績が私にもあれば、高校に進学したのになあ」
 ユリアは白い溜息を吐く。中身のない鞄がブルンブルンと上下に振られている。教科書は教室に置いて帰るものと、ユリアは常々口にしている。
「ユリアは勉強しなさすぎなんだよ」
「だって、勉強嫌いなんだもん」
「じゃあ、仕方ないよね」
「ニルスこそ、その学力をどうして生かさないのかな。ギルドなんていつだって入れるじゃない」
 ニルスは苦笑する。ユリアの言う通り、ニルスは試験では常に学年で一桁の順位をキープしている秀才である。周囲からは高校進学を確実視されていたが、蓋を開けてみれば誰もが予想していない選択肢を選んでいたのだ。
「でも、高校はレクセールに三つしかないんだよ。どこもここからは遠いし、試験は大変だし。それよりも、僕は単純にギルドに入りたかったんだ。お父さんも、お兄ちゃんもいる、あのギルドにさ」
 それにしても勿体ない、ユリアはそう思っている。
「まあ、いいけど。ギルドの一員になったら、ちゃんとこの町を守ってよね」
「もちろん」
 ニルスは自信を持ってそう答えた。
時計台に着き、二人は別れる。噴水のある広場はいつも人が沢山いる。露店が立ち並び、手品を披露するピエロがいつも子供の注目を浴びている。昔は二人でよくそれを楽しんで見ていたが、最近はそうでもない。
 家に帰ったが、誰も居ない。母は、恐らく買い物にでも行っているのだろう。ニルスは二階にある自室へ入り、着替えを済ませる。中学入学の際に体の成長を考え、大きめのブレザーを購入したが、結局このブレザーが最後まで体に合うことはなかった。成長期は、まだ当分先らしい。
 ニルスはベッドに横になって、ぼんやりと天井を見つめる。白い壁紙が少しくすんで見える。掃除をしないといけないな、そんなことを思っているうちに、眠気が襲った。
いつの間にか、ニルスは眠っていた。時計の針は午後六時を指していた。母ももう帰っている。シチューの香りがした。


 父のエドガーと兄のハンスは、最近中々家に帰ってこない。遠方で、重要な任務があるのだ。二人以外にも多数のギルドの人間が任務にあたっているらしい。長い戦いになると、父は言った。
 そんな世界にニルスは飛び込むのだ。
「ニルスは、ギルドでどんな職業に就きたい?」
「そりゃ、お父さんやお兄ちゃんみたく、剣士になりたいな。でも、人の助けになる仕事なら、何でもしたい」
 母のリナは、息子の成長を嬉しく思っている。確かに、高校へ行き、勉強をすることも大事だろう。しかし、本人が目指す道を親が止める必要はないというのが、リナとエドガーの教育方針である。
「そっか。頼もしくなったね」
「そう?」
 少し、ニルスは照れている。このあたりはまだまだ子供である。
「でもね、ニルスはニルスらしくあればいいの。お父さんやお兄ちゃんみたいになれなくても、あなたには、あなたの強さがあるんだから」
 そう言うと、リナは優しくニルスの頭を撫でる。年頃の少年にはこんなことをするとよく嫌がられると聞くが、今のところニルスは嫌がる素振りを見せない。それは嬉しくもあり、悲しくもある。
「こういうの、嫌じゃない?」
「ううん。好きだよ」
 真っ直ぐな一言に、リナは安心した。
「お母さん、どうしたの」
「何でもない」
リナは青色のカチューシャを取り、テーブルに置く。何年か前にニルスが誕生日のプレゼントとして買ってくれたものだ。
「さ、もう、寝なさい。明日も学校でしょ」
 照れたような顔をしているリナを見て、ニルスは「おやすみ」と言った。
 ニルスは二階にある自分の部屋に戻る。整理整頓がなされた部屋に一人で居ると、たまに寂しくなることがある。
「いつ言おう……」
 ニルスは、右手の人差し指を天井へ向けた。
 ニルスには、人に言えない秘密があった。

  ◇ ◇ ◇

 レクセールに住む人間は、かつては魔法を多く使用していた。
しかし、化学や工業技術の発達により、年々魔法を使う慣習が薄れ、今では、魔法を扱える一般人はほぼいなくなっている。
 魔法には種類が色々あって、攻撃や防御など、戦いの道具に使用される魔術、魔物を呼び出す召喚術、そして、傷を癒す治癒術という魔法が存在していた。特に治癒術は、医学が発達していなかった頃には重宝されていた。さらに、術師の技量次第では、瀕死の人間すら救えてしまう、いわば奇跡の魔法だった。
 しかし、それはある時、とんでもない惨事を引き起こした。
 ある日、死人が動き出すという怪事件が勃発した。人体実験を行っていた研究所で事故があり、治癒術により肉体を取り戻した人間が近くの町を襲ったのだ。彼らは理性というものを持ち合わせていなかった。人の声には耳を傾けず、人を襲い始めた。血を吸い、肉を引きちぎる。食物連鎖の頂点に立とうとしていた。
 歴史的にも、この事件は文献にも残されている。また、このことがきっかけで、魔法自体が忌み嫌われるようになる。どれも争いしか生まないという結論に至ったのだ。現在では、子供の頃から治癒術を含め、魔法とは悪しき力であると教えるようになっている。そして、治癒術の使い手は、死人すら甦らせることの出来る悪魔の使者だと呼ばれるのだ。

   ◇ ◇ ◇

 実のところ、ニルスは治癒術を使うことが出来た。以前、包丁で指を切ってしまった時、その傷口を抑えた手の中で、傷が消えたことがあった。痛みもなく、違和感もない。
 理由はわからない。簡単に言ってしまえば、素質があっただけのことなのだろう。しかし、現代には必要とされていない物だ。邪魔な物を両腕にぶら下げていては、掬える光も掬えない。ただただ、歩きにくいだけだ。
 自分の力に気付いたのは、十三歳の時。二年経った今もずっと、この悩みに苦しんでいる。しかし、相談できる相手がいない。家族にも、友達にも打ち明ける勇気がない。しかし、このままではいけない、そう思っていた。

   ◇ ◇ ◇

 それから一週間が経つ。
 まだ、父と兄は帰って来ない。
「お父さんとお兄ちゃん、まだ帰って来ないんだよな」
 ユリアに言うと、彼女は「大丈夫でしょ」とだけ告げる。
「わかんないよ、そんなこと」
 学校の帰りにしては、重たい話の内容になる。ニルスはユリアにちゃんと聞いてほしかったのだが、ユリアはあまり興味がないのか、返事が軽い。
「あのさ」
 しばらくの沈黙の後、二人は話を切り出そうとした。しかし、同じタイミングで同じ言葉を発してしまう。ニルスが譲ると、ユリアは大きく息を吸う。
「ニルスのこと、ずっと好きだったの」
 すぐにでも、「僕も好きだ」と言いたかった。
 しかし、それより先に、打ち明けなければならないことがある。震える手を握り締め、決心する。
「私、ニルスが何処へ行ったって、ずっと好きでいられる自信があるの。だから、私と……」
「ごめん」
「え……」
「僕、ユリアに黙っていたことがあるんだ」
「何」
「魔法が、使えるんだ」
 ニルスは鞄からカッターナイフを取り出す。刃を少し出すと、指先にそれを突き立てる。血が出る様子を、ユリアは見ていられなかった。
 しかし、カッターを持っていた手をそこにかざすと、うっすらと青い光が発される。そして、傷口は跡形もなく消えていた。
「こんな僕でも、いいなら」
 まるで、手品でも見せられているようだった。そしてユリアは、手品であってほしいと願った。いつもの広場では、今日もピエロが子供だましの手品をしている。ニルスもそれと同じだと思いたかった。
「ごめん」
 今度はユリアが謝る。気持ちの整理が全く出来ない。
「……そうだよね。普通、こんな人間と、一緒に居るの、嫌だよね」
 二人の間を埋めるように、粉雪が舞う。何も知らないそれは、ただただ意味もなくレンガの上に溶けていく。黒いシミを作るだけで、積もる様子は全くない。
「ごめん、ホントにごめん。こんなこと言わなきゃよかったね」
「待って、ニルス、私……」
 ユリアはニルスの顔を見て、何も言えなくなった。泣くでも、怒るでもない、無表情。雪に紛れてはっきりは見えないが、ニルスの心が傷つけられたのは確かだった。
「でも、いつか言わなきゃって思ってたんだ。このことは、家族にも言えてないから」
 ニルスは気づけば笑っていた。
「大好きだよ。だから、ありのままの自分を知ってほしいんだ」
 複雑に、一瞬で変わる表情は、天気のようだ。雪はすぐに降り止み、図々しくも太陽がまた顔を出す。
「私、それでもニルスが好きだよ」
 嬉しくなって、ニルスは思わず、ユリアの体を抱きしめる。お互いの鼓動が交わって、生きていることを証明する。
 今は忌み嫌われる治癒術は、昔は普通に使われていたのだ。それを、今はただ使われていない、そんな理由だけで人を嫌うのは、あまりに短絡的すぎる。ユリアは、ニルスを怖がった自分を責め、そっと涙を流した。
「ニルスの背、やっぱり足りないね」
「そうだね」
 二人にとって今必要なものが、ニルスの身長だということを知ると、気持ちは楽になった。
 家に帰り、ニルスはリナにも黙っていたことを話す。返答は「じゃあ、もう家に絆創膏は要らないわね」だった。母親は偉大だ。むしろ今まで隠してきたことに罪悪感を感じる。
 本当に、この世界では治癒術が敬遠されている存在になっているのか、ニルスは不思議に思うようになった。受け入れることが出来るのは家族だからか、また、好きな人だからか。今のニルスには、そんな疑問が浮かぶ。
「そうだ、ニルスに言い忘れていたことがあったわ。お父さんとお兄ちゃん、明日のお昼には帰ってくるって」
 いつもの明るく、優しいリナの声色が、さらに温かみを増しているようにニルスは思えた。きっと、二人が帰ってくることが嬉しいのだろう。そして、ニルスも同じ思いである。ただ、今日ユリアやリナに言えたことは、二人にはまだ言わないでおこうと思った。任務終わりだし、疲れているだろう。出来れば落ち着いた時に聞いてもらおうと、ニルスは考えたのだ。
「明日は学校か」
 今まで、ニルスは学校を一度も休んだことがない。しかし、明日くらいは休みたいなと思った。

   ◇ ◇ ◇

 翌日の昼過ぎ。リナは一人、駅のホームで二人の帰りを待っていた。
赤い色をした列車は、金属音を奏でてこちらへと近づいてくる。初めは小さく視界に残っていたものが、あっという間に視界を埋め尽くす。列車はゆっくりと動きを止め、その合図となるベルが響き渡る。扉が開くと、そこからぞろぞろと人が流れ出る。その中に、列車から沢山の荷物と共にエドガーとハンスが降りて来る姿をリナは発見した。
「お帰りなさい」
「ただいま!」
 ハンスは元気な声で、そう言った。父親譲りの凛々しさには磨きがかかったようで、遠征は大変だったとは思うが、一回り成長して帰ってきてくれたようだ。そして、ハンスの後ろからはエドガーがゆっくりと歩いて来る。
「ただいま。元気だったか」
 エドガーはいつも、自分のことよりも他人のことを大切にしてくれる、ギルドの首領の鏡である。真っ先に、リナのことを気にかけるようなことを言うエドガーに、リナは微笑む。
「たまには、自分の心配をしたら。私も、ニルスも、元気だったわ」
「なら良かった」
 首を一周させ、エドガーは一度、荷物を下ろす。ギルドの首領の証である金色に輝く鎧と真紅のマントは、戦いのないこの地でも闘争心を感じさせる。
「さっさと帰ろう。あんまりこの格好で出歩くのは好きじゃない」
 その割に、所有者の気持ちはそれとはかけ離れている。周囲からはよく、派手なものが好きだと勘違いされているようだが、エドガーは服から装飾品まで地味なものが好きなのである。
「そうね。二人とも、今日はゆっくり休んでちょうだい」
 リナは笑顔で言う。二人が無事に帰ってきてくれたことが何よりも嬉しいことであり、ほっとしているのだ。基本的に二人は任務の内容を教えてはくれない。外に情報を漏らすことがタブーだということはわかっている。しかし、任務の内容がわからないことは、不安なのだ。連絡があっても、心配は消えない。怪我でもしていないかと、気になって仕方ないのだ。だから、こうして目の前にいる二人の存在が、リナには元気になる特効薬となる。
「早く帰って、ニルスにも会いたいな」
 ハンスは武器や治療器具などが雑多に入れられた大きなリュックを背負う。鉄で出来た鎧が軋むような音を立てる。革で出来た茶色いマントが背中に張り付いた。


 同じ頃、ニルスは授業を終えて、急いで帰路に着こうとしている。普段は丁寧に入れる教科書たちは、今日は順序などなく無造作に入れられている。
「流石に、今日は早く帰るんだ」
 ユリアはいつも通り、ニルスの隣を陣取る。
「そうだよ。今からなら駅に行っても間に合うかな」
「ニルスの足なら、大丈夫なんじゃない?」
 一見すると、ニルスはあまり運動が出来るような少年ではない。同年代の男子に比べて体格が一回り小さいのが、そう思わせている。しかし、いざ短距離走のタイムを計れば学年で一番速く、どのスポーツも万能にこなせるのだ。
「ユリアも来る?」
「え、いいの?」
「いいよ」
 ユリアは嬉しくなって、飛び上がって喜んだ。エドガーは町の住人からも慕われており、人気がある。特に、仕事終わりの姿は貴重である。
「そうと決まれば、早く行こうか」
 ニルスは鞄を持ち、足を一歩踏み出した。
 その時、教室に居た生徒は皆、外を見た。爆発音が、町に轟く。ニルスは、目を疑った。
「駅……まさか……」
 ニルスは、一目散に教室を出る。
「ニルス!」
先程まで居た場所には、鞄が取り残されている。それを拾い上げると、ユリアはニルスの後を追った。ユリアも運動神経には自信がある。しかし、ニルスの足に関しては、ついていける自信はない。それでも、ニルスを一人で行かせるわけにはいかなかった。ニルスは優しい人間だ。それゆえに、傷つきやすい。
 ニルスは快足を飛ばし、人の波に逆らう。きっと、大変なことが起こっていることには違いない。それでも、向かわなくてはならないと、決意する。これからはギルドの一員になるのだから、ここで怖気づいていてはいけないのだ。
 時計台の広場から、大通りへと抜ける。混乱する人の群れをなんとか掻い潜り、黒煙を頼りに進んでいく。そのずっと後ろに、ユリアは居た。ニルスの姿がどんどん小さくなっていく。昨日はあれほど近くに感じた温もりが、今日は遠くに感じる。それは仕方のないことなのかもしれないが、恐らくニルスは自分がこうして背中を追いかけていることを知らないのだろうと、ユリアは思っていた。
 雑踏に塗れる自らの荒い呼吸。立ち止まって初めて、ニルスは自分が何も手にしていないことを知る。駅前にも、花時計のある広場がある。しかし、普段のような賑わいはない。大切な人の帰りを待つ人間はなす術もなく、駅の出入り口に張られたロープの手前で、立ち尽くしている。大きな駅の建物自体に損傷は見受けられなかったが、その先には、逃げている人を誘導するために奔走しているギルドの面々の姿が見受けられた。
「ニルス!」
 後ろで、力強い声が響く。振り返ると、そこには息を切らして二つ鞄を持つユリアが居た。
「ユリア、どうしてここに」
「絶対に、私は味方になるから」
「え」
 そっと握った手は、実際のところ震えていた。
「ニルス」
 また、違う場所から声が飛ぶ。今度はリナの声だ。ニルスを見つけると「やっぱり来ちゃったのね」と苦笑した。しかし、引き締まった表情は、恐れなど微塵も感じさせない。ニルスは、二人の帰りを待っている長い時間よりも、今起きている事態の中に、二人が居ることにより強い不安を感じている。リナは真逆だった。ここにちゃんと、エドガーとハンスがちゃんと居ると思わせるような、そんな雰囲気さえ感じられた。
「魔物が突然現れたの」
 ニルスはどういうことか、理解できなかった。こんな平和な世界に、そんな悍ましい生物が存在していることに。
それにエドガーとハンスは、戦いを終えた帰りなのだ。この平和な土地に戻ってきたばかりなのだ。
「どうして、この町に……」
「そんなことはどうだっていいわ」
 戸惑うニルスを諭すように、リナはニルスの頭をそっと撫でる。
「二人はまだ、ホームに居るわ。そこには逃げ遅れた人がまだいるみたい。二人はその人たちを助けて、必ずここに戻ってくるわ」
 リナがそう言った時、ホームから人が数名現れる。そこに、見覚えのある鎧とマントを纏った青年の姿を捉えた。
 ハンスは足を怪我した人を背負い、無事に戻ってきた。
「お兄ちゃん!」
 その声に反応したハンスは、手を振り返してくれた。
「ただいま」
 ハンスは数名の仲間と共に、人命救助にあたっていた。幸いにも、怪我人は少ないようだ。
「たまたま、ギルドのみんながここに居たから、魔物が来てもすぐに対応することが出来たんだ」
 ハンスは落ち着いていた。
「とりあえず、その人の治療が先ね」
 リナがそう言うと、ハンスは顔をしかめた。
「治療するための道具がないんだ。治療のための道具はさっきの戦いの最中に壊れたみたいでさ。このまま、近くの病院まで行こうと思う」
 当の男性は、痛みに顔を歪めている。どのような怪我なのかはわからないが、足首を気にしているようだった。
 ユリアは、ニルスのほうを見る。自分なら、助けには行かない。心の中で呟く。ニ、三〇人は居る場所で、悪魔が使う力だと説かれてきた自分を含め、人間たちが、ニルスを受け入れてくれるはずはない。
しかし、行動予測は当たっていた。ニルスはロープを越える。
「おい、戻れ」
 ハンスの言葉を無視し、ニルスは男性の足首に、そっと掌をかざした。
「痛く……ない」
 僅か数秒の出来事だった。男性は怪我をしていたほうの足を見て、ニルスの存在を確認する。
「君、もしかして……」
 男性の表情は、痛みが消えた安堵からすぐに、ニルスを畏怖するものへと変わっていった。こうなることはわかっていた。でも、体が勝手に動いたのだ。この力で、痛みや苦しみが和らぐのならと思っていたのだ。ただ、それが思い上がりだとわかるのに時間はかからなかった。男性はハンスの背中から降りると、彼の帰りを待ちわびていた女性と共に、逃げるように去った。
 ニルスは視界を三六〇度回転させる。同じように怪我をしている人の表情は、歯医者で自分はどこも悪くないから治療はいらないんだと泣き喚く子供のそれに似ていた。
「誰か、首領を助けてくれ!」
 冷え切った世界を、一つの叫びが一瞬で切り裂く。奥のほうから、男性の声がした。
 出入り口へ繋がる、長い階段。一段のぼる毎に聞こえる掛け声。一人、また一人、ギルドの面々はそちらへ駆けつける。
「行くぞ」
ハンスは、ニルスを連れてそちらへ行く。先程とは打って変わって、深刻そうな表情をしている。
 仲間たちの手助けもあり、最後の最後に救助されたのは、皮肉にも率先して民間人の救助にあたったギルドの首領、エドガーであった。大理石の床にそっと置かれたエドガーの体には、本人のものか、魔物のものかはわからない血に塗れていた。
「首領!」
 一人が呼びかけると、「もう他に人はいないか」とエドガーは問う。大丈夫ですと、誰かが答えた。
「ありがとう、よくやった」
 エドガーは、部下の働きを称える。自分の体が激しく痛むことも、仲間の無事を確認すると、少しは和らいだ。
「ただ、残念だが俺は、自分の身を守れなかった。恥ずかしい限りだ」
 あの爆発は、出現した魔物を全て倒したと思われていた頃に起った。魔物はまだ一体、存在していたのだ。民間人の避難はスムーズに行われていたが、それによってパニックになる人の群れは、全く制御出来なくなる。我こそはと逃げる中、怪我をした人間は逃げ遅れた。そこに至るまでの被害を最小限に抑えられたのはギルドの人間の存在が大きい。たまたま任務を終えた帰りに遭遇したわけではあるが、きっちりギルドとしての役目は果たせた。エドガーはそう思っている。
 しかし、その最後の一体の魔物は他のものとは比べ物にならない強さで、さらに、初めて見た魔物だった。容姿そのものは人型で、一本の腕が長々と伸びていた。手は魔物の体と同じ程の大きさで、鋭い鉤爪が伸びていた。
魔物は影に溶け込んで姿をくらませる。そして、隙をついて放たれる炎属性の魔術は強力なものだった。さらに、時限型の爆発する光弾と、本体との肉弾戦の組み合わせに、ギルドの面々は完全に翻弄された。エドガーも接近戦を挑み続けるが、全く歯が立たず、最後には魔物の手の中で圧死するのを待つのみとなったが、仲間が無防備になった魔物のコアを貫き、魔物は消滅した。今思うと、囮としては役に立ったと、気休めにそう考える。それでも、情けない戦いだ、エドガーはそう思い返す。
 その姿を、ニルスは焼き付けていた。
 このまま放っておけば、父の命はまず失われる。だが、所詮切り傷や、足の怪我を治した程度の力だ。こんな大怪我を治せるはずがない。
 しかし、また、体は自然と動き始める。悲しみに暮れる大人たちを尻目に、ニルスはエドガーの心臓があるであろう部分に両手を置く。
「ニルス……?」
「僕はどうなったって構わない……でも、少しだけでいいから、お父さんの怪我が、治りますように……」
 ニルスは瞳を閉じる。呪文のような言葉は、エドガーの心を先に癒す。
 しかし、エドガーは気づいた。あれ程動かなかった腕や足が、言うこと聞くようになっていることに。薄い青色の光が体を包み込む。魔物に潰されかけた先程とは真逆の感覚だった。
 ニルスの体がエドガーの体に覆いかぶさる頃、誰もが目を疑う光景がそこにあった。エドガーの体からは、傷一つ消え去っていたからだ。その対価のように、ニルスはしばらく、深い眠りに就いた。

   ◇ ◇ ◇

 ニルスが学校に来なくなったのは、あの事件があった次の日からである。毎日、ニルスは家に籠ったきりで、外には出てこない。
 その理由は、自分の力が怖くなったから。
 エドガーを救った治癒術、しかし、ニルスは傷一つ消し去ってしまった自分の力を、恐れ始めたのである。
「今日は、大分落ち着いたみたい」
 ニルスの家に上げてもらうなり、ユリアはリナにニルスの状態を聞く。良い知らせを聞いて、少しほっとした。
「卒業式くらいは、出てほしいのだけど」
 リナは頭を抱える。
「ニルスが選んだことを阻む理由はないけど。でも、こんなことになるなら、って思ってしまうわ」
 あの場に居たからわかることで、ニルスへ向けられた目は、どれも冷たいものであった。普段は優しいギルドの面々も、起こった事態を理解できる様子ではなかった。ニルスが眠ったことが、不幸中の幸いといったところか。
 リナはユリアを連れて、ニルスの部屋の前に行く。
「入るわよ」
 鍵のついていないドアであるため、出入りは自由だった。
「ユリアちゃんも来てくれたわ」
 ベッドの隅で膝を抱えたままのニルスがこちらを向く。目の下の隈が酷く黒みがかっている。
「久しぶり」
 ニルスは、一応は笑ってくれた。しかし、その場を動こうとはしない。
「ごめんね。学校、ずっと行けなくて」
「ううん。こっちこそ、いつ会いに来たらいいのか、わからなくって。遅くなってごめんね。それに、みんな、心配してるよ」
「まさか……あんな危ない子供、うちのクラスに置いておけないって、苦情が来たんでしょ」
 ユリアは顔をしかめる。図星だった。クラス内では、むしろニルスは称えられている。人を救ったという行為や、その行動を起こした勇気を、評価する声が多い。しかし、皆はそれを、家では隠している。全員とは言わないが、半数の親は、あまりこの一件を快くは思っていないようだった。それに、担任の教師は電話の対応に追われている。
「自分でやったことなんでしょ。最後まで、責任持ちなさいよ」
 だからこそ、ニルス一人が苦しんでいるわけではないことを伝えに来たのだ。家族も、友達も、先生も、ニルスのために必死になっているのだから、自分一人でその苦しみを抱えてほしくないのだ。少々きつい言葉になっても、仕方ないと割り切って、ニルスにぶつかってみる。
「私は信じてるよ。ニルスが学校に来るって。卒業式まで、あとちょっとだから」
 吐き出した感情に悔いはない。言いたいことを言えずに終わるより、言って後悔しようと決心したのだ。その勇気は、ニルスから貰ったものだ。
 ユリアが帰った後、リナはニルスの部屋に戻る。
「彼女にびしっと言われちゃったわね」
 ニルスは苦笑いする。
「それがユリアの良いところで、僕が好きなところだよ」
 今日は落ち着いているのか、表情がちゃんとある。それだけでも十分だった。
「ニルスにしかない答えを見つけなさい。私は、あなたの勇気を忘れないわ」
 この一週間、リナはいつも自分のために傍にいてくれた。ニルスはそれをわかっていて、中々顔を上げることが出来なかった。
「ありがとう、お母さん」
 リナは一安心した。
「辛い時は、泣いたっていいんだから」
 ニルスは、それでも笑う。不思議な子ねと、リナも笑った。


 夜になって、エドガーとハンスが帰ってくる。
「久しぶりに顔を見たな」
 リビングには、ニルスがいつものように笑顔で待っていた。
「明日からは、学校に行くよ」
 武器の入っている鞄が、ハンスの手から離れる。大きな音を立て、鞄はその場に崩れた。
「ごめん、あの時、何も言ってやれなくて」
 ニルスは、強い、自慢の兄が泣いている姿を初めて目の当たりにする。
「お兄ちゃん……」
「泣くなよ、バーカ」
 シリアスな雰囲気を、エドガーは笑い飛ばす。
「お帰り」
「ただいま」
 やっと言えた、ニルスは嬉しくなった。
「後で、話したいことがあるんだ」
「僕も」
 それは、とても大事なことだ。


 ニルスとエドガーは対面する。正座をするニルスとは対照的に、エドガーは胡坐をかいている。
「お前の部屋、相変わらず整理整頓されてるな。俺とは大違い」
 エドガーは息子のしっかりとしている部分に感心する。
「ごめんなさい、今まで黙ってて」
「あとでハンスにも言ってやれよ。あいつも、ずっとお前のこと気にしてたんだから」
「うん」
 あの時、言わないでおこうとした自分への罰がこの一連の事件だとしたら、ニルスは悔やみきれない。もちろんそうではないのだが、黙り続けた自分への罪悪感は拭えずにいた。ちゃんと、自分の口から打ち明けたかったのに、それが出来なかったことが情けない。
「ニルスに、命を救ってもらった。なのにニルスが苦しむなら、お父さんはあのまま死んでいたほうが良かったか」
「そんなことないよ。でも……あそこまで傷を治せるなんて思わなくって。それに、怖かったんだ。こんな力を、僕が持っているなんて」
「それもそうか」
 エドガーやリナは治癒術に関心がなかったせいもあり、子供に治癒術のことを悪く言うことはなかったが、一般的には治癒術は悪のレッテルを貼られている。学校の授業でもそう教わっているようであるし、ニルスが治した怪我の規模を考えると、文献に残されている事態を想像せずにはいられないことも理解は出来た。
「どうしたらいいのかって、この一週間、それしか考えられなかった」
 あの時のことは、しっかり目に焼き付いている。黒いアンダーウウェアに染みる血液。腕は完全に骨が折れていた。左足の甲には何かが突き刺さったような跡があり、背中には鋭い爪で深々と刻まれた傷がある。鎧の装甲すらも破った、深い傷を、ニルスは見えていないはずなのにしっかりと見えていた。エドガーの怪我の情報が、脳内に流れ込んだのだ。そしてそれは、もとの姿に構築されていく。誰にでも誇れる、愛すべき父親は、頭の中でちゃんと生きていた。そして、それが転写されたかのように、今ここにエドガーは存在している。男性の怪我もそうだった。軽い捻挫のようだったが、患部に手を当てて始めてわかったことだった。
 しかし、ニルスは自分のその力を受け入れることが出来なかった。所詮包丁やカッターで出来た切り傷を治したりの程度でしかなかった認識が、捻挫を治せる程度までに引き上げられ、最終的には瀕死の重傷すらも跡形もなく消し去ってしまった治癒術を、ニルスは手放したくなった。
 あれから、嫌な夢を何度も見た。助けたはずのエドガーが、何度も夢の中では目を覚まさなかった。
「僕、これからずっと、この力と向き合わなきゃいけないことはわかっているんだ。でも、僕はそれが出来る程強くないんだ……。どうしたら、どうしたらいいの……」
 永続的に抱える悩みは消えない。これから先も立ち向かわないといけない問題ではある。
「泣けよ、泣きたいなら」
 エドガーは胸を開ける。そこにニルスは飛び込む。厚い胸板に顔を埋め、大声で泣いた。
「こんな僕だけど……大丈夫かな……嫌われたりしないかな……」
 家族や友達が自分のことをどう思うか、それは不安なことだった。
「信じてくれていいんだ。そして、信じてくれた人を、ニルスが信じればいいんだよ」
 ニルスはその優しさに触れて、手を握り締める。自分の周りには、これ程に自分を信じて待ってくれている人がいる。
「ありがとう、お父さん」
「礼を言うのはこっちのほうだ。ニルスは命の恩人だ」


 同じようなことを、ニルスはハンスにも言われた。
「今更言っても、遅いか」
「そんなことないよ」
 そう言ってくれると、気が楽になる。あの時は、ニルスにかけるべき言葉が全くわからなかった。
「それに、お父さんのところへ連れて行ってくれたのはお兄ちゃんだから。嬉しかった。こっちこそ、黙っててごめんね」
 ニルスは逆に、そっと背中を押してくれたハンスに感謝している。一歩踏み出すのが怖かったが、「行くぞ」と言ってくれたことで、ニルスは救われた。ここに生きていていいと思えたのだ。
「もっと強くならなきゃ。僕は僕だって、信じてあげられるように」
「俺もまだまだだな。よし、今度から、一緒にトレーニングするか?」
「いいの?」
「もちろん」
 ニルスは声をあげて喜んだ。
これから、ニルスはギルドの一員となるのだ。兄として、ギルドの先輩として、教えたいことが沢山ある。その上で、ニルスのことをもっと知らなければと、ハンスは考える。それに、一人より二人のほうが、何でも楽しいし、安心する。
「俺は、ニルスの味方だからな」

   ◇ ◇ ◇

「卒業おめでとう!」
 いつものレンガの道を制服姿で帰るのは、今日が最後だ。
「今日は、ユリアの家に行っていい? パン買って帰ろうかと思って」
「校則違反だけどいいの?」
「だってもう卒業したし」
「帰るまでが卒業式でしょ」
 ニルスは笑顔だ。前にも増して、明るくなった。
 クラスの皆は、ニルスを温かく迎えてくれた。担任の教師も、ニルスが来てくれたことで今までの努力が救われたと言った。実は、一部の教師陣や保護者会ではニルスを卒業式に出席させるべきではないという声も挙がっていた。しかし、彼は先陣を切って「ニルスに非はない」ということをひたすら訴えてくれたのだ。結局のところ、それには反対意見ばかりが集まり、晴れてニルスは卒業することが出来るようになった。
「ねえ、ニルス」
「何?」
 ニルスははっと気づいた。
 ユリアの唇が、頬に触れた。
「こういうの、やってみたかったの」
 ニルスは顔を赤くする。こんなことをされるとは、思ってもみなかった。
「こ、心の準備をさせてよ!」
「どうせ無理だって言うんでしょ?」
「う……それは……」
 たじろぐニルスを尻目に、ユリアは手を勝手に繋ぐ。ニルスはユリアの顔を見る。これは何なのかと無言で問うているのだ。
「恋人のシルシ」
 ニルスは目線をユリアから外す。しかし、握られた手の力がどんどん強くなる。
「ずっと一緒だよ」
 小さな声で、ニルスは言う。もっと男らしくなってほしいとは思うが、いざという時にはきっと自分を守ってくれるだろう。
「私も」
 ユリアはニルスとの距離を詰める。肩がぶつかるほどに、寄り添う。
「やっぱり、背が足りない」
 二人とも、同じ高さにある肩を見る。成長期はいつ来るのかと、ニルスは空に向かって叫んだ。
 
  ◇ ◇ ◇

ニルスが怪我を治したあの男性からは、忘れた頃にギルド宛に手紙が届いた。あの時は礼も言わず逃げて悪かったという内容の手紙であった。
 ニルスにとっては特に嬉しい手紙ではなかったが、これを最初に読んだハンスは何故か喜んでいた。理由は聞かなかったが、恐らくニルスの力の誤解が解けたことを喜んでいるのだろう。
ニルスが卒業式を終えた次の日に、あの事件を起こしたと思われる犯人の男が捕まった。どうやら、彼は召喚術を使えるらしく、それに長年悩んできたそうだ。彼は鉄道会社に入社し、車掌として真面目に働いていた。しかし、最近、心を許していた同僚にこのことを打ち明けた際、秘密にしておくという約束を破り、同僚は上司に彼が召喚術を扱えることを告げたのだ。男は何もしていないことを訴えるが、会社側はそれを聞き入れず、年末に会社を辞めさせたらしい。今回の事件は、そんな鉄道会社への恨み、そして、根強く残る魔法への偏見を持つ人間への復讐が動機だと言われている。
 それに伴って、ニルスのことも同じようにとりただされる。犯人の情報収集と共に、連日エドガーの元には新聞記者がインタビューを試みていた。想像通り、質問の内容が酷い。「治された時のお気持ちは?」「息子さんがあんな力を持っていることについて、どうお考えですか?」「過去に息子さんはあのように治癒術を使用したことはありましたか?」
 エドガーはこう言った。
「俺の息子は、治癒術を悪用するような馬鹿でもなければ濫用する程無知でもない。今までだって、このことを周りには隠して生きて来たんだ。それをやれ息子を悪者のように仕立て上げようとするクズ野郎ども、いいか、よく聞けよ! お前らインテリさんにはわからない苦しみを抱えてきた息子は、俺の、最愛の息子だよ。死にかけた俺を救ってくれた命の恩人だよ。誰にも負けない、優しい、強い男だよ!」
 学歴では明らかに負けている人間に言い負かされた記者団は、腹いせにかギルドのバッシングを始める。エドガーは「こんな奴らが高い金もらってんだぜ、嫌になるよな」と呆れたように言っている。そんな中でも、地元紙だけはニルスのことを「小さなヒーロー」として評してくれた。そこの記者の男性は大変優しかった。ニルスやエドガーが聞かれたくない質問は避けてくれ、伝えたいことは何なのかを重点的に聞いてくれた。ニルスの記事が出た新聞を、ニルスの家族とユリアとで合わせて二十枚も買っていたことは、良い思い出である。
 
  ◇ ◇ ◇

あれから、一年が経った。
 ニルスに成長期はようやく訪れ、身長は一年で十センチは伸びた。そのおかげで、ユリアと肩を並べて歩いても、ちゃんと自分の肩がユリアのそれより上になった。
 ギルドに入って一年は、雑用の日々が続いた。想像していたような仕事は一切ない。それに、ギルドに居るときのエドガーは人が違うように厳しかった。自分の息子だからこそ、甘やかすのではなく、徹底して教育するというのがエドガーの信条らしい。しかし、ニルスはそんなエドガーの熱意に応えられるように、努力を続けている。
 対照的に、リナは相変わらずニルスに優しく接してくれた。よく、ギルドから帰るときは落ち込んで帰ることがあるので、厳しく叱るのが憚られているというのが本音のようだが、弱音を吐くことを許してくれるのはリナくらいだった。当初は、リナの前で泣きじゃくる機会も多かったが、半年も経てばそういったことは全然なくなった。「寂しいけど嬉しい」と、リナはよく口にしている。
 ハンスには、よく剣の扱い方を教えてもらっている。歳も近く、兄弟であるということもあり、よく相談に乗ってもらう。また、毎朝のランニングでは、当初は全くハンスの速さについていけなかったが、最近は背中をしっかりと追えるようになっている。相乗効果なのかハンスも著しく成長を続けており、任務を単独で受けることを許可されるようにもなった。


 今日は、久しぶりの休みである。ニルスはカッターシャツにベストを重ね、普段よりおしゃれな格好で出かける。
 待ち合わせは、時計台の広場。噴水があり、露店が並んでいて、子供たちがピエロに群がる、あの広場だ。
 時間より早く着いたニルスは、ベンチに座ってぼんやりと空を眺めている。平和な、美しい世界に生きていることを実感する。
 ふと、泣き声が聞こえるので、ニルスは視線を落とす。男の子が一人、足を擦りむいて泣いている。
「はい、絆創膏」
 ニルスは彼の元へ行き、絆創膏を手渡す。貼る前にちゃんと傷口を水で流すようにと、忠告した。
 治癒術は、滅多に使わない。今の医学で治せる怪我であれば、治癒術を使うものではないというのが、ニルスが現在持っている意思である。それに、この力を完全に理解してもらえたわけではない。この町にも、まだニルスを悪魔の象徴として捉える人がいる。世界中探せば、理解出来ないと答える人間のほうが多いだろう。
 ニルスの願いは、そんな誤解がこの世界から消えることである。事件を引き起こした男のような人間が、二度と現れてはいけない。誰も傷つけていないのに、無実の罪を突きつけられるのは間違っている。ニルスはそう考えている。
 そんなことを考えているうちに、約束の時間になる。
「お待たせ」
 いつもの元気な声がする。誰なのかを、ニルスはわかっていた。僕は今日も、永遠と一瞬の交わる世界に息を続ける。それはこれからも決して変わらない。きっと、変わらないのだ。



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あきゅろす。
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