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その他
9.26/9.27(赤木追悼)
高く澄んだ音で目が覚めた。


しぱしぱする瞼を開くと、飛び込んできた真っ白な光にしばし視界が暗転する。

慌てて目を閉じ、先ず細目を開けて視界を慣らす事にした老人は、明るく光る楕円の世界の隅に、見慣れた風鈴を見つけて安堵の息を吐いた。

どうやら先程の音はあの風鈴のものらしい。



季節外れの風鈴は、彼の曾孫の手によって六月に吊されてから、三ヶ月以上もの間ずっと変わらずにそこにある。

足が悪く一日中長椅子で昼寝をしている彼は、もう何度もその音を聞いている筈だったが、老化した彼の脳はすぐにそれを曖昧にしてしまう。


連れ合いを亡くしてから他人との会話が不自由になった。
歳を取ると共に話の出来る者は減っていき、いきなり昔話を始める老人に、娘達は痴呆という判定を下した。

それからは扱い自体が幼子に対するものへと変わっていった。
何を言っても赤子をあやすように流されてしまう。まるで会話が成り立たなかった。

それでも与えられる笑顔はただただ優しく、労りに満ちていたから、老人は仕方なくその待遇を受け入れた。

意思の疎通がうまく行かなくとも、温もりに篭められた思いだけで、老人は十分に幸せだった。



暇を持て余した老人は、ぼんやりと毎日光を見つめ続ける。

埃っぽい部屋の古い畳が暖まり、乾いた日向の匂いが鼻孔を撫でる。

陽射しは強くとも、部屋を吹き抜ける風は冷たく澄んで心地よい。


開け放たれた障子の間から、どうっと風が吹き抜けた。


ちりちりと、契れそうな音で風鈴が鳴る。


小さな子供が笑い転げている光景を連想し、老人は思わず微笑んだ。



「楽しい夢でも見ているの?」


不意に楽しげな声が頭上から落ちてきた。

透明なその声は風鈴の音に何処か似ていて、老人は目を瞬いた。

ゆっくりと光ばかり見ていた目を凝らすと、楕円形の視界に細い足が映る。
視線を上げると、とても美しいものが目に入った。



「久しぶりだね」


そう言って白髪の青年は笑う。
しなやかな体を包むシャツは、背後の空を映したように真っ青だった。


青年の背後で、ちりんと風鈴が鳴った。


「元気そうでよかった」


もうずっと会ってなかったからさ、と続ける青年の顔を凝視しながら、老人は鈍い頭を回転させる。

彼が誰だか思い出せなかった。

ただ胸が痛いくらいに懐かしい事だけは確かだった。


「よく、此処が分かったな」


連れ合いを亡くし、娘と同居する事になった時、高齢の老人には引越し先を知らせるような友もおらず、何の案内も出さなかった。
誰にも知らせていないのに今の住所が何故分かったのだろうと思いながらも、老人は懐かしさに頬を綻ばす。


「随分探したろう、すまなかったな」

「いや、すぐに分かったよ。…それにしても、笑っちゃう位変わらないね」

「そんな事はない。もう立派な爺さんだよ。
お前の方こそ変わらないな、…」


不意に胸を過ぎった違和感に、老人は苦笑混じりの声を一瞬途切らせる。

うっすらと残る記憶の中の彼は、今目の前にいる彼と全く同じ姿をしている気がした。

真っ白な髪と肌も、血の透けた仄暗い赤の瞳も、まるで変わらない。

彼と最後に出会ったのは、遥か昔だというのに。


老人の戸惑いに気付いたのか、青年の顔から笑みが消えた。



ちりちりと風鈴が鳴る。

ざわりと水気を含んだ風が暖かな部屋の空気を奪っていく。


老人が冷気に身を震わせていると、青年は椅子の腕置きに両手をついてその整った顔を寄せた。



「やっと違和感に気付いたの?相変わらず鈍いね…」


触れる息さえ冷たく感じ、老人は身を竦ませた。



「迎えに来たんだ、南郷さん。一緒に行こうよ」



ごう、と風が凶悪な唸り声を上げる。

煽られた窓がガタガタ奮え、狂ったように風鈴が鳴る。


囁やかれた声の冷気に、目の前にいる彼は既に人外のものであると知る。


恐ろしさにぎゅっと目を瞑ると、少しの沈黙の後戸惑ったような声で名を呼ばれる。

そっと目を開くと、怖ず怖ずと伸ばされた真っ白な手が、ぎこちなく止まる所だった。


何故か胸がキン、と痛んで、老人は言葉が見つからぬまま無意味に口を開いた。





「ねぇお母さん、おじいちゃんの部屋の窓があいてるよ」



唐突に、背後で明るい声が弾けた。


「あら、さっき閉め忘れちゃったのかしらね…。
  ちゃん、閉めて来てあげて」


はーいと素直な声が言い、とたとたと危なっかしい足音が近付いて来る。

誰よりも愛しい曾孫の体温が近付いてくるのを肌で感じながら、安堵の息を吐きかけた老人は、青年に戻した目を見開いた。



ほっそりとした少年が、酷く傷ついた顔をして立っていた。


その顔は何処から見ても完璧な無表情なのに、細い体の中には今にも泣き出しそうな程、透明な水が満ちているのが分かった。



(ああ、やっぱり…)



この少年を確かに自分は知っていた。



風鈴が悲鳴のような音で鳴く。

耳をつんざくようなそれも気にならず、老人は俯いてしまった少年を凝視する。



「ああもう、  、その風鈴、外しちゃいなさい」

「でもお爺ちゃん気に入ってたよ?」

「いいの。もう季節外れなんだから、いつまでも飾ってたら恥ずかしいでしょう」



風が泣き叫ぶように吹き抜ける。


小刻みに鳴る風鈴は、鳴咽するように澄んだ音を零す。




「南郷さんは」



幼子の手の中でちり、と鈍く風鈴の音が止まる。


不意に風が止んで、そのまま世界が停止する。




「いつだって俺じゃない何かを選ぶんだね」




ぽつっと呟いた声が、微かな風と共に耳を駆け抜けて体の奥底から記憶を呼び覚ます。


真っ暗な夜、雨の中、鄙びた雀荘に飛び込んで来た少年。

その人生をまるきり変えてしまった自分。



(ああ、そうだった。
あの時もこんな、とても人とは思えない、澄んだ目をしていたんだった…)



俯いたままの少年の体が、ぶるりと冷えた風に震えた。


その脆さに堪らなく切なくなって、老人は白い腕に向かって手を伸ばす。

細い掌を掬いあげ、冷たいそれを両手で暖めるように包み込む。


昔どうしても踏み込めなかった一歩を、今なら易々と越えられた。




「ごめんな、ずっと寒かったんだろう?」




本当は、彼が自分に何を求めているのか、朧げながら知っていた。


けれど踏み込む勇気がなかった。
彼の果てしない才能と欠落した何かが、平凡な自分にはどうしようもなく恐ろしかった。


だから逃げたのだ。

全て見えない、気付かないふりをして。



「今までごめんな。…本当はずっと、こうしたかったんだ」



きゅっと握り混んだ掌を、もう片方の手で優しくと擦る。


少年の顔が、くしゃ、と歪んだ。



「…相変わらず狡いな、南郷さんは」



非難するような口調に反して、微かに声が震えていた。



「そんな事したら、もう離さないよ?それでもいいの?」




「お爺ちゃん、寝てるの?」




背後で曾孫の声がした。


一瞬振り向きかけた視線を、老人はゆっくりと戻す。



「ああ。今度こそお前の気が済むまで、ずっと側にいるよ、アカギ」



それはあの時の自分には出来なかった事だった。


瞬いた少年は、心底おかしげに、泣きだしそうな顔で笑った。



「流石南郷さん…笑っちゃうくらいストレートなプロポーズだね」




微笑み返した老人の顔から、ゆっくりと老いが消えていく。

出会った時の姿をした二人は、そっと互いの手を握った。


出会った頃には出来なかったその何でもない行為に、自然に笑みが浮かんだ。




「お爺ちゃん…?」




少年に手を引かれ、大きな背を屈めた男が歩き出す。




ちりん、と空から聞こえてきた音が、澄んだ風の中へと消えた。










9.27


曾孫の暖かな手に揺さぶられながら、永遠の眠りについたその老人の顔は、何処までも幸せそうであったという。



















ああ、こんなものしか書けないなんて。

しかも間に合わなかった。
ごめんなさい。


でも貴方の事が、貴方達の事が、とても大事な事には変わりないよ。

この先彼らの話を書かなくなる日が来たとしても、ずっとそれは変わらないから。



さよならと悲嘆よりも、ありがとうと大好きを。

力いっぱい、貴方に向かって叫ぶよ。



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